初瀬街道(名張市(丈六〜新田))

−初瀬街道の空白期間と、美旗古墳群を巡る…−

   

山行概要

日 程
2023年11月19日(日)
山 域
初瀬街道
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
近鉄赤目口駅=0:05=丈六橋=1:05=名張中町=0:45=近鉄桔梗が丘駅=0:55=美波多神社=0:15=新田宿=0:45=近鉄美旗駅【3:50】

記録文(写真はクリックで拡大)

 前日の土曜日18日は、寒気が入り、生憎の天候であり、家で沈殿…
 天候は無事回復し、始発電車で出撃! 初瀬街道の空白地域である、名張市の丈六〜新田間を狙う。
 この区間は、複線になっていたり(丈六〜名張市街)、旧街道が宅地開発、ゴルフ開発等で消滅し、やむなく迂回路を取ったため、正規の街道跡を歩いていない(名張市街〜新田)などの空白区間となっており、初瀬街道をコンプしてから、ずっと気になっていたのだ。
 枚方から、赤目口は遠い… 2時間近くを要し、7時過ぎの到着。すぐに歩き始める。

八幡神社拝殿と大ケヤキ 7:18

 駅からいったん大阪方面へ100mほど戻り、踏切を渡って、赤目町丈六の集落内に入る。すぐに八幡神社が鎮座する。
 八幡神社は、かつての丈六村の氏神で、正和3年(1314年)に京都の石清水八幡宮の神興を買求め、観応元年(1350年)に鎮座したという。
 天正伊賀の乱(第一次:天正6、7年(1578、9年)、第二次:天正9年(1581年))で、灰燼と化すが、その翌年、ケヤキの大木の元である現地で再建された。
 丈六の地名は、この地の寺に丈六尺(約4.8m)の大きな釈迦佛が置かれてあったことに由来する。
 大ケヤキは、拝殿の向かって左脇にあり、幹周囲625cm、樹高31mを誇る。

水神碑 7:20

 八幡神社から北に進み、街道筋に出る。三重県さんがネットに公開している「みえの歴史街道」のマップでは、この丈六から名張市街までは複線区間として記載されており、2年前に初瀬街道を歩んだ時は、宇陀川の北側の街道筋をルートに取ったので、この街道筋が未踏になっていたのだ。
 街道筋をいったん奈良方面に戻り、丈六橋までの辺りまで見学してみる。橋の東詰には、水神碑が立っている。安政6年(1859年)の水害で周辺が大きな被害を受けたため、建立されたもの。碑の裏面には「滝水の いくたび岸を洗うとも 壊しとせじな 水神の神」と刻まれている。

丈六寺本堂 7:27

 改めて、街道筋を北東に進んで行く。落ち着いた町並みが続く。
 すぐに左手に丈六寺が現れる。
 丈六寺は、寺伝によると、大宝2年(702年)の創建とされ、大同年間(806−10年)に空海が、室生寺建立に当たり、四方に設けた四門の北門霊地に位置付けたと伝わる。
 一町四方の境内や、多数の堂宇を有していたが、八幡神社と同様、天正伊賀の乱で焼失したという。
 慶長3年(1598年)に再建され、現本堂は、寛政4年の建立である。

丈六寺境内の石造五輪塔 7:28

 境内には、東大寺を開山した良弁僧正の供養塔と伝えられる石造五輪塔が建っており、鎌倉期後期の作とされ、名張市の有形文化財に指定されている。

赤目町相楽の町並み 7:37

 さらに北東に街道筋を進んで行くと、相楽の集落に入った。ここも落ち着いた町並みが続く。

相楽神社 7:40

 集落の中央で少し右手に入ると、相良神社が鎮座する。
 相良神社は、400年以上前に春日大社の若宮社の分霊を移し祀ったのが始まりで、村人の信仰篤かったが、天正伊賀の乱で焼失し、万治2年(1659年)に再興されたという。
 明治41年(1908年)に丈六の八幡神社に合祀されたが、地元の氏子の総意により、平成4年(1992年)11月に分祀された。
 西側には、大日堂が建っており、牛の病の厄除けとして信仰された。

藤光大神社 7:55

 いつしか、宇陀川に沿って進むようになるが、黒田大橋の手前で、右手の細街路に入る。
 この分岐には、藤光大神社が鎮座しているが、ネットでは、特に創建等の記載は無かった…

稲荷神社 8:04

 R165を横断し、さらに細い住宅地を北東に進んで行くと、名張川に突き当たる手前に稲荷神社が鎮座する。
 伝承では、今から400年以上前に稲荷大神が伏見から分霊され、当地に鎮座したと伝わるが、「神社記」によれば慶長2年(1597年)、伏見稲荷大社から分霊勧請したとあり、五穀豊穣を守る祖神として信仰されてきた。

鍛冶町橋を渡る 8:06

 鍛冶町橋で名張川を渡り、名張市街の中心部に入って行く。

清風亭の玄関棟 8:14

 渡橋後、すぐの辻を左折し、古い町並みの残る鍛冶町を西に進んで行く。ひと際風情のある町家が通り南側に現れる。清風亭である。
 清風亭は、大正3年(1914年)、川魚料理店兼旅館として創業し、現在も料理屋として営業を続けている。名張市出身の推理作家、江戸川乱歩も訪れたという。
 玄関棟と客室棟の2棟からなり、玄関棟は木造二階建て切妻造平入桟瓦葺きで、1階が出格子、2階が格子構え。客室棟は木造二階建て切妻造桟瓦葺きで、1階に6畳の客室が2室、2階には10畳の客室が3室ある。南側の縁側はガラス格子窓で名張川の景色が望める。
 2棟の正確な建築年は不明だが、創業時には既に建っていたという。今も建築当時の趣を色濃く残しており、国登録有形文化財に登録されている。

蛭子神社 8:15

 清風亭のすぐ西に蛭子(えびす)神社が鎮座する。
 蛭子神社の創建は不詳だが、各種地誌から、当社が古くから崇敬されていたことが分かる。
 地元の方々から、商売繁盛の神様「えべっさん」として親しまれ、毎年2月8日の例祭「八日えびす」では、蛤が周囲の露天で売り出され「蛤市」としても有名である。

木屋正酒造鰍フ店舗兼主屋 8:18

 さらに西に進むと、T字路がある。ここで前回初瀬街道を歩いた複線ルートと合流し、右折して本町へ。
 すぐ左側に杉玉が釣られた町家が現れる。木屋正(きやしょう)酒造鰍ウんだ。
 木屋正酒造鰍ヘ、江戸中期の文政元年(1818年)の創業。当時の風情を残した店舗兼主屋は登録有形文化財に指定されている。
 主力銘柄は「高砂」で、伊賀地方を中心に販売していたが、すべての工程を見直して造られた新ブランド「而今(じこん)」を 平成17年(2005年)にリリース、全国の地酒専門店に卸している。

辻の丁子屋 8:21

 ここからしばらくは、記憶にも新しいルートを辿る。木屋正酒造鰍ゥら北東に進んだ先に辻があり、街道筋は直角に左折する。この辻の西隅に町家が建っている。
 丁子屋という呉服屋で、昔からの老舗が残っている。かつてはこの辻に道標があったとのこと。
 街道筋を北西に進んで行くと、変形の交差点があり、石鳥居が建っている。これが宇流冨志禰(うるふしね)神社一の鳥居で、今辿って来た街道筋は、そのまま宇流冨志禰神社まで500mほど続いており、神社の参道も兼ねている。

宇流冨志禰神社一の鳥居 8:25

 宇流冨志禰(うるふしね)神社一の鳥居は、江戸時代前期に名張藤堂家の3代目長守が、42歳の祝いに檜の大鳥居を寄進したが、宝永7年(1710年)の名張大火で焼失、その後、名張藤堂家や町民から浄財を募り、安永7年(1778年)に、総工費43両を費やし、高さ6m、笠石の長さ7m、柱の周り1.9mの石の大鳥居が完成した。名張市の有形文化財に指定されている。
 明和8年(1771年)、おかげ参りが大流行し、一日に9000人以上の旅人が名張の街を通過し、一の鳥居付近で名物の焼き餅やお茶などを出してもてなしたという。
 鳥居横には、樹齢300年ともいわれる大きな松があり、おかげ参りが盛んだった頃から町の歴史を見守っている。

梁瀬水路 8:25

 一の鳥居の建つ辻を右折した、すぐ先の右手に情緒ある水路が流れている。
 これが梁瀬水路で、寛永13年(1636年)、名張藤堂家初代高吉が、伊予の今治から名張に入封し、町づくりを始めた頃に開削された水路で、名張川の高岩井堰取水口から、川の水を取り入れ、町中に巡らされている。
 名張の歴史的景観資源であり、今でも人々の生活と密接に関わっている。
 街道筋は、北から北東方向に進路を変え進む。近鉄名張駅前から続く県道57号線を横断し、さらに進む。

上八町の山口家住宅 8:32

 松崎町から上八町にかけても古い町並みが続く。
 その中でも、街道北側に、ひと際目立つ古民家が現れる。2年前に歩いた際も気になった建物だ。
 山口家住宅で、明治元年(1868)から15年(1882年)にかけて建築された建物を、昭和6年(1931年)に、建物奥の座敷部を残しつつ、正面側を改築し、旅館とした、木造二階建ての建物である。
 正面中央に主玄関を置き、東側に出格子をたて、西側に脇玄関を配置。2階は小部屋を多数配し、正面に手摺を付ける。戦前の街路の風情を良く残しており、国の登録有形文化財である。

両宮八幡宮 8:40

 さらに進むと、県道57号線に合流するが、その手前に屋代が建っている。両宮八幡宮である。
 両宮八幡宮は、明治15年(1882年)、平尾(名張駅の東側一帯)に鎮座していた両社八幡宮を、八町(明治14年(1881年)に創設された集落で、大正13年(1924年)に、上八町、下八町に分割された)の鎮守として勧請したのに始まる。平尾の八幡宮は、もともとは、津藩主藤堂氏の山荘に祀られていた両神の分霊を元治2年(1865年)に勧請したものらしい。
 明治41年(1908年)に、宇流冨志禰神社に合祀されたが、社殿はそのまま残し、下八町(現:東町)の鎮守として尊崇を受け続けてきたとのこと。

 両宮八幡宮から県道を100mほど進んだところにY字路があり、街道筋は県道を離れ、右手に分かれる。
 更に100mほど進むと、またY字路があり、本来の街道筋は左の細道で、今回はこちら(便宜上、「北ルート」と呼ぶ)を辿ることになるが、北ルートは、今日の目的地としている新田宿の先の七見峠越えの箇所が、ゴルフ場の造成により、ルートが消滅している。
 このため、2年前は、ゴルフ場を迂回するルート(便宜上、「南ルート」と呼ぶ)をチョイスし、阿保宿の手前でようやく街道筋に合流したのだ。
 介護老人保健施設の横を通過すると、だだっ広い耕作地が広がり、黙々と北上、蔵持小学校の近くで左折し、県道57号線に再合流する。

シャックリ川を渡る 8:58

 県道を進むとすぐに小川を渡る。「シャックリ川」の標識が立っている。
 シャックリ川は、名張川の支流で、ユニークな名の由来は「川の流れが曲がっているのでしゃくれている」や「川の流れが曲がっているのでシャクトリムシのようなかたちに見える」等々の説があるようだが、決定打はない。
 今では、耕作地整理や宅地開発により流路はほぼ直線化され、源流部にゴルフ場、流域の大規模新興住宅地や工業団地から排水が流れ込むため、名張市の中で最も汚れた川という不名誉なことになっているようだ。

「湯舟谷開路碑」(左)と「二月堂御供田記念碑」 8:59

 シャックリ川を渡ったところにある蔵持バス停の横に碑が2つ立っている。
 左の碑は、常夜燈にしか見えないが、「湯舟谷開路碑」で、明治17年(1884年)の建立。もとはこの先の「開立坂」の登り口にあったという。
 右は「二月堂御供田記念碑」で、明治24年(1891年)の建立。東大寺の二月堂の修二会(お水取り)に関連する碑である。

 「何でこの地に修二会なの?」と調べてみたら、名張の一部は、正嘉2年(1258年)に東大寺の荘園になったほか、名張を含む伊賀国も、修二会と相当な縁があることが分かった。
 信仰心に基づいて寄り合い、ご奉仕する、という講(講社)の中でも二月堂にかかわる講を「圓玄講社」といい、かつて近畿一円に50?60くらいあったそうだが、現在は30前後残っており、名張にもその講があるのだ。
 まず、修二会で用いられる松明の一部を、名張市赤目町の一ノ井集落の「松明講」が調達し、東大寺まで運んでいるのだ。今からおよそ鎌倉期に一ノ井に住んでいた道観長者という人物が、晩年に所有する田を二月堂に寄進し、その所得で「松明を作り修二会に献上せよ」と遺言したことに始まると伝わる。
 そして、現在でも、松明は、一ノ井の極楽寺で毎年2月11日に作られ、3月10日に法要が行われた後、12日に講の人々によって東大寺に運ばれるのだ。昔は徒歩で東大寺まで運んでいたが、昭和8年(1933年)からは電車で運ばれるようになり、さらに、昭和63年(1988年)からは、伝統ある笠間峠越え復活し、徒歩と自動車で東大寺に運んでいるとのこと。こうして二月堂に納められた松明は、一年間保管・乾燥され、翌年の修二会で使用されるのだ。この「伊賀一ノ井松明講」は、760年以上にわたる歴史を有しており、名張市の無形民俗文化財に指定されている。
 凄い! 全く知りませんでした。笠間峠越えの道も歩いてみたくなってきた…
 そして、もう一つ、伊賀には修二会を支える講があり、それがこの記念碑に記された「東香水講」である。講員は山添村、名張市、伊賀市にまたがって構成されており、修二会において、二月堂前の閼伽井屋(若狭井という名の井戸を覆う建物)で若狭の水(香水)を汲み、二月堂の本尊にお供えをする連行衆の案内を務めているのだ。
 この役割は、河内国の「河内永久社」という講と交代で務めることになっており、両講社から6人ずつが選ばれ、西暦の奇数年は、「東香水講」が御幣を持ち、列の右側で手松明を持ち警護に当たり、「河内永久社」は「スワエ」と呼ばれる柳の杖を持ち、列の左側を受け持つことになっており、役割は年毎に交代することとなっている。
 「二月堂御供田記念碑」の碑文には、蔵持の人々が、修二会のために浄財を寄進したことが刻まれている。
 いや〜 勉強になりました。

県道を離れ蔵持の集落へ 9:00

 碑のすぐ先で街道筋は左に分岐し、蔵持集落に入る。
 200mほど進むと、山に突き当たる。ダートの細道が山中へ続いており、本来の街道筋はこの道で、「開立坂」と呼ばれており、開立峠を越えていくのだが、現在は、「桔梗が丘」という近鉄の巨大ニュータウン開発によって、街道は寸断されたので、仕方なく東へ進み、また県道57号線に合流。味気ない車道脇の歩道を北上し、近鉄桔梗が丘駅前を通過する。

桔梗が丘から延びる街道跡 9:29

 しかし、桔梗が丘駅から県道を300mほど北に進むと、歩道が無くなった… 交通量はめっちゃ多く、怖過ぎるので、やむなく左の山手のニュータウンへ避難する。グーグルマップを見たら、ニュータウンの北端から、街道筋が復活しているように見えたので、住宅街を北に進み、住宅街を出て、溜め池の横のT字路を右折し、街道筋へ。
 しかし、100mほど東へ進んだ所で、道は消失し、農園に飛び出した… 「騙された! 引き返すか」と思っていたら、農作業中の夫婦がおり、尋ねてみたら、「農園の北端のフェンス扉から、道は続いている」とのことだったので、礼を言ってフェンスの外へ。
 確かに道は続いていたが、足元はグチャグチャで、普段は全く歩かれている感じがしない道だった。非常に薄気味も悪く、速足で進んで行くと、200mほどで民家の前に出て、舗装路に変わった。この民家も一軒家で、非常に薄気味悪い(失礼)… 引き続き速足で下り続け、「西原」というバス停のところで県道57号線に再合流した。県道歩行を500mほど回避するのに、相当な迂回を強いられてしまった… 後で、近鉄の「てくてくマップ」を見たら、桔梗が丘駅から線路の東側の車道を通るルートが紹介されていた… こちらは多分、歩道があったのでしょう。調査不足でした…

美波多神社へ 10:08

 バス停からすぐ先の三差路で、街道筋は右手に分かれるので、そちらへ。しかし、すぐに、県道に吸収され、以降、平坦な街道筋を淡々と進む。
 「新田西」バス停で街道筋は右折する。少し東に進むと、美波多神社の参道入口があり、左折する。
 しばらく北に進むと、鳥居が現れ、美波多神社の境内へ。

美波多神社拝殿 10:10

 美波多神社は、承応年間(1652−55年)に、新たに開墾された新田村の村民が、氏神として三柱神社を勧請したのに始まる。
 その後、享保16年(1731年)に、加納直盛公(伊賀藤堂藩の奉行職で、当時、水の便悪く荒野原であった新田地区に水路を引くなど。開発に尽力した)の遺徳を顕彰する為に、社内に加納神社を創設し、明治43年(1910年)には、周辺の3社を合祀し、美波多神社と改称し、現在に至っている。
 参拝後、街道筋に戻らず、鳥居前から東に延びる地道を進む。見通しが良く、室生火山群が一望だ。

毘沙門塚古墳 10:16

 イベント広場の前を過ぎると、左手にこんもりとした小山が目に入る。毘沙門塚古墳だ。
 毘沙門塚古墳は、国指定史跡の美旗古墳群の一つで、5世紀中頃に築造された全長約65mの前方後円墳。後円部直径約44m、高さ7m、前方先端部幅20m、高さ3m。後円部に竪穴式石室があったとみられるが、盗掘された模様。
 橋で近鉄線を渡ると、保育園の先に、また小山が。女良塚(じょろうづか)古墳だ。

女良塚古墳 10:20

 女良塚古墳は、前方後円墳の一種の帆立貝式古墳で、全長100m。後円部直径約73m、高さ9m、前方部幅40m、長さ約30m、高さ約3m。5世紀前半の築造と見られている。
 美旗古墳群は、名張川支流の小波田川上流右岸に広がる標高200mの高地に位置する、伊賀地方で最大規模の古墳群で、古墳時代の前期から後期に築造された。馬塚、女良塚、殿塚、毘沙門塚、貴人塚の5基の前方後円墳(帆立貝式古墳)の他、方墳の小塚と円墳の赤井塚から成る。
 女良塚古墳の先で、また県道57号線に合流し、南西に進むと初瀬街道に復帰する。

新田宿の町並み 10:26

 新田宿の町並みに入る。タイムスリップした感じだ。
 新田の名は、文字通り、藩奉行の加納直盛の尽力により、荒地を開墾して作られた町であることがその由来である。伊賀国中から入植者を募り、藩により商業的特権が与えられたり、初瀬街道をこの地に迂回させ通行人に対する商いを許すなどのインセンティブを与えたため、次第に街道上の主要な町場として発展した、藩政期のニュータウンのような地であった。

常夜燈 10:35

 新田宿の東端に常夜燈がある。一段高い新田用水路の傍らに建っている。慶応2年(1866年)の築造。
 初瀬街道は、ここで左折し、七見峠越えを経て、阿保宿に向かうが、ゴルフ場の造成で道は完全に破壊されている…
 この辺りには、以下の昔話が残っている。
 美濃国の土岐氏の奥方が、長谷寺に参拝した帰路、この辺りで奥方の乗った馬が突然、暴れ出し、奥方は振り落されて、なおも馬は奥方に噛み付いたため、家来達が、刀で馬を切り殺したが、奥方様も亡くなってしまった。家来たちは、そのまま美濃国へ帰るわけにもいかず、その場で残らず自害してしまったという…
 そこで、村人たちは、高貴な人たちの思いがけない死を哀れみ、立派な墓を作ることになり、馬をうめた墓を「馬塚」、奥方を埋めた墓を「女郎塚」、奥方様の子を埋めた墓を「小塚」、男女の家来たちを埋めた墓を「殿塚」「貴人塚」、持っていた宝物を埋めた所を「玉塚」、持っていた仏の毘沙門天を埋めた所を「毘沙門塚」と呼ぶことになったらしい…

貴人塚古墳 10:40

 常夜燈の所から、街道筋を離れ、田畑の中を西に進む。左手に古墳が見えてきた。貴人塚古墳だ。
 貴人塚古墳は、全長約55mの前方後円墳で、後円部直径35m、高さ4.5m、前方先端部幅35m、高さ4mで、6世紀初頭の築造とされている。
 さらに進んで行くと、小波田川に突き当たり、しばし川沿いに西に進んだ後、近鉄線の手前で右折し、北にしばらく進むと、近鉄美旗駅前に出るが、その反対側に古墳がある。馬塚古墳である。

馬塚古墳 10:53

 馬塚古墳は、全長142mで、美旗古墳群の中で最大の前方後円墳である。後円部は直径98m、高さ14m、前方先端部幅100m、高さ6mで、5世紀後半の築造と見られている。
 美旗駅で、本日の歩行終了〜 小春日和の好天ハイクでした。

参考タイム

11/19近鉄赤目口駅 7:157:20 丈六橋 7:208:25 名張中町 8:259:10 近鉄桔梗が丘駅 9:1010:05 美波多神社 10:1010:55 近鉄美旗駅

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