遠州の城巡り・浜松市街散策

−台風で山行は諦め、衝動的に転進した東海城&グルメ巡りそのA−

   
  

山行概要

日 程
2018年10月7日(日)
山 域
遠州
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
諏訪原城跡駐車場=0:05=二ノ曲輪北馬出=0:05=本曲輪=0:05=諏訪原城跡駐車場【0:10】
高天神城跡北口駐車場=0:10=本丸=0:05=西ノ丸・馬場平=0:05=高天神城跡北口駐車場【0:20】
JR浜松駅=0:15=五社神社・諏訪神社=0:15=浜松城跡=0:10=亀山トンネル跡=0:15=西来院=0:20=犀ケ崖・夏目次郎左衛門吉信の碑=0:25=浜松元城町東照宮=0:20=浜松八幡宮=0:05=遠州鉄道八幡駅【2:05】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日の静岡に続く、東海城巡りの2日目。前夜は、「サウナしきじ」さんの駐車場で爆睡… 途中1回も目が覚めない完璧なワープだった。
 まずは続日本百名城の諏訪原城跡に向かうため、東海道本線に並行しながら、JR金谷駅を目指す。
 大井川を渡ると金谷駅は近い。金谷駅の手前を右折し、県道381号線で一気に山上へ駆け上がり、諏訪原城跡をぐるっと反時計回りで城跡の南側に回り込むと、「諏訪原園茶舗の向かいに城跡見学者用の駐車スペースとトイレがあった。さすがに牧ノ原台地にある城跡らしく、すぐ横には茶畑が隣接している。
 城内に進んでいくと、すぐに壮大な堀跡が現れる。

諏訪原城跡の碑 6:07

 諏訪原城跡は、小夜の中山から菊川宿を経て、鎌塚・色尾に至る東海道と、城の背後に大井川が流れる交通の要衝に立地することから、はじめ武田信玄が砦を築き、その後、天正元年(1573年)、遠江侵攻の拠点及び徳川氏に対する備えとして、勝頼が馬場信房に命じて、牧之原台地に築いた山城である。
 武田家の守護神、諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたと言われている。武田氏が滅亡すると、この城の必要性はなくなり、天正18年(1590年)年頃廃城になったらしい。
 城の特徴として、自然を巧みに利用した三日月堀や丸馬出しなど「甲州流築城法の典型」といわれる遺構が9分通り現存しており、国の史跡に指定されている。

二ノ曲輪中馬出 6:09

 城跡を堀に沿って時計回りに進んでいくと、二ノ曲輪中馬出から、北馬出の突端に出る。
 写真はここから中馬出(右)と二ノ曲輪(中)を振り返ったところで、この間を降りるのをためらうような、垂直に切り立った深い堀(外堀)が穿っている。

本曲輪から、大井川方面を見下ろす 6:15

 中馬出から二ノ曲輪に侵入し、さらに奥へ進んでいくと、本曲輪(本丸)に到達。
 広場になっていて、木々の間から、JR金谷駅や大井川方面を望むことができた。

本曲輪 6:16

 諏訪原城は、高天神城と並んで、対徳川氏の最前線となったが、天正3年(1575年)5月の長篠の合戦で武田軍が大敗すると、徳川家康の遠州攻略が一気に本格化し、翌年の7月には諏訪原城に迫ってきた。
 武田方の城主である今福友清(武田方の駿東群代)は室賀一葉軒らと共に、援軍も期待できない絶望の中、良く守り籠城して耐えていたが、8月に入ると総攻撃が開始され、ついに今福友清が討死すると、総崩れとなり、8月24日に諏訪原城は落城したのであった。

諏訪神社 6:20

 本曲輪を出、「カンカン井戸」(石を落とすとカンカン音が鳴ることから名付けられた)の跡を過ぎ、再び二ノ曲輪を横切っていくと、二ノ曲輪の大手馬出に出るが、ここには諏訪神社が建っている。
 当時は城の中央部に配置あったらしい。武田家が崇信した守護神『タテミナカヌシノミコト』が祀られ、社の瓦には、有名な武田菱の紋所が刻まれている。
 鳥居をくぐると、車道に出、すぐ右で先ほどの駐車場に戻ってきた。
 諏訪原城跡の探索終了。さすがに良く遺構が残っているだけのことはあり、なかなか見ごたえのある城跡であった。

高天神社の鳥居 6:55

 続いて、諏訪原城と同じく、遠州での武田・徳川抗争の最前線となった、高天神城へ。
 菊川沿いにJR菊川駅経由で、南西に進み、掛川市に入る。高天神城へは、北側の搦手口からと南側の追手門側からそれぞれ登路がある。どうせなら表側の追手門側から登城しようと思ったが、台風の影響で、道路が崩落しており、残念ながら車で近づくことができなかったので、北側から登る。
 搦手側の登り口には城内に建つ高天神社の鳥居が立っており、駐車場も整備されている。車を止め、早速歩き出す。

山上への急登 6:59

 高天神城は「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝にあり、標高132mの鶴翁山の地形を巧みに活かした東海一の堅塁を誇った山城であり、山上へは短いながらも急登が続く。
 写真は「三日月井戸」の前で、急登が折れる辺り。

三日月井戸 6:59

 この「三日月井戸」、名の通り形状は三日月なのだが、下から湧く井戸と言うよりは、岩壁から染み出る水が溜まったところ。
 何故か金魚が飼われていた(笑)…
 高天神城は鶴翁山の東峰と西峰そしてその二つを結ぶ尾根によるH字状の構造をしており、三日月井戸からひと登りで、東峰と西峰の間の鞍部に到達。
 本丸があるのは東方の方で、まずはそちらに登っていく。

本丸 7:05

 本丸の少し下段には「御前曲輪」と呼ばれる郭があり、建物の基礎だけが残っていたが、地元出身の軍医がここに模擬天守を建てたらしいが、昭和20年(1945年)に落雷により焼失したという。
 本丸は小平地となっており、御前曲輪以外の3方は崖に囲まれており、さすがの縄張りである。
 鞍部に戻り、西へ登り返す。

高天神社 7:10

 登り返したところが西ノ丸。ここには城を守護する高天神社が建つ。もともとは東峰にあったらしい。
 西ノ丸の奥には馬場平と呼ばれる小平地があり、南側の眺望が素晴らしい。

馬場平 7:12

 馬場平から西北方面は高天神城で唯一緩斜面の尾根が続いているところ。この尾根筋には伝説が残っている
 長篠の戦い以降、武田軍は徳川軍に追い立てられ、ついに天正8年(1580年)9月、徳川軍は満を持して遠州の最後の砦となっていた高天神城攻撃を開始する(第二次高天神城の戦い)。
 城主の岡部元信は1000人程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあい、勝頼も援軍を送ることができず、ついに翌年3月、逃亡する城兵が続出し、岡部元信以下ことごとくが討死して高天神城は陥落した。
 落城の際、軍監の横田甚五郎尹松(ただまつ)が脱出に成功し、勝頼に落城の事実を報告した(この脱出道は「甚五郎の抜け道」現在も残っている)という。

御前崎へ 8:04

 次のターゲットは掛川城だったが、せっかくここまで来たので、静岡県最南端の御前崎に寄ってくことに。
 R150から県道357でひたすら東へ進み、御前崎の駐車場へ。まだ8時前なので閑散としている。
 とにかく風が強く、波も荒々しい。さすが太平洋に突き出していることはある。
 階段を登り崖の上へ。そこには白亜の灯台が建っていた。

御前崎灯台 8:05

 昔から、遠州灘は航海の難所で、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多かったことから、江戸時代初期から幕府の手で燈明堂が建てられていた。
 明治4年(1871年)、軍艦が御前崎の沖合で座礁したことで、洋式灯台の建設が急がれることとなり、お雇い外国人の一人、英国人リチャード・ヘンリー・ブラントン(技師として日本で勤務した7年半の間に灯台26基ほかを設計したことから、「日本の灯台の父」と讃えられている)が設計し、当時の金額で2万5千円余りの巨費を投じ、明治7年(1874年)5月1日に完成した。
 当時最新鋭の、フランス製回転式第1等フレネル式レンズが日本で初めて使用された、白亜の塔形をしたレンガ造の大型灯台で、日本の灯台50選に選ばれているほか、歴史的・文化的価値の高さから、Aランクの保存灯台に指定されている。

掛川城へ 9:08

 満足して、日本百名城の掛川城へ向かう。
 市街地に入ると、折しも「掛川大祭」の開催中で、市内の各所で通行止めとなっており、天守は見えているものの、なかなか近づけない。掛川城公園の市営駐車場へは通行止めだったが、何とか近くのコインパーキングに潜り込むことに成功する。
 掛川城公園へ駆け上がる。

掛川城天守 9:10

 掛川には室町時代中期頃から、守護大名の今川氏が城を築いた記録が残っているが、現在残る掛川城を整備したのは、家康の関八州移封後、天正18年(1590年)に掛川城主となった山内一豊である。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施するとともに、石垣・瓦葺の建築物・天守など、近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
 関ヶ原の戦いの後、一豊が土佐に移った後、多くの譜代大名が移り変わる中で、安政元年(1854年)末の安政東海地震で、掛川城は天守を含む大半の建物が倒壊し、以降、天守が再建されることはなかった。
 その後、平成2年(1990年)から、市民の寄付をきっかけに、天守の再建が始まり、平成6年(1994年)4月、ついに、日本初の木造復元天守(地上2階と塔屋2階建)として、再建された。
 再建に当たっては、山内一豊が築城した高知城を参考に、残された図面に基づき、樹齢300年を越える厳選された青森ヒバを用いて、「東海の名城」とうたわれた往時の美しさを忠実に復元している。

天守からの掛川市街 9:15

 天守自体の高さは16mほどだが、平山城なので、比高は30mほどあり、ご覧のように南方は掛川市街が一望である。
 東方には、富士の姿も垣間見れた。

二ノ丸御殿と天守 9:31

 二ノ丸御殿は、天守と同じく安政東海地震で倒壊したが、政務所としての重要性から、7年後の文久元年(1861年)に再建された。何度か移築されたようだが、建物自体は現存しており、国の重要文化財である。に指定されている。
 城の御殿として現存しているのは、全国でも4箇所(他には、二条城、川越城、高知城)しかない貴重なものである。偶然だが、山内一豊が築城した掛川城と高知城とも御殿が残っているのが面白い。

市内は「掛川大祭」の真っ最中 9:33

 掛川祭は、毎年10月の第2週に行われる祭典で、各種の芸能と屋台祭りおよび獅子舞の三つの面で有名であり、特に3年に1度行われる大祭を掛川大祭といい、何と今年が大祭に当たっていた。
 掛川の祭りは各町の出し物「余興」でも有名で、「かっぽれ」「奴さん」「おいとこ」などの舞踊が披露されるが、特に大祭の年だけに披露される特別な余興が9つあり、これらの中でも西町の「奴道中」、瓦町の「かんからまち」、仁藤の「大獅子」は特に有名で三大余興という。
 中でも瓦町の「かんからまち」は、静岡県の無形民俗文化財に指定されているほか、仁藤の「大獅子」は、日本一の大きさと称し、大阪万博をはじめとする国内外の各種イベントにも単独で出演しているほどである。
 また写真にあるように、屋台の祭りとしても有名で、俗に「御所車型」と言われている二輪屋台が市内各地を巡行する。

浜松へ 10:36

 掛川の探索を終え、昼飯は鰻と言うことで、浜松に向かう。
 下手な高速道路より高規格に整備されたR1をぶっ飛ばして、一気に浜松市内へ。
 市街地中心部の、遠州鉄道第一通り駅の近くに、24時間上限料金1200円のタイムスを発見したので、これ幸いとここに車を止めて、ここから一駅間のJR浜松駅に歩いて向かう。
 高さ212.7m、静岡県随一の高さを誇るアクトタワーが眩しい! この日も昨日と同様、暑くなってきた…

「うなぎ藤田 浜松駅前店」で昼から豪遊!@ 11:10

 何とか走って駅南口すぐの「うなぎ藤田 浜松駅前店」に始業の10分前に到着する。既に4人が店の前で並んでいたが、これ以外に予約客はさほど多くなく、スムーズに11時の開店と同時に入店できた(しかしすぐに満員となった…)。
 まずは、生ビールと、肝わさ750円で至福タイムがスタート!

「うなぎ藤田 浜松駅前店」で昼から豪遊!A 11:12

 続いて、白焼きハーフ1500円! わさび醤油で…

「うなぎ藤田 浜松駅前店」で昼から豪遊!B 11:17

 そして本命のうな重(山)4400円! 赤ワインのハーフボトルも頼んでしまい、ランチからお勘定1万円オーバー!(涙)
 しかし、大満足でした…
 今日も昼からグダグダだが、せっかくなので浜松市内散策を辞める訳にはいかない。
 浜松駅から、鴨江小路を西にしばらく進み、伝馬町の交差点を右折し、しばらくで五社神社・諏訪神社の鳥居が見えてくる。

五社神社・諏訪神社 12:23

 五社神社・諏訪神社は、隣接して鎮座していた両社が、昭和35年(1960年)に法人格を一つとして五社神社・諏訪神社と称したものである。
 それぞれの社殿は江戸時代初期に建築され、現行の文化財保護法上の重要文化財に指定されていたが、昭和20年(1945年)6月18日の浜松空襲で全焼し、現社殿は昭和57年(1982年)の再建である。
 両社ともに徳川秀忠の産土神(うぶすながみ:神道において、その者が生まれた土地の守護神)とされたことから、子守り、子育ての神として崇敬を集めている。
 参拝後、北上し、浜松城方面へ。

家康公鎧掛松 12:40

 市役所西の浜松城を正面に見据える空き地に、ポツンと松が植えられている。
 これが家康公鎧掛松で、元亀3年(1573年)12月22日、三方ヶ原の戦いで信玄に木っ端みじんにされた家康が、命からがら浜松城へと逃げ帰り、城内にあった松の木陰で休み、鎧を脱いで松に掛けたとの言い伝えから、鎧掛け松と呼ばれている。
 初代の松は浜松城榎門(えのきもん)横の包丁堀脇にあったが、昭和7年(1932年)の暴風雨で倒壊し、現在の松は平成4年に地元の方々に植樹された3代目とのこと。

浜松城天守 12:45

 そして浜松城天守へ。
 浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。初期の曳馬城は、現在の元城町東照宮付近にあり、徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称するとともに、城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。この際に城の中心部も現在に移ったらしい。
 家康は、29歳から46歳までの17年間、この浜松城を居城としていたが、天正18年(1590年)に関八州に移り、後は、秀吉の家臣堀尾吉晴が入り、その次男堀尾忠氏まで11年間在城したが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国富田に加増・移封されてからは、徳川家譜代大名の居城となり、江戸時代の浜松城主は9家22代に渡った。

浜松城天守から西方の眺望 12:48

 浜松城は、家康や堀尾吉春をはじめ、江戸期の歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれている。
 天守に登ってみる。堀尾氏在城期に創建されたとされる天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わっていたが、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造、3重4階建ての復興天守が再現された。
 掛川城のように当時の工法で復元されていたら、同じく日本百名城に選ばれていたかもしれない…
 天守の最上層からは富士も見え、

天守門と天守 13:06

 天守の建つ、天守曲輪の下段に本丸があり、そこから見上げる天守と天守門。
 天守門は、天守が姿を消した後、浜松城の最高所に位置する建造物として、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であったらしい。
 浜松城公園を北に抜け、西方へ探索してみる。すると曰くありげなレンガ造りのトンネルが出現。

亀山トンネル跡 13:20

 このトンネルは、かつて浜松市から三方原台地を北上して旧国鉄二俣線金指駅を経由し、引佐町(現・浜松市北区)の奥山駅との間を結んでいた、遠州鉄道の奥山線の跡である。
 大正3年(1914年)に一部開業(元城〜金指)し、大正12年(1923年)に全線開業したが、戦後のモータリゼーション到来により業績を落とし、昭和39年(1964年)に全線廃止された。
 自転車と歩行者専用に整備されたトンネルを抜け、かつて広沢駅があった辺りを過ぎ、しばらく西へ閑静な住宅街を抜けると、西来院に到着。

西来院 13:35

 西来院(せいらいいん)は、正長元年(1428年)、月窓義運禅師(げっそうぎうんぜんじ)によって創建された。
 墓苑には徳川家康の正室・築山殿の廟堂(月窟廟)がある。
 築山殿は、今川義元の姪で、今川氏の人質となっていた家康と結婚し、長男「信康」、長女「亀姫」をもうけ、義元が信長に敗れると、永禄10年(1567年)、信康は信長の娘、徳姫と結婚する。
 信長という後ろ盾を得て、家康は遠江に侵攻して今川氏を駆逐し、浜松城に移ると、築山殿は、岡崎城の城代となった信康とともに、岡崎城に残った。  ところが、天正7年(1579年)、信長が、築山殿と信康が武田氏に内通しているとして、2人の処刑を家康に要求し、同盟関係だったが、実質的には主従関係だった家康が従うという事件が勃発する。

月窟廟 13:39

 信康と築山殿が処刑されたいきさつには諸説あるが、徳姫が「姑と夫が武田に通じている」などと訴えた12箇条の訴状を信長に送り、信長が激昂したためといわれているが、自身の嫡男(信忠)との力量差を恐れた信長が難癖をつけて信康を葬ろうとした事件に築山殿が巻き込まれたとの説も根強い。
 月窟廟(げっくつびょう)は、一時戦災のため焼失したが、築山殿の400年忌となる昭和53年(1978年)に復元された。
 「月窟」の名の由来は、李白の詩「蘇武」の「渇飲月窟水」(渇しては月窟の水を飲み)から来ている。匈奴に捕えられ、穴倉に飲食物を与えられずに捨て置かれたが、雪を飲料水に、旗の飾りの毛を食料として生き長らえたという話で、築山に幽閉されていたという築山殿の戒名(清池院殿潭月秋天大禅定法尼)の「潭月」(「潭」は「池」の意)から付けられたらしい。

犀ヶ崖古戦場の碑 14:15

 西来院から北上し、舘山寺街道に出、東へ進むと、県立の浜松北高校の前を通る。毎年東大に二桁の合格者を出す、県下第一の進学校らしい。
 そして、R257の交差点の東北角に、犀ヶ崖古戦場の碑が建つ。
 犀ヶ崖は、浜松城の西北、約2キロの所にあり、太古、三方原台地が水蝕によって陥没した、東西約2km、幅30m深い断崖である。
 元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原で甲斐の武田軍に惨敗した徳川軍が、ここで夜襲をかけ、断崖に追い落とし、一矢を報いた地である。
 現在、犀ヶ崖資料館となっている宗円堂には、三方ヶ原合戦による両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるために、毎年7月15日に犀ヶ崖において、遠州大念仏が行なわれている。

夏目次郎左衛門吉信の碑 14:17

 犀ヶ崖古戦場からR257を挟んだ西側には、夏目次郎左衛門吉信の碑が建つ。
 何でも、夏目次郎左衛門吉信は、永禄6年(1563年)の三河一向一揆のときに捕えられ、処刑されるところを家康の寛大な処置によって助けられたことから、これを恩に感じ、三方ケ原の戦いで敗走する主君家康の身代わりとして武田軍の前に立ちふさがり、討死したという。
 舘山寺街道を東南へ下っていくと、R152(秋葉街道)に合流し、また浜松城に戻ってきた。国道を挟んで反対側が、浜松城の前身である曳馬城で、家康が城を西に大きく拡大し、浜松城とした以降は、旧曳馬城部分は米蔵として利用されていたらしい。そして、現在この地には浜松元城町東照宮が建つ。

浜松元城町東照宮 14:45

 維新後の明治10年(1877年)、元幕臣で静岡藩の浜松城代であったこともある井上延陵が、この地に東照宮を建立しようと考え、静岡県知事をはじめとして地元住民の寄付により建設された(竣工時期は不明)
 戦災で消失したが、昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリート造り、銅板葺きの権現造りで再建された。

2人の天下人のブロンズ像 14:48

 浜松は、家康だけでなく、豊臣秀吉にもゆかりがあり、秀吉は曳馬城を整備した飯尾氏の配下である松下氏に16歳から3年間仕え、浜松で過ごしていたという。
 その関係で、東照宮の境内には、平成27年(2015年)、徳川家康公顕彰400年記念事業で制作された、2人の天下人のブロンズ像が建ち、パワースポットにもなっているようだ。

浜松八幡宮の大楠「雲立のクス」 15:15

 元城町東照宮から北東方向に進み、高架の遠州鉄道をくぐると、鎮守の森が見えてくる。ここが浜松八幡宮である。
 境内に入ると、楠の大木が目に飛び込んでくる。「雲立のクス」と呼ばれ、樹齢1000年を超えるとされている古木である。
 家康が三方ヶ原の戦いで信玄に大敗し、この楠の洞に逃げ込んで追っ手から身を隠していたところ、突然、楠から雲が立ち上がり、神霊が白馬にまたがって浜松城へと飛び立った。これを見て勇躍した家康は、八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗や弓、神馬などを奉納し、武運を祈願するようになったといわれている。

浜松八幡宮拝殿 15:20

 浜松八幡宮は、当初は許部の里(南区小沢渡町付近:浜松駅から南西の海岸沿い)にお祀りされていたが、天慶元年(938年)、神託によって現在の地へと遷座されたと伝えられ、永承6年(1051年)には八幡太郎義家により八幡二柱の神が勧請され、多くの武家庶民の崇敬を集めた。
 中でも家康は、「雲立のクス」の件もあり、また、浜松城の鬼門の位置に当社があることから、浜松入城以来、武家の守護神・浜松城鬼門鎮守、鬼門降伏の氏神として当宮を信仰し、開運招福・武運長久を祈って度々参拝したといわれている。

通称「赤電」!の遠州鉄道で市中心部に戻る 15:27

 八幡宮から歩いてすぐの遠州鉄道八幡駅で、浜松市内の探索終了。
 遠州鉄道は、地方のただのローカル線だと思っていたが、高架化もされているし、なかなか進んでいる。
 第一通り駅に戻り、車に不要な荷物を放り込んで、街中に繰り出す。

「濱松たんと 本店」でまたベロベロに…@ 15:47

 15時からやっている地元の有名店「濱松たんと」さんに飛び込み、また酒を浴びる…(笑) お昼に、鰻とワインで昇天したばかりなのに…
 かつおの刺身とハイボールでスタート!

「濱松たんと 本店」でまたベロベロに…A 15:51

 ホントは専門店で食べたかったが、それでも浜松餃子は外せない。「王将」の餃子に慣れ親しんだ関西人としては、浜松餃子の餡は野菜がほとんどで、ちょっと物足りないか… でも、このあっさり味が良いんですよね…

「濱松たんと 本店」でまたベロベロに…B 15:56

 遠州夢豚ごろ焼! 歯ごたえ最高!

「濱松たんと 本店」でまたベロベロに…C 16:28

 牛つくね! どうみてもハンバーグ!!!(笑) しかも、これで580円というハイコスパ! 肉汁があふれ出して来る。
 夕方時点で、本日2回目の昇天!(笑)
 よろよろと、また遠州鉄道に乗り込み、第一通り駅から3つ先の助信駅から徒歩10分程の、「湯風景しおり」という、スーパー銭湯で沈没… この日もマッサージを受け、すっきりした後、また車中泊(笑)
 3日目(井伊谷散策)へ。

参考タイム

10/7諏訪原城跡駐車場 6:056:10 二ノ曲輪北馬出 6:106:15 本曲輪 6:156:20 諏訪原城跡駐車場
高天神城跡北口駐車場 6:557:05 本丸跡 7:057:10 西ノ丸・馬場平 7:157:20 高天神城跡北口駐車場
JR浜松駅 12:0512:20 五社神社・諏訪神社 12:2512:40 浜松城跡 13:1013:20 亀山トンネル跡 13:2013:35 西来院 13:4014:00 犀ケ崖・夏目次郎左衛門吉信の碑 14:2014:45 浜松元城町東照宮 14:5015:10 浜松八幡宮 15:2015:25 遠州鉄道八幡駅

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