高野街道その2(京大坂道)(橋本〜高野山)

−京都から続く高野街道の最終章その2−

   

山行概要

日 程
2018年5月5日(祝)
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
東家4丁目=0:45=第2の地蔵=0:30=学文路苅萱堂=0:30=第3の地蔵=0:10=第4の地蔵=0:05=河根丹生神社=0:15=第5の地蔵=0:25=第6の地蔵=0:20=日本最後の仇討ち場=0:20=旧白藤小学校=0:20=四寸岩入口=0:15=南海極楽橋駅=0:10=いろは坂分岐=0:20=清不動堂=0:15=女人堂=0:10=徳川家霊台=0:15=金剛三昧院=0:05=千手院橋=0:15=壇上伽藍=0:15=蓮華定院【5:35】

記録文(写真はクリックで拡大)

 ついに高野街道のオーラス。4時に車中泊していたタイムズ東鍛冶屋町を後にし、昨日のゴール地点である橋本市東家4丁目のタイムズに車を止める。いつもならゴールの高野山上に車を止めてバックするところだが、始発便が遅いので、やむなく順行とした。

東家渡場の大常夜燈篭 5:05

 この辺りには、天正15年(1587年)には木食応其によって、橋本の名の由来になる橋がかけられたが、3年後には増水により流失してしまい、その後は舟での横渡が行われるようになり、渡場にこの大常夜燈籠が建てられた。
 文化11年(1814年)に建てられ、「無銭横渡(むせんよこわたし)」の場を伝える役目を長く果たしてきたが、河川改修のため現在地に移築された。 同型の燈籠がもう1基相対していたが、洪水により流失している。

橋本橋 5:09

 紀ノ川を橋本橋で渡る。日の出が近づいてきた。橋の真ん中でしばし待機。

日の出 5:12

 完璧。紀ノ川の水面を朱に染めていく。
 対岸に渡り、しばらくR370を進む。

三軒茶屋大常夜燈籠 5:21

 燈篭の立つ辻から国道を離れ、清水集落を通る旧街道へ。
 この燈籠は、先ほどの南岸と対になるもので、宝暦2年(1752年)の建立銘が残っている。北岸の燈籠と同様に2期が相対していたが、こちらも道路拡張のため、東側の1基が北へ約5メートル移された。

清水集落 5:30

 清水集落は街道の雰囲気が良く残されている。

第2の地蔵 5:50

 学文路集落に近づき、R370に再合流した辺りに地蔵堂が建つ。
 紀ノ川の南から高野街道沿い6基の地蔵様が祀られており、江戸時代後半に高野街道の旅人の安全を祈念して建てられたという。
 この地蔵は、清水集落の西行庵にある1番目(気付かなかった…(笑))に続く2番目の地蔵である。

かむろ大師の下からの眺望 6:06

 山の上に立派な建物が見え、かむろ大師とのことだったので、立ち寄ることに。学文路小学校の横から、急坂を登り、大師様の前まで来たが、残念ながら拝観は8時からだった…(涙)
 しかし、北側の眺望が素晴らしい。山並みの一番低くなったところが紀見峠で、たった1日でこれだけ歩いたのかと我ながら感心する。
 国道に戻り、学文路駅の手前で左折し、山手へ登って行き、古い町並みへ

石童丸物語の玉屋宿跡 6:19

 この辺りは、浄瑠璃、歌舞伎等で有名な演目の一つ「刈萱」の舞台になったところ。
 出家した父(苅萱道心)を探して、母とともに旅に出た石童丸は、旅の途中に出会った僧侶から父親らしい僧が高野山に居ると聞く。高野山は女人禁制のため、 母を麓の宿において一人で山に登り、偶然父親である等阿法師に出会うが、父親である等阿法師ははるばる尋ねてきた息子に、棄恩入無為(きおんにゅうむい)の誓(親の恩や肉親の愛情など、どうしても断つことのできない絆やしがらみを棄てて、「無為」に入ること)のために、自分が父親だと名乗ることはせずに、あなたが尋ねる人はすでに死んだのですと偽りを言ったため、実の父親に会いながらそれと知らずに戻った。石童丸が高野山から戻ると母親は長旅の疲れが原因ですでに他界していた。頼る身内を失った石童丸はふたたび高野山に登り、父親である等阿法師の弟子となり、互いに親子の名乗りをすることなく仏に仕えたという哀話である。
 写真の建物の横には、母子が泊まった「玉屋」という宿があったという標識が立っていた。

学文路苅萱堂 6:20

 玉屋跡のすぐ上に学文路苅萱堂(西光寺)が静かに佇む。
 もとは、平安時代後期の新義真言宗の開祖である「覚鑁(かくばん)」、後の「興教大師」と呼ばれる僧侶の「念仏堂(修行の場)」で、覚鑁の名前が有名になると、噂を聞きつけた、「高野聖」と呼ばれる僧侶が、このお堂に集うようになり、やがて新たに「萱堂(かやんどう)」と呼ばれるお堂が造られた。
 このお堂に集った僧侶たちは派閥を形成し、やがて「萱堂聖(かやんどう ひじり)」と呼ばれだし、鎌倉時代の半ばには、「臨済宗興国寺派」の「祖心地・覚心(法灯国師)」という僧侶がこの「萱堂聖」の中心的な僧侶になり、この覚心は、その門下たちと共に、高野山はもとより、周辺の国々へ赴き、「苅萱物語」を主とした連歌会などを開き、民衆に人気を博したため、やがて萱堂が「刈萱堂」と呼ばれ出したという。

眺望が開ける 6:42

 しばらく谷沿いに登って行くが、幡天神社の辺りでは、眺望が開ける。和泉山脈が背後に広がる。
 山村を縫うように登って行き、河根峠に建つ第4の地蔵を過ぎると、一気の下りが始まる。

河根集落へ 7:03

 急な簡易舗装の道をもったいない位に下っていく。
 丹生川の山間に抱かれた河根の集落がどんどん近づいてくる。

日輪寺(右)と河根丹生神社 7:05

 河根集落の入口に立つ両社。神仏混淆の典型的パターン。
 河根にも昔は旅籠が数軒あったらしい。昔ながらの門構えの家も残っている。

丹生川を渡る 7:10

 狭い集落を抜け、八坂神社(右)の横の千石橋で丹生川を渡る。
 対岸から「作水(さみず)坂」と呼ばれる急坂を登って行く。細い車道で普通なら車で走りたくないなぁと思うような道だが、この日は車の往来が多く、何度も肝を冷やす。袈裟姿の坊さんが運転している車が多い。多分、連休の渋滞を避けて抜け道に使っているのだろう。

第5の地蔵 7:20

 急坂を登り切ると、作水集落で、第5の地蔵が立つ。
 ここからは緩やかになった車道で、点在する山村を訪ねながらの歩みとなる。六地蔵最後のお地蔵さんが祀られている桜茶屋を過ぎ、山中の静かな林道をさらに進む。

日本最後の仇討ち場近くからの高野山上 8:07

 山中に唐突に看板が立つ。ここで「日本最後の仇討ち」があったらしい。
 文久2年(1862年)に、赤穂藩森家の家老、森主税と村上真輔が、尊王攘夷派によって殺される事件が起こった。その後、村上真輔の子ども4人と助太刀3名が、紀州九度山の中屋旅館に集まり、仇討ちの相談をし、機会をうかがっていたところ、暗殺に加わった6名が高野山に登ることを知り、山中で待ち伏せを図り、そして、明治4年(1871年)2月、この地で念願の仇討ちを果たすこととなった。
 しかし、この仇討ち行為がきっかけとなり、明治6年(1873年)に仇討ち禁止令が発出され、村上兄弟による高野での仇討ちが、日本で”一番最後の仇討ち”となった。
 そう言えば、熊野古道紀伊路の大阪・和歌山県境の近くにも同じような場があった。読み返すと、やはりこちらの方が遅いので、こちらの方が「最後」のようだ。

神谷集落へ 8:20

 この先が神谷(かみや)集落。かつては「日が昇ると銭が湧く」と言われ、高野山に一番近い宿場町として賑わったところだが、今はその面影はなく、ひっそりとしている。最寄りの南海高野線紀伊神谷駅は、南海電鉄の駅の中でも、最も乗降客数が少ない駅となっている(笑)
 しかし、その紀伊神谷駅は、鉄ちゃんからは、絶好の撮影スポットとして人気を博しているらしい。高野山に程近い山間部に位置することから、ホームが大きくカーブしていて、電車の先頭から最後尾までを綺麗に撮影することができるようだ…

旧白藤小学校 8:25

 神谷集落の中ほどに、旧「高野町立白藤小学校」跡がある。
 明治11年(1878年)の創設で、昭和2年(1927年)のピーク時には152人の児童が在籍したらしいが、平成9年(1997年)に廃校となった。その後は地元町内会が管理していたが、大阪在住のアマチュアカメラマンがスタジオ利用を提案し、「白藤小学校写真部」のウェブサイトを立ち上げたところ、コスプレイヤーから予約が殺到しているという。
 まだ早朝だったので、コスプレイヤーはいなかった…

南海高野線と 8:54

 神谷集落を抜けると、極楽橋駅、紀伊神谷駅、四寸岩、そして三尾川沿いに下っていく林道へ分岐が色々と別れるが、ボーッと歩いていたら、何故か一番正解に遠い三尾川沿いの林道に入ってしまい、しばらく逆走…
 元に戻り直進し、正しいルートに復帰。モミジ谷と南海高野線に沿って平坦な林道を進む。

極楽橋 9:00

 ついに南海高野線の終点、極楽橋駅に到着。駅前に朱塗りの極楽橋が映える。
 ここから高野山上へ最後の登り、不動坂が始まる。

いろは坂分岐 9:10

 ケーブルに沿ってしばらく登り、ケーブルをくぐると、すぐにいろは坂の分岐が現れる。いろは坂は不動坂の旧道だが、私は直進し、新道を歩む。
 新道は、新しい石畳が整備され、非常に歩きやすい。極楽橋から高野山上まで標高差350m以上を稼ぐ必要があるが、あんまり登っている感じがしないのに、GPSの標高はどんどん上がって行く。
 新道は大正4年(1915年)に新しく付け替えられたが、急峻ないろは坂と比べ、余りに緩やかなことから、当初は「ダンダラ坂」と酷評されたらしい(笑)

清不動堂 9:30

 再びいろは坂からの旧道と合流するポイントは小平地となっており、清不動堂が静かに佇む。
 清不動堂は、もともとこの地ではなく、旧道のいろは坂を登った所に建っており、同じく旧道にある「万丈転」という、罪人を簀巻きにして断崖絶壁から落とす場で処刑された人の罪を清め供養する為のお堂と伝わる。
 昔は「外の不動堂」と呼ばれ、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
 大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなった以降、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。

女人堂 9:51

 清不動堂から花折坂と呼ばれる細い山道を登って行く。これまで整備されたルートが続いていたので、いきなりの細道に戸惑うが、すぐに車道に合流し、さらにケーブル高野山駅からやってくる南海のバス専用道が右から合流すると、女人堂は近い。
 高野山は古来から女人禁制で、それは明治5年(1872年)まで続いた。このため高野山に通じる主要な道には、女人堂が建てられ、女性はそのお堂までしか立ち入ることができず、女人堂へ籠り、「弘法大師御廟」へ向かい、祈りを捧げたという。

いよいよ高野山上へ 9:51

 女人堂は、高野七口の全てに造られたが、この不動口のものは最大級の大きさを誇り、かつ、現存する唯一の女人堂であり、「紀伊国名所図会」に「七口各堂ありといえども、この堂最大なり」と記載されている。
 ちなみに「不動口」の名称は、先ほどの清不動堂から不動坂の名が生まれ、そこから高野山上への入口も不動口と呼ばれるようになったとのこと。

徳川家霊台 10:03

 女人堂からついに高野山上へ。ゆるやかに下っていくと、徳川家霊台。家康と秀忠を祀る霊台である。
 向かって右側が家康、左が秀忠の霊屋(たまや)であり、それぞれ寛永年代の造営で、重要文化財に指定されており、世界遺産の構成要素である。

金剛三昧院本堂 10:24

 中心部へ進み、メインストリートの小田原通をまたいで、1週前はゆっくり拝観できなかった金剛三昧院へ。
 金剛三昧院は、建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建された。
 折しも石楠花が満開で、本堂をバックにピンクの花が映える。
 この本堂をはじめ、経蔵や客殿など、重文や世界遺産の構成要素を多数擁する。

金剛三昧院多宝塔 10:26

 そして何と言っても、高野山内の建築物では、壇上伽藍の不動堂と並んで2つしかない国宝なのが、この多宝塔である。
 貞応2年(1223年)の建立で、檜皮葺、高さ14.9mで、石山寺に次ぎ日本で2番目に古い多宝塔であり、高野山の建築物の中では最古の建築物である。

霊宝館辺り 11:37

 千手院橋付近の公園でのんびり昼食を取り、壇上伽藍の方向へ。
 まずは霊宝館をじっくり見学。周辺の森は、新緑以上に季節外れの朱色の葉が圧倒的だった。

中門 12:10

 中門から壇上伽藍へ。中門は天保14年(1843年)に焼失し、礎石のみとなっていたが、平成27年(2015年)、高野山開創1200記念事業で172年ぶりに再建された。
 新たな中門は、鎌倉時代の建築様式をもとに設計され、規模は東西25m、南北15m、高さ16m。江戸時代中期、中門の屋根は銅板が使用されていたが、今回の再建事業では鎌倉時代の中門を再建するため、檜皮葺が用いられている。

金堂 12:13

 中門をくぐると正面に金堂が。金堂は、弘法大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれ、平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた。
 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成。桁行30m、高さ24mの堂々たる入母屋造りである。

山王院 12:16

 山王院は御社の拝殿として建立され、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)、現在の建物は文禄3年(1594年)に再建された。
 山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味である。

御社 12:17

 御社(みやしろ)は、弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守としたところ。
 社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神が祀られており、重要文化財に指定され、世界遺産の構成要素である。

西塔 12:17

 弘法大師は、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立するつもりであったが、諸般の事情により、大師入定後の仁和2年(886年)に完成した。
 弘法大師は、この大塔を法界体性塔と呼び、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立したことから、根本大塔と呼ばれている。
 金剛界大日如来と胎蔵界四仏を祀る。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、現在の塔は、天保5年(1834年)の再建。

准胝堂(右)と孔雀堂 12:19

 准胝堂本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立したと伝えられている。この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられている。その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、移動されたらしい。
 何度か焼失した後、現在の堂は明治16年(1883年)の再建。
 孔雀堂本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財(現在は霊宝館に収蔵)。東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就したことから、その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年(1200年)に建立。本尊が奉安された。
 昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失したが、昭和58年(1983年)、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建された。

大塔 12:19

 そして、真言密教の根本道場におけるシンボル、根本大塔(こんぽんだいとう)へ。弘仁7年(816年)から仁和3年(887年)ごろに完成したとされ、西塔と同様に多宝塔様式としては日本最初のものと伝わる。
 本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されている。

御影堂 12:20

 御影(みえ)堂は、大師の持仏堂(日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂)として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことから、御影堂と名付けられました。
 高野山で最重要の聖域であり、限られた者しか堂内に入ることは許されなかったが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、「御逮夜法会(おたいやほうえ)」の後に外陣への一般参拝が許されるようになった。

不動堂 12:22

 そして、壇上伽藍一番のお目当て、不動堂へ。高野山内で2つしかない国宝建造物である。
 鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王が発願され、行勝上人によって建久9年(1198年)に建立されたという。もともと一心院谷(徳川家霊台の建つ辺り)に建てられたが、後世になって壇上伽藍へ移築された。
 現在の建物は14世紀前半に再建されたもので、外観は、平安貴族の邸宅風で優美な趣を湛え、また四方から見た建物や屋根の形態がそれぞれ異なるが、これは、四人の工匠がそれぞれ随意に造ったためと伝えられている。

大会堂 12:23

 不動堂の北はす向かいには大会(だいえ)堂が。
 安元元年(1175年)、鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が、父帝の追福のため建立した。創建年当初は現在の苅萱堂の辺りにかつて存在した「高野山・東別所」に建っていたが、長日不断談義の学堂として壇上に移され、蓮華乗院と称するようになった。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになった。
 現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂である。

三昧堂 12:26

 三昧堂は、済高(さいこう)座主が、延長7年(929年)に建立したお堂で、もともとすぐ近くの金剛峰寺西隣の総持院(そうじいん)境内に存在していた。
 済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになった。後に壇上へ移されたが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられ、三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれている。
 現在の建物は文化13年(1816年)の再建である。

東塔 12:26

 大治2年(1127年)、白河院の御願による醍醐三宝院の勝覚権僧正の創建。
 天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)に再建された。
 これにて壇上伽藍の探索終了。そう言えば、蓮華定院に立ち寄るの忘れたなぁと言うことで、また一心院谷方面へ戻る。

蓮華定院山門 12:46

 山門には六文銭の提灯が…
 信州真田家は室町時代から、この蓮華定院を宿坊と定め、高野山に詣でる滞在所として利用していたが、関ヶ原の後に、昌幸・幸村父子が身を寄せた場所がこの蓮華定院である。

真田家墓所 12:55

 御朱印を頂戴すると、宿坊裏の真田家墓所を案内してくれた。
 信州松代藩の藩祖で昌幸の長男、真田信之と2代目信政公の五輪塔が杉林の中に静かに佇んでいた。
 大満足で高野街道コンプリート。これで京街道、東高野街道、高野街道、熊野古道小辺路と、滋賀県大津から熊野本宮大社までが繋がった〜

参考タイム

5/5 東家4丁目 5:055:50 第2の地蔵 5:506:20 学文路苅萱堂 6:206:50 第3の地蔵 6:507:00 第4の地蔵 7:007:05 河根丹生神社 7:057:20 第5の地蔵 7:207:45 第6の地蔵 7:458:05 日本最後の仇討ち場 8:058:25 旧白藤小学校 8:258:45 四寸岩入口 8:459:00 南海極楽橋駅 9:009:10 いろは坂分岐 9:109:30 清不動堂 9:309:45 女人堂 9:5010:00 徳川家霊台 10:0510:20 金剛三昧院 10:3010:35 千手院橋 11:2011:35 霊宝館・壇上伽藍 12:3012:45 蓮華定院

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