天野街道

−大阪府に残る貴重な自然の香り溢れる歴史街道を歩む−

   

山行概要

日 程
2018年11月25日(日)
山 域
天野街道
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
南海金剛駅=0:20=狭山池(南端)=0:20=西高野街道・天野街道分岐=0:10=陶器山=0:15=三都神社=0:45=穴地蔵=0:40=青賀原神社=0:25=金剛寺【2:55】

記録文(写真はクリックで拡大)

 天野街道は、西高野街道と大阪狭山市の今熊地区で分岐し、天野山金剛寺へと向かう道である。
 河内国と和泉国とを分ける陶器山(とうきやま)丘陵の尾根を通る街道で、その昔、狭山の人たちが熊野詣でに向かう道としても利用されとのことで、平安時代後期にはすでに整備され、その歴史は西高野街道よりも古いとも言われている。

 この3連休は、中日の昨日に仕事が入ってしまったので、やむを得ず日帰り2発となっていた。
 天野街道は、西高野街道をやった際に気になっていたのと、中高野街道下高野街道が天野街道起点の狭山池を通過することから、「次は是非!」と思っていたので、タイミングが合った。天気も快晴の予報だ。

 一昨日の下高野街道コンプの興奮冷めやらぬ中、私はまたしても早朝の狭山池に向かう(笑) 何と今週3度目で、何かに憑かれてしまったようだ(笑)  ほぼ始発で枚方を発進し、南海金剛駅には6時半前に到着(天野街道のスタート地点へは手前の大阪狭山市駅の方がやや近いのだが、普通しか止まらないため、金剛まで乗った)。

黎明の狭山池 6:45

 まだ夜も明けきらぬ中、金剛駅を出撃。左手に狭山神社の鎮守の森を見ながら、北へ進む。府道202号線に突き当たり、左折し、西に進むと、狭山池の南端に到着。池尻という地名で、本日の目的地である、天野の里から流れてくる西除川(天野川)が、狭山池に流れ込んでいるところである(ちなみに西除川は、狭山池から再び流れ出し、堺市で大和川に合流する)。
 西に進む、岩室東交差点で左折し、しばらく南に進むと、市の保健センターを過ぎたところに、天野街道の道標があり、右折。林の中に伸びる細道を一気に登っていく。
 今では珍しくなったガスタンクの横を抜けると、古い集落の一角に飛び出る。

西高野街道との分岐 7:10

 どこかで見たことあるなぁと思った、地蔵の建つ辻は、果たして、西高野街道との分岐であった。
 この4月は、左手の西高野街道を直進したのであるが、今回は右手の天野街道に入る。
 しばらく車道を行くが、行く手に陶器山の山並みが近づいてきて、いつしか山道に変わる。

陶器山から西側の眺望 7:20

 河内と和泉の国境を分ける陶器山の尾根が、僅かに宅地開発から逃れて、細々と連なっており、天野街道はまさにその尾根筋を行くのだ。
 途中、アンテナが建つ、陶器山山頂と思しき場所に、無理やり寄り道してみると、やはり「陶器山」の標識が木からぶら下がっていた。

緩やかな尾根を進む天野街道 7:22

 この辺りの天野街道は山中の道だが、散策路状に整備されており、散歩している地元の方も多い。
 平坦な尾根道を飛ばしていくと、三都神社への分岐が分かれるので、また寄り道。もったいないが、一気に急坂を駆け下り、神社の境内へ。

三都神社 7:35

 この社には天野街道を通って熊野詣でに向かう人々が参詣したことから、熊野神社とも呼ばれている。
 伝承では7世紀の創建とされ、兵火で一度焼失するが、16世紀に諦観という僧によって金蔵寺内に再興され、その後、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈でこの神社が残り、金蔵寺が姿を消したとのこと。
 街道筋に復帰し、しばらく尾根道を進む。住宅地がすぐ間近に迫って来るが、何とか山道は維持されている。

金剛・葛城の山並み 8:07

 やがて山中を抜け、細い車道に変り、耕作地を歩むようになる。
 見通しが利くようになり、正面には雄大な金剛の山並みが広がる。
 昔の街並みが残る大野西の集落に入り、ゆるやかに登り、野球場の横を抜けると、地蔵堂が建つ。

穴地蔵 8:20

 これが穴地蔵と呼ばれる地蔵堂で、狭山市の最南端でこの先は河内長野市となる。
 穴地蔵は穴という穴すべての穴の病気に霊験あらたかということで信仰されており、この他、子宝にも恵まれるらしい。あからさまやな(笑)…

長閑過ぎる… 8:33

 穴地蔵から、堺カントリークラブの周囲を時計回りに半周しながら、ゆるやかに下っていくと、西除川(天野川)の畔に降り立った。
 広々とした耕作地の中を進んでいくが、大阪府下とは思えない長閑な光景が広がっている。
 下里総合運動場の前を過ぎると、広々とした境内を持つ青賀原神社。

青賀原神社 9:00

 青賀原神社の丹生大明神は、桓武天皇の延暦3年(784年)9月14日、紀州かつらぎの天野の里からこの地に奉還安置されたと伝わる。
 この丹生大明神は、空海と関係深く、空海が高野山の開山間近にあった頃、この辺りを通行中、急に黒雲が舞い下り、天地が鳴り響き、道端の沢から頭九つの大蛇が出現し、火を放って空海に飛びかかった。
 空海は衣の袖で大蛇を振り払い、不思議な念仏を唱えると、黒雲の中から白と黒の犬を連れた狩人が現れ、矢の先が千筋に分かれる弓で大蛇を退治した。空海がこの狩人に「汝は何人ぞ」と聞けば、「我は一宇金輪(仏頂尊)なり、空海を助けるため丹生大明神に化身し出現した」と述べたという。この狩人こそ後に空海を高野山に導いたとされる狩場明神(高野明神)である。
 丹生大明神は大蛇の死骸に大力をもって土をかけ墓を築くと、その姿を消した。空海はこの墓を「九頭神山」とし「南無阿弥陀仏」と念佛を唱えたことからこの場所を南無阿弥陀仏として今なお、その地名を残し大蛇と共に語り継がれている。

金剛時に到着 9:26

 この後も長閑な山村といった光景の中、歩き続けると、程なく、金剛寺の総門前に到着。
 天野山金剛寺は、観心寺と並ぶ奥河内の古寺の双璧である。
 奈良時代の天平年間(729年〜749年)に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされ、空海も修行をしたとされている。
 平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が住すると、後白河上皇と妹の八条院の篤い帰依を受けた他、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観の弟子となり、二代続けて院主となるなどし、女性の参詣ができたため、「女人高野」と呼ばれて有名となった。

金剛時庭園 9:35

 北朝行在所の枯山水庭園。紅葉にぎりぎり間に合った。
 金剛寺は完全に南朝方の寺だと思い込んでいて、何で「北朝行在所」という名になっているのかと、不思議に思っていたが、説明をよく読んでみると、金剛寺は、事実、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点であったが、何と、正平9年/文和3年(1354年)3月、一時的に京を取り返した南朝方により、北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王が身柄を拘束され、金剛寺に軟禁されたのである。
 しかも、同じ年の10月には後村上天皇自身も金剛寺を訪れ、摩尼院を行宮とし南朝の本拠地としたので、両統が同一場所に存在すると言う非常に奇妙な状況となった。
 この状況は、翌年の正平10年/文和4年(1355年)に光明上皇が京都に返され、正平12年/延文2年(1357年)には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返されて解消され、そして、正平14年/延文4年(1359年)12月には、後村上天皇も観心寺に移っており、金剛寺は行在所の役目を終えた。

金剛時楼門 9:58

 南朝行在所の摩尼院も特別公開されていたので、しっかり見学した後、いよいよ伽藍へ。
 戦災を受けなかったので、鎌倉以降の主要伽藍がほぼそのまま残っているのだ。
 この楼門は、治承元年(1171年)の建立で、慶長年間の大修理で改造されてはいるが、堂々たる大門である。楼門入口の左右には、持国天と増長天が荒々しい姿を見せている。国指定重要文化財である。
 伽藍内部に入ると壮大な光景が広がる。

金堂と多宝塔 10:04

 金堂、多宝塔とも国指定重要文化財。多宝塔は、石山寺の多宝塔と並び、日本最古の部類に入るという。
 そして、金堂の内陣には、三体の仏さまが。中央ご本尊の大日如来、向かって右に不動明王、左に隆三世明王。すべて平成29年(2017年)に国宝に新指定された秘仏で、中央の大日如来は像高3mを超え、圧倒的な存在感で、5分ほど見入ってしまった。

食堂 10:09

 金堂の手前には、食堂が建つ。これも国指定重要文化財。
 食堂は、文字通り、お坊さんたちが食事をする建物だが、この食堂は、後村上天皇が金剛寺に行宮を置いた際に、「正庁」を置いたとされているのだ。
 単に食事だけをしていたところではなかったのだ。
 大満足で金剛寺を後に、バスで河内長野駅へ。この日もあえて「近鉄」で阿部野橋駅へ。

「あべのたこ焼き やまちゃん2号店」で痛飲! 11:41

 もはやルーティンと化した、あべのでの昼呑み(笑) この日は「あべのたこ焼き やまちゃん2号店」でたこ焼きと、写真の明石焼きがアテの炭水化物祭である。
 本店と違い、2号店はイートインスペースがある。明石焼きはどうかなと思っていたが、自慢のたこ焼き同様、ダシが利いていて旨かった。
 さらにルーティンが… 「湯処 あべの橋」に沈没し、佳き休日がまた終わった…

参考タイム

11/25南海金剛駅 6:256:45 狭山池(南端) 6:456:55 狭山市今熊(コンビニ) 7:007:10 西高野街道・天野街道分岐 7:107:20 陶器山 7:207:35 三都神社 7:358:20 穴地蔵 8:209:00 青賀原神社 9:009:25 金剛寺

山行データへ

諸国名山探訪

Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved

inserted by FC2 system