羽曳野・藤井寺歴史探索

−世界遺産登録を目指す、古市古墳群を探訪。次々と現れる巨大古墳群に目を奪われる−

   

山行概要

日 程
2018年1月27日(土)
山 域
羽曳野・藤井寺市街
メンバー
単独
コースタイム
近鉄古市駅=0:15=誉田八幡宮=0:10=誉田山古墳(応神天皇陵)=0:10=古室山古墳=0:10=道明寺・道明寺天満宮=0:15=市ノ山古墳(允恭天皇陵)=0:30=津堂城山古墳=0:15=島泉丸山古墳(雄略天皇陵)=0:15=吉村家住宅=0:15=近鉄高鷲駅=0:10=辛国神社=0:10=岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)=0:15=葛井寺=0:05=近鉄藤井寺駅【2:55】

記録文(写真はクリックで拡大)

 土日にイベントの仕事が入らないと、病気のように出かけてしまう。この日は近鉄のてくてくまっぷに掲載されている大阪の17コースのうち、唯一未踏となっていた、羽曳野市と藤井寺市に向かうことに。
 やや寝坊してしまい、古市駅前の白鳥神社を出発したのは9時を回っていた。

白鳥神社 9:15

 白鳥神社は、日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)も合せ祀る。
 神社は前方後円墳(峯ケ塚古墳)の後円部に鎮座しており(前方部は近鉄古市駅や国道に削られている)、この古墳は欽明天皇の賓陵(仮の墓)と伝わっている。
 元々ここには伊岐の宮(素盞嗚命、稲田姫命)が鎮座していたが、そこへ、ここから西の白鳥陵のある軽里の白鳥神社が地震で壊れて遷座してきたらしい。秋の例祭(10月8、9日)は地車が出て、相当賑わうとのこと。
 東高野街道を北上すると、すぐに誉田八幡宮が現れる。

誉田八幡宮 9:30

 誉田八幡宮は、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、このことから最古の八幡宮を称している。
 八幡神が源氏の氏神であることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護された。
 室町時代後期に、戦乱に巻き込まれ、社殿・伽藍を焼失し荒廃したが、豊臣秀吉が社領200石を寄進し、社殿を再建した。再び天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
 江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行っている。
 拝観庫には、源頼朝が寄進したとされる国宝の「塵地螺鈿金銅神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」など国宝・重要文化財が数多く収められている。

誉田山古墳(応神天皇陵) 9:45

 東高野街道をさらに北上し、西名阪自動車道にぶつかったところで左折しすると誉田山古墳の入口にたどり着く。
 「誉田山古墳」(こんだやまこふん)は、古市古墳群を構成する古墳の1つで、全長425mと我が国2位の巨大さを誇る。体積では大仙陵を凌ぐらしい。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第15代応神天皇の陵に治定されている。なので、我々オッサンは「応神天皇陵」の方が馴染みがある。
 仁徳陵も大仙陵に変えられてるし、被葬者が特定できないので、地名を付すというのは至極まっとうな判断だとは思うが、オッサンとしては推定でも天皇の名前を付せて欲しいと思う。悪いのは調査させない宮内庁なのだろうが…

古室山古墳 9:55

 誉田山古墳の向かいにある大鳥塚古墳の東側を進み、西名阪自動車道(よくこんな古墳密集地に高速道を通しましたね…)をくぐると、古室山古墳の前に出る。羽曳野市から藤井寺市に入った。
 古室山古墳は、全長約150mの前方後円墳で、出土した埴輪の特徴から、北隣の仲ツ山古墳とほぼ同時期、5世紀前半の築造と考えられる。
 まだ雪が残る斜面を登り、古墳の上に出ると、南大阪の展望が広がる。斜面を下り、向かいの仲ツ山古墳へ。

仲ツ山古墳 9:56

 仲ツ山古墳は、全長290mの前方後円墳で、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを誇る古墳。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。出土した埴輪の特徴から、古市古墳群では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前半の築造と推定されている。
 次々と現れる古市の巨大古墳群に圧倒されながら、三ツ塚古墳の横を通過し、北東方向に進むと道明寺に出た。

道明寺 10:05

 道明寺は、真言宗御室派の尼寺。
 道明寺周辺は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立され、伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。当時は今の道明寺天満宮の前にあり、神仏混淆の一体のものとして、七堂伽藍や五重塔のある大規模なものだったらしい。
 901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」、「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
 1575年(天正3年)には、織田信長に攻められ、天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。1872年(明治5年)の神仏分離により、道明寺天満宮境内から現在地に移転した。
 本尊の木造十一面観音立像は、菅原道真自刻と伝えられ、カヤ材の一木造で、国宝だが、東博で開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」展で出張中だった…

道明寺天満宮 10:11

 道明寺から東隣の道明寺天満宮へ。祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
 道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
 現在も学問の神として地元の人々に親しまれ、また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られている。

市ノ山古墳(允恭天皇陵) 10:30

 市ノ山古墳は、古市古墳群を構成する古墳の1つで、前方後円墳。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。
 墳丘長は230mで全国19位の大きさ。出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。
 西に住宅地を進み、R170を渡って、大水川沿いの散策路を北上し、小山大井橋を左折し、川沿いを離れ、西へ進むと広々とした津堂城山古墳に出た。

津堂城山古墳 11:00

 津堂城山古墳も前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つで、この陵も実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」として、ここでも被葬候補者は第19代允恭天皇陵墓参考地に治定されている。全長208mで、全国31位の大きさを誇る。
 陵墓から産土神社、小山善光寺と路地を進み、タバコ屋のある交差点で右折し、長尾街道跡を西へ進む。また羽曳野市に戻ってきた。自動車教習所のところで左折すると、今度は高鷲丸山古墳に到着。

島泉丸山古墳(雄略天皇陵) 11:20

 島泉丸山古墳は、古市古墳群では珍しく形状は円墳。「高鷲丸山古墳」と呼ばれることも。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」として第21代雄略天皇の陵に治定されている。
 墳丘の直径は約76メートルで、幅約20メートルの濠がある。古市古墳群の中で最大の円墳である。
 円墳の左側を抜けると、羽曳野市の陵南の森総合センターがあり、府道12号線に合流。しばらく西に進んでから右の路地に入り、左折して吉村家住宅へ。

吉村家住宅 11:35

 吉村家はかつて、周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めた家柄である。主屋は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で焼失後、間もなく再建された歴史ある家屋である。その後幾度か増改築が行われ、現在の姿となったのは寛政年間(1789年〜1801年)の頃である。
 屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいう。上層農家の家格を示すものである。
 吉村家住宅は戦前の昭和12年(1937年)8月に、主屋が国の重要文化財に指定された(当時は国宝)。民家としては日本で初めての重文指定である。

辛国神社 12:04

 吉村家住宅から南へ細い路地を抜けていくと、高鷲駅に続く車道に出、高鷲駅からはしばらく線路沿いに東へ進み、藤井寺駅が見えてきた辺りで右折、1本南の筋を東に進むと、辛国神社に出た。
 「幸国」という名称は、かつてこの地を収めていた物部氏の一支族であり、役小角の弟子であり呪術者の韓国広足を輩出した幸国連から由来している。創建は不詳であるが、日本書紀の雄略天皇13年3月条に「餌香長野邑を物部大連に賜う」とあることから、その頃に物部氏の祖先である饒速日命を祭ったものが始まりと考えられる。
 深い緑に囲まれた長い参道は「大阪みどりの百選」に選ばれている。
 辛国神社から、藤井寺西小学校の脇の細道を南へ進むと、岡ミサンザイ古墳。古墳沿いに反時計回りで回っていく。

濠が一部凍結する岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) 12:15

 岡ミサンザイ古墳は、古市古墳群の西端の位置する巨大前方後円墳で、墳丘長は242mに及び、全国第16位の規模を誇る。
 出土埴輪から古墳時代中期の5世紀末葉頃の築造と推定されるが、築造当時としては突出する規模である。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第14代仲哀天皇の陵に治定されている。しかし、仲哀天皇は非実在性が強く、築造年代も仲哀天皇の想定年代に合わないことから、現在では第21代雄略天皇や、同天皇と同一視される倭王武の陵とする説も有力である。
 この日は滅茶苦茶寒く、濠は一部凍結していた。
 古墳の東側を北上すると、何やら奇抜な建物が…

藤井寺市立生涯学習センター 12:24

 ワロタ(笑) 箱モノ悪乗り行政の典型か。「藤井寺市さん、やっちまったなぁ〜」という感想。「船形はにわ」(藤井寺市で日本最大級のものが出土したらしい)と、「修羅」(藤井寺市で出土した古墳時代の巨石運搬用ソリ)をイメージしてデザインしたらしいが… 日々のメンテはかなり大変で費用も嵩むと思われる。
 愛称は、「アイセルシュラホール」… Activity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたもので、「シュラ」は藤井寺市で出土した古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」を意味するらしいが、無理やり感が凄い…
 よそ様の施設に毒づくのはこれくらいにして、更に北へ。重厚な建物が残っている藤本酒造釀さんを過ぎると、葛井寺の南大門が見えてくる。

葛井寺 12:30

 寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。
 国宝の本尊十一面千手千眼観世音菩薩像は、行基菩薩により開眼せられたと伝えられている。脱活乾漆法(麻布を漆で貼り重ねて像の形をつくる)で造られ、頭上に十一面をいただき、そして正面で手を合わせる合掌手、宝鉢や宝輪、数珠などをもつ40本の大手に、クジャクのようにひらく1001本の小手、合わせて1043本の手を持つ。さらに、掌にはそれぞれ眼が描かれており、まさに千手千眼である。
 脱活乾漆仏は、木造や金銅仏に比べて保存が極めて難しく、現存するものは大変貴重であるらしい。秘仏であり、毎月18日と8月9日の千日まいりの日のみ御開帳される。本日はもちろん非公開日であったが、ご本尊様は、道明寺と同様、東博に出張中だった…

「魚市」さんの豪快造り盛りDX定食! 13:15

 歩いてすぐの藤井寺駅で本日の歩行終了。
 大阪阿部野橋まで出て、少し遅めのランチを「魚市」さんで堪能。これで3000円だから、さすが「魚市」さん。大満足で帰宅した。

参考タイム

1/27近鉄古市駅(白鳥神社) 9:159:30 誉田八幡宮 9:359:45 誉田山古墳(応神天皇陵) 9:459:55 古室山古墳 9:5510:05 道明寺・道明寺天満宮 10:1510:30 市ノ山古墳(允恭天皇陵) 10:3011:00 津堂城山古墳 11:0511:20 島泉丸山古墳(雄略天皇陵) 11:2011:35 吉村家住宅 11:3511:50 近鉄高鷲駅 11:5012:00 辛国神社 12:0512:15 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) 12:1512:30 葛井寺 12:3512:40 近鉄藤井寺駅

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