江戸城跡

−出張ついでに江戸城を攻略−

山行概要

日 程
2019年6月11日(火)
山 域
江戸城跡
天 気
晴れ時々曇り
メンバー
単独
コースタイム
JR東京駅=0:10=大手門=0:30=天守台=0:15=平川門=0:20=JR神田駅【1:15】

記録文(写真はクリックで拡大)

 東京での出張用務終了後、昨年度出向していた文化庁の方々と宴会し、散々盛り上がった挙句、1時過ぎから築地へ繰り出し、「築地 すし大 本館」さんへ。

「築地 すし大 本館」さんで〆!@ 1:39

 何と朝4時まで営業(笑)のこの店。1時過ぎでもほぼ満員でびっくり。
 迷うことなく看板メニューの寿司10貫に巻物1本にラストにお好みの握り1貫が選べる「店長おまかせ握り」をチョイス。これで3500円だからコスパ最強である。

「築地 すし大 本館」さんで〆!A 1:57

 最後は平目のえんがわと鰯も追加でオーダー!
 宿に戻ったのは2時半だった(笑)…

 翌朝、半日だけ空きがあったので、何とか7時に起きて、今までちゃんと見ることのなかった江戸城へ向かうことに。

大手門を望む 8:59

 東京駅から地下通路を進み、大手町で地上へ。大手門はすぐ目の前だ。
 江戸城の本丸や二の丸は、現在、「皇居東御苑」として園地化されており、開場は9時である。既にインバウンドの団体客が多数待っている。
 大名が登城する場合、入口はこの大手門か内桜田門(桔梗門)に限られていた。

大手門 9:02

 開場時間になり、大手門から城内へ。
 大手門は、高麗門と櫓門で構成された典型的な枡形門(敵を殲滅するため、石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門)で、櫓門には長大な武器庫である渡櫓を載せている。
 渡櫓の櫓門は桁行40mという大規模なもので、慶長12年(1607年)、築城の名手・藤堂高虎によって築かれ、その後、元和6年(1620年)の江戸城修復の際に、伊達政宗や酒井忠世によって再建され、現在のような桝形門になった。

同心番所 9:08

 宮内庁の管理事務所で入苑札を貰い、東御苑内部へ。かつて三ノ丸だったところだ。
 最初に現れる遺構が、同心番所。江戸城には数十メートルごとに3箇所の番所が置かれ、登城者は厳しいチェックを受けていた。
 城の奥の番所ほど位の高い役人が詰めており、この同心番所は、最も入口側に位置する番所で、「同心」とは下級役人の総称で、徳川家に信任篤い御家人が詰めており、下乗門(大手三ノ門)で二ノ丸に入ろうとする者をチェックしていた。

 下乗門(大手三ノ門)は、二ノ丸への入口となる。
 かつて、大手三ノ門の手前には大手濠と桔梗濠があり、「下乗橋」が架かっており、下乗橋入口脇の同心番所でお供のものをまずは臨検していた(現在、濠は埋め立てられ、同心番所も)。
 「下乗橋」という名の通り、大名は駕籠や馬から降ろされ、臨検を受け、お供はここで主の帰りを待つことも多かったらしい。
 お供同志の話が盛り上がり、他家との情報交換が行なわれ、「下馬評」という言葉の語源となった。
 しかし、例外的に、尾張、紀州、水戸の徳川家だけは、大手三ノ門を駕籠や馬に乗ったまま通ることができたという。さすが御三家。

中ノ門跡 9:08

 二ノ丸に入ると右前方に巨大な石垣が目に入る。これが中ノ門跡だ。
 中ノ門の石垣は江戸城の中でも最大級35t前後の巨石で丁寧に加工された隙間のない「切込みはぎ・布積み」の技法で積まれている。
 この登城路や天守台の石垣など主要な箇所は、西国大名から献上された瀬戸内海沿岸産の白御影石が使われているとのこと。
 さらに、さらにこの上に、かつては巨大な渡櫓が存在していた。相当な威圧感があったと思われる。

百人番所 9:09

 中ノ門跡の手前には長さ50mを超える、巨大な長屋の百人番所が建つ。
 同心番所とともに、下乗門(大手三ノ門)の内外を警護していたところで、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、鉄砲百人組が有事に備えて詰めていた。
 警備を担当したのが、徳川家と縁故のある甲賀組、伊賀組、根来組、そして黒田家家臣によって構成された精鋭部隊の廿五騎(にじゅうごき)組。
与力20人、同心100人が24時間体制で詰める、場内で最大の番所で、同心100人が配備されたのがその名の由来となっている。
 同心たちは、普段は、甲州街道沿いに組屋敷を構えていた。これは、いざという時に、将軍は江戸城半蔵門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、甲府城に逃れるという脱出プランを立てていたためらしい…

大番所 9:11

 中ノ門跡を通過すると、すぐに大番所が現れる。
 大番所は、中ノ門を警備するための詰所で、中ノ門の内側に設けられ、百人番所、同心番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていた。
 江戸城本丸への最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられてる。
 これら、3番所は、江戸期から現存する遺構であるが、宮内庁管理のため、重要文化財等には指定されていない。

中雀門 9:15

 中ノ門跡から、ゆるやかに左、右とカーブしながら登っていく。中ノ門は、江戸城大手口の6門の中で、唯一、枡形を取らない門だが、この屈曲したルートを見ていると、完全に次の中雀門(ちゅうじゃくもん)とセットで、枡形を形成している。
 そして、中雀門で、いよいよ本丸へ。
 江戸城の大手口の登城ルートで、本丸に至る最後の門が中雀門で、本丸・表御殿の玄関門である。大手三ノ門、中オ門を駕籠に乗ったまま通過を許された御三家も、この門では駕籠を下りなければならなかった。
 中雀門は枡形門で、高麗門と渡櫓門の2つの門で構成されており、さらに書院出櫓、書院二重櫓という2つの櫓で守られていた。
 中雀門の名は、四神思想に基づき、御殿の南にあるので、南の守護神である朱雀から名づけれられたと言われている。

富士見三重櫓 9:19

 中雀門を抜けると、本丸跡で、かつては本丸御殿が建ち並んでいた広大なスペースが広がっている。
 まずは、本丸東南隅の富士見三重櫓に向かう。この櫓は、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓で、現存する三重櫓は、明暦3年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)での焼失後、万治2年(1659年)の再建で、どの角度から見ても同じような形に見えることから、「八方正面の櫓」の別名もある。天守焼失後の「代用天守」の櫓ともいわれている。
 富士見櫓が建つ場所は、天守台(標高30mほど)についで高い場所(標高23mほど)に位置し、石垣の高さは14.5m、櫓の高さは15.5mで、櫓の上からは、その名の通り富士をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾等が一望できたといい、さらに将軍は両国の花火もここで鑑賞したらしい。

天守台 9:29

 富士見三重櫓から北に本丸の西端に沿って進み、忠臣蔵で名高い、松の大廊下跡や富士見多聞櫓を見ながら、森の中を進んでくと、パッと前が開け、天守台が見えてきた。
 江戸城天守は慶長12年(1607年)、元和9年(1623年)、寛永15年(1638年)と、将軍の代替わり毎に3度築かれたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火により寛永度天守は焼失する。
 直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれ、計画図も作成されたが、幕閣の重鎮であった保科正之の「天守はこの時代には無用の長物」という意見により、江戸市街の復興を優先する方針となって中止された。
 以後は、富士見三重櫓が実質の天守となり、また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになったという。

天守台からの本丸跡 9:32

 天守台からは、本丸跡が一望できる。
 この広大な空間に本丸御殿が建ち並んでいた。手前から、大奥、中奥、大広間等からなる表という構成。

平川門 9:50

 天守台から東に進み、平川門から城外へ。
 平川門は、三ノ丸の正門であり、旧平川の流路と下平川村があったことで名付けられた。
 御三卿(田安・清水・一橋家)の登城口であり、江戸城大奥の通用門であることから御局御門とも呼ばれていた。また、平川門は江戸城の鬼門に当たり、不浄門とも呼ばれた忌門で、城内での罪人・遺体・病人・下肥をこの門から送り出したとのこと。
 帰りはJR神田駅までプラプラ歩いて、プチ散歩終了〜

「もつ焼き 大統領」さんで朝呑み(笑) 10:27

 フラフラと上野駅に降り立ち、朝から開いてる「もつ焼き 大統領」さんで朝呑み!
 10時過ぎの入店だったが、すでに本店はいっぱいで、向かいの支店に何とか潜り込む。上野恐るべし…
 名物の「大統領特製煮込み」420円とホッピーで、朝から昇天!(笑)
 何とも締まらない、東京遠征でした…

参考タイム

6/11JR東京駅 8:458:55 大手門 9:009:30 天守台 9:359:50 平川門 9:5010:10 JR神田駅

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