平群の里探訪

−派手さはないが、歴史ロマン溢れる平群町をブラ散歩−

   

山行概要

日 程
2022年6月12日(日)
山 域
平群の里
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
近鉄平群駅=0:10=ツボリ山古墳=0:15=楢本神社=0:20=紀氏神社=0:10=長屋王墓=0:20=船山神社=0:20=平等寺春日神社=0:20=平群神社・西宮古墳=0:20=消渇神社=0:25=烏土塚古墳=0:05=近鉄竜田川駅【2:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 そんなに気温が上がらなさそうだったので、また近場をうろつくことに… そう言えば、平群町辺りはまだ行ったことなかったなぁ、と言うことで、近鉄平群駅下車。
 今回、奈良県の「歩く・なら」というサイトに掲載されていたモデルコースを参考に歩むことにする。まずは駅から西へ進み、ツボリ山古墳を目指す。
 古墳の場所はやや分かりにくい。小高くなっている住宅街をウロウロし、やっと古墳を発見。

ツボリ山古墳 7:50

 ツボリ山古墳は、一辺約20mの墳形は方形または円形で、横穴式の石室を有し、南方に開口する。
 築造時期は古墳時代終末期の7世紀初頭頃と推定される。使用例の限られる刳抜式石棺(石をくりぬいて身と蓋をつくったもの)が2基並ぶ点で、被葬者の身分の高さが注目される古墳であり、一帯は、奈良県の史跡に指定されている。
 北へ下って行く。住宅街だが、畑が点在し、長閑なところだ。

楢本神社割拝殿 8:05

 鎮守の森らしき緑が目に入ったので、立ち寄る。楢本神社である。祭神は、菊理姫命(ククリヒメのカミ:全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる)で、雷難除去の神とされる。
 式内社で梨本と吉新の氏神である。画像の割拝殿(平安末期ころに現れた拝殿の形式で、横長の平面の中央に土間をとって通路としたもの)は、切妻造瓦茸で、通路の右側が板床、左が土間になっている。
 本殿は、朱塗りの春日造りで屋根は銅版葺、棟には千木(ちぎ:屋根の両端で交叉させた部材)・堅魚木(かつおぎ:屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材)が置かれており、大正4年(1915年)の改築である。

吉備内親王墓 8:19

 楢本神社から東へ向かい、近鉄線をまたぐと、住宅地の中に古墳がある。
 これが、長屋王の正室、吉備内親王の墓所で、直径20mの円墳である。
 吉備内親王は、草壁皇子の娘で文武・元正天皇は兄と姉、天武・持統帝の孫に当たる人物で、長屋王の変で子供とともに自害した。
 吉備内親王墓から北に鄙びた耕作地の中を進んで行くと、紀氏神社がある。

紀氏神社 8:25

 紀氏神社は、名の通り、紀氏の氏神を祀る神社であった。紀氏には神別(天津神(高天原にいる神々)・国津神(地(葦原中国)に現れた神々)の子孫)の紀氏(紀直のち紀宿禰、紀伊国名草郡の紀伊国造氏族)と皇別(神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族)の紀氏(紀臣のち紀朝臣、中央氏族)の大きく2系統が存在するが、当社を奉斎したのは後者の皇別紀氏で、神別紀氏が紀伊国を本拠としていたのに対し、皇別紀氏はこの辺りを治めていたと推定されている。
 紀氏神社の創建は不詳だが、「延喜式」神名帳では大和国平群郡に「平群坐紀氏神社」と記載されており、相当古くからの古社であることが分かる。
 本殿は春日造で、西向き、朱塗り、屋根は銅板葺である。平成24年(2012年)6月に修復されている。
 南に戻り、再び吉備内親王墓の前を通過し、そのまま南東へ進むと、長屋王墓がある。

長屋王墓 8:35

 長屋王は、父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女で、皇親として嫡流に非常に近い存在であり、正二位、左大臣として、藤原不比等亡き後の朝廷政治をリードした、奈良時代前期の大政治家であった。
 聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、非常に目障りな存在であり、聖武天皇自身も自らの系統の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家を陥れ(長屋王が聖武天皇の皇太子だった基王を呪い殺したと密告された)、長屋王は自死した。これが長屋王の変である。
 ちなみに、長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年(737年)、天然痘により4人揃って病死し、長屋王の祟りだと噂された。

三里古墳 8:43

 長屋王墓から、さらに東に進み、R168を横断し、入り組んだ集落の中に入って行くと、小山が現れる。これが三里古墳である。
 三里古墳の墳丘は削平され、周囲が耕作地化しているが、発掘調査により全長35mの前方後円墳又は直径22mの円墳と考えられている。
 横穴式石室を有し、奥行き1.5mの板石による棚が架せられている。石棚のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域には多いが、奈良県下では三里古墳を含めて3例のみであり、他の2基も吉野川(紀ノ川)流域に築造されており、この辺りに存在しているのは極めて異例である。
 周囲から、豪華な馬具や土器類、武器類、ガラス玉等が出土しており、これらの出土遺物から6世紀後半〜末頃の築造と考えられている。

船山神社 8:55

 三里古墳から南へ進み、東の山手に進む人気のない細道に分け入ると、船山神社の境内へ。
 船山神社の創建・由緒は不詳。かつては現在地の南東200mほどの、矢田丘陵の中腹に鎮座しており、さらに、その山上には船上神社が鎮座していたが、明治元年(1868年)に船山神社に合祀されたとのこと。
 さらにその後、船山神社は大正4年(1915年)頃に、現地に鎮座していた春日神社に遷座し、春日神社を船山神社として祀り、現在に至っている。
 山上近くには丸木舟状の三つの巨岩があるとされ、神が乗ってきた船だとも信仰されたようで、これらの岩石を磐座として祭祀したのが当社であり、「船山」の社名もこうした船形の岩石に因むものであると考えられている。

平等寺集落の光景 8:59

 住宅地まで戻り、再び南下。この辺り、平等寺という集落のようだ。
 この辺りも長閑な光景が広がる。生駒山が望める。集落の南外れに平等寺春日神社が鎮座している。

平等寺春日神社 9:15

 平等寺春日神社は、平等寺と下垣内の氏神で、鳥居のすぐ後ろに割拝殿が建つという珍しい構造。本殿は春日造りの極彩色檜皮葺。
 割拝殿の両側には数枚の絵馬が奉納されているが、左奥には、文久元年(1861年)に下垣内の氏子が奉納した「なもで踊り」の絵馬がある。
 「なもで踊り」とは、雨乞いや順気祈願の満願の日に神前に奉納する踊りの様子を描いたものであるが、既に途絶えており、その歌詞だけが伝わる。
 「なもで」は、「南無御礼」が転じたもので神に五穀豊穣を願い、そのおかげで収穫が確定した時に順気の感謝を込めて奉納されたものである。

 平等寺春日神社を後に、西に向かうとR168沿いに「道の駅 大和路へぐり」があり、直売所で奈良の最強いちご「古都華」を使ったフレッシュジュースが売っていたので、つい手に取ってしまう。
 道の駅を後に、さらに西へ進むと竜田川に当たるので、橋のあるところまで北に少し迂回し、右岸に渡り、南に進んで行くと、平群神社が見えてくる。

平群神社 9:35

 平群神社は、「延喜式」神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったらしい。
 社伝によれば、平群氏の祖の武内宿禰が神功皇后と共に三韓征伐へ出兵する際に戦勝を祈願したのが始めであると伝えられている。  平群氏は武内宿禰を祖とする氏族で、当地を拠点として主に軍事に携わり、履中天皇から武烈天皇の御代にかけて、その後飛鳥時代から奈良時代にかけて大きな勢力を築き上げたが、その後は没落した。
 平群神社も割拝殿を採用している。この辺り、割拝殿が多いですね。

西宮古墳 9:39

 平群神社の西隣の小山に西宮古墳がある。平群中央公園と一体化している感じ。
 西宮古墳は、一辺約36mの方墳で、二段のテラスを配して三段に築成されている。
 画像の横穴式の石室は南側に開口している。7世紀中ごろから後半の築造と考えられ、平群谷を代表する終末期の古墳として貴重であり、一帯が奈良県の史跡に指定されている。
 公園の西端から住宅地に入り、斜面を登っていく。

ただの小山にしか見えない(笑)剣上塚古墳 9:53

 住宅地の一角に緑に覆われた小山があり、近づくと剣上塚古墳の案内板があった。
 剣上塚古墳は、生駒山地から東に延びる尾根の先端付近を利用して造られた、直径約28mの円墳。西側には尾根と墳丘とを区画する幅2m程の堀割が廻っている。  墳丘裾付近で円筒埴輪列が確認されたほか、須恵器片の散布もみられ、6世紀前半頃の築造と推定されている。
 古墳から南西へ人気のない山裾の小道を進んで行くと、石床神社が現れ、その上の段に消渇(しょうかちじんじゃ)神社が鎮座している。

消渇神社 10:02

 消渇神社は、古来素箋鳴神社(牛頭神社)の末社で、夫人の守護神として人々の信仰の厚かった神社である。
 拝殿には崇敬者によって奉納された垂れ帛が幾筋もつるされ、絵馬も多数奉納されている。
 林に囲まれた静かな境内でした。

長閑な平群谷 10:15

 石床神社の旧社地を右手に見ながら南へ下って行く。
 広々とした耕作地に出た。この辺り越木塚という集落の辺り。
 林に囲まれた静かな境内でした。

烏土塚古墳 10:33

 最後のチェックポイントの烏土塚(うどづか)古墳を目指すが、住宅地の中で良く分からず右往左往…
 ようやく竜田川釣り池の横から、古墳上に登る遊歩道を発見、螺旋状に登って行く。地元の方々が暑い中、遊歩道の草刈りをされていた。
 烏土塚古墳は、竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵を利用して築造された北面する前方後円墳で、墳丘は全長60.5m、後円部径35m、高さ約9m、前方部の幅は31mあり、平群谷最大規模の古墳である。
 過去に烏土塚古墳が開発されかけたことが、平群町文化財保護条例の制定、平群史蹟を守る会の創設の契機となっており、烏土塚古墳の保存整備が、平群町の文化財保護行政の原点となっている。

烏土塚古墳からの眺望 10:34

 かなりの巨大古墳であり、見晴らしが良い。矢田丘陵が目の前だ。
 烏土塚古墳から近鉄竜田川駅は東へ坂を下ってすぐ。いつものように京橋で

参考タイム

6/12近鉄平群駅 7:407:50 ツボリ山古墳 7:508:05 楢本神社 8:058:25 紀氏神社 8:258:35 長屋王墓 8:358:55 船山神社 8:559:15 平等寺春日神社 9:159:35 平群神社・西宮古墳 9:4010:00 消渇神社 10:0510:30 烏土塚古墳 10:3510:40 近鉄竜田川駅

山行データへ

諸国名山探訪

Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved

inserted by FC2 system