−「銀の馬車道」完歩に引き続き、姫路市街を探索! 久しぶりの姫路城に感動しました!−
山行概要
2018年10月21日(日) | |
姫路市街 | |
快晴 | |
単独 | |
JR姫路駅=0:20=射楯兵主神社=0:05=兵庫縣姫路護國神社=0:05=姫路城=0:05=好古園=0:10=男山(千姫天満宮・男山八幡宮)=0:30=慶雲寺=0:05=大野家住宅=0:10=日吉神社=0:10=JR野里駅【1:40】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
昨日は「銀の馬車道」を飾磨港までコンプした後、野里駅前のタイムズで車中泊…
最悪3日行程を予定していた「銀の馬車道」を2日で終えることができたので、本日は、姫路市街の散策に充てることに
特に平成の大改修後、混雑する姫路城は、できたら始業と同時に入りたい、と言うことで、6時過ぎに起床し、野里駅6時40分発の電車で、姫路駅に向かう。
車は野里駅前のタイムズが、駐車後24時間の最大料金が何と400円という超激安なので、ここに置きっぱにすることにした。
姫路駅到着後、播但線ホームから何ら躊躇することなく山陽線のホームへ。
姫路市民のソウルフード、「まねきそば」のえきそばを食すためである。
この中華麺に和風だしというミスマッチそばは、終戦後、何もない混乱期に統制品であった小麦粉の替わりに、こんにゃく粉とそば粉を混ぜて、うどんの様な麺を作り、和風だしで売り出したが、その後、うどんは時間がたつとのびて美味しくないのと、腐敗が早いため、うどんを諦め、何度も試作を重ねた結果、かんすいを入れた黄色いラーメンにたどり着き、黄色いそばに和風だしという一見ミスマッチの商品が生まれたという。
そして、昭和24年10月19日、姫路駅ホームにて、「えきそば」と名付け、立ち売りが始まったとのこと。
私は天ぷらそばを注文。優しい和風だしに朝から温まりました。
姫路城始業の9時まで、時間が中途半端だったので、駅前のガストでしばらく時間を潰してから出撃。
姫路のメインストリートである、大手前通りを姫路城を真正面に見ながら進む。
姫路城前の大手前公園にたどり着くが、まだ早かったので、右折して、射楯兵主神社へ。
射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は、射楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしていることからその名となっているが、この他、播磨国内の大小明神をはじめ、摂末社の神々を合わせ祀っている播磨国総社でもあり、地元では「総社さん」の名の方が通りが良い。
社伝では、欽明天皇25年(564年)6月11日に影向(ようごう:神仏が仮の姿をとって現れること)があり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ったのが創建であると伝えられている。また、播磨国風土記には、8世紀以前には射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことが記載されている。
この2神の合座時期は不明だが、延長5年(927年)に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていたことが判明している。
その後、養和元年(1181年)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになった。
昭和20年(1945年)の姫路空襲大戦の戦災で、文化財は全て灰燼と化したが、戦後すぐに再建され、平成19年(2007年)には、総社御門も復興された。
ちなみに、射楯神というのはイソタケル(五十猛)のことで、スサノオの子である。林業のほか、航海や漁業・船舶の神、商売繁盛や開運・厄除けのご利益もある。播磨国風土記では、神功皇后が新羅遠征を行った際には、水先案内をしたとされており、勝利の道を開く神としても崇められている。
そして、兵主神というのはオオナムヂ(大己貴命)=大国主のことである。もともとは出雲国の八十神の下っ端で、八十神が因幡国の絶世の美女(八上姫)を娶りに行く際に荷物持ちをやらされていた。ところがその途上、兄の八十神が虐めた白兎を助けたことで、そのウサギの飼い主だった八上姫はオオナムヂの妻になる。頭にきた兄の神々はオオナムヂを殺してしまうが、八上姫の救けで蘇生、さらなる兄からの攻撃から逃げるためにスサノオが治める国へゆく。そこでオオナムヂはスサノオの娘スセリビメに見初められて結婚。その力を借りて国家樹立を成し遂げ、「大国主」となった。
八上姫はどうなったんや! というツッコミが入りそうな、無茶苦茶な話のような気がするが…(笑)
とにかくも参拝を終え、さらに姫路城に近づいた護国神社へ。
維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの明治天皇様の詔・御沙汰が発せられ、京都霊山護國神社が創建され、全国にも広がったが、兵庫県においても、機運が盛り上がり、昭和13年(1938年)4月に社殿が竣工した。
終戦後はGHQの指導で、一時白鷺宮と改称したが、サンフランシスコ講和条約発効後の昭和29年(1954年)再び護國神社と復称した。
本殿が何造りなのか、解説が無く、分からなかったが、両翼を広げたような姿が非常に清々しい。
色々な寄り道を経て、いよいよ姫路城内へ。
内堀を桜門橋で渡り、桜門(大手門)をくぐって城内へ。
江戸時代には木橋が架けられていたらしいが、再建された桜門橋は発掘調査で出土した橋台の遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして、平成19年(2007年)2月に完成した。
桜門を抜けると、だだっ広い三の丸。ここは入城料不要で、圧倒的な天守群を眺めることができる。
三の丸の奥に進んでいき、入城ゲートの前へ。開城の15分前だったが、既に行列が… しかもほとんどがインバウンドだ。
インバウンドが窓口で現金の支払いに戸惑う間に、こちらはスムーズに入城(文化財の入場料も早急なキャッシュレス化が望まれます…)。
菱の門をくぐる。二の丸の入口を固めた門で、両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋があることが名の由来である。
櫓門と呼ばれる型式で、城内で最も大きな門である。
二ノ丸は、門で細かく区切られており、「い」、「ろ」の門をくぐり、天守を目の前に仰ぎながら「は」の門へ向かう。
この辺り、頭上から守備側の矢が雨のように降って来そうだ…
大天守内へ入り、小天守も見てから、建物外へ。6階建ての大天守の昇り降りは疲れました…
本丸の一部で、備前丸と呼ばれる天守前の郭に出た。城主が住んでいた所で、客と会見する対面所などがあったようだが、明治15年(1882年)の火災で焼失してしまったとのこと。
ここからの天守は大迫力だが、ちょっと近すぎますな…
帰路は西ノ丸へ。ここからの天守群は鉄板のアングルである。
家康の孫娘、千姫(秀忠とお江の娘)に仕えた侍女たちが居たという、長大な西の丸長局(百間廊下)を通過し、最後は化粧櫓で屋外へ。
化粧櫓は、豊臣秀頼と政略結婚していた千姫が、大坂城の落城後、本多忠刻の正室となった際に与えられていた10万石の化粧料で、元和3年(1615年)、忠刻が桑名から姫路へと転封となった際に建てられたと言われている。
千姫は、姫路城の対斜面の男山に自身が創建した男山天満宮を百陂L下から朝夕拝んでいたが、その際にこの櫓で休息し、化粧を直した場と伝えられている。
姫路城の探索終了。せっかくなので、共通入場券を買っておいた、西隣の好古園にも立ち寄る。
正式名は姫路城西御屋敷跡庭園好古園で、名前は庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むものである。
姫路市制100周年を記念し、発掘調査で確認された西御屋敷や武家屋敷等の遺構をそのまま生かして作庭された、9つの日本庭園からなる池泉回遊式庭園群である。
庭園群が、昔の屋敷割遺構どおりに築地塀等で仕切られているのが特徴であり、姫路市政100周年に当たる、平成2年(1992年)4月29日に開園した。
写真は9つの庭園の中で最大の規模を誇る、「御屋敷の庭」で、名の通り、西御屋敷跡に位置している。
スマホのバッテリーが怪しくなったので、西に向かった山野井という住宅街にあるコンビニに寄ってから、姫路城の西北方向に盛り上がる男山の界隈へ。
男山を少し登ると、中腹に千姫天満宮が建つ。
千姫は天神(菅原道真)を信仰しており天神の木像を祀っていたが、夫の忠刻が姫路に転封されると、千姫は本多家の繁栄を願い姫路の天門(乾・北西)の鎮めとするため元和9年(1623年)3月、男山に天満宮を建立し、6枚の羽子板を奉納したという。
千姫が生活していた姫路城西の丸から拝礼出来るように東向きに造営されており、千姫は長局の廊下から日々拝礼していたと伝わっている。
千姫天満宮から少し登ると男山八幡宮。
男山八幡宮は、貞和元年(1345年)、姫路に最初に城を築いたとされる赤松貞範が、城を築城する際に鎮守社として、京都の石清水八幡宮から分霊し男山に祀ったのがはじまりとされ、その後も歴代の姫路城主が信仰した八幡宮である。
写真の石鳥居は、正徳6年(1716年)、当時の姫路城主、榊原政邦が社殿を新築再建した際に寄進した物で、武運長久・家門繁栄を願った文章が刻まれている。
男山八幡宮からさらに登ると、標高57.5mの男山頂上で、山頂には昭和6年(1931年)に建設された、姫路市内最古の配水池施設(近代化産業遺産に認定されている)があり、男山配水池公園として整備されている。
「姫路城十景」にも選ばれているように、ここからの姫路城も素晴らしい。
男山山頂からは、登ってきた神社経由でなく、石段ルートを下るが、これが198段もあり、滅茶苦茶急だ。こちらから登らなくて良かった…
男山の麓から東進し、姫路城に帰ってきた。
天守北側のシロトピア記念公園と名付けられた公園の中を東に進む。
さっきとは逆の構図で大天守と小天守が聳える。
城跡東北角にある野里門前から、野里の古い街並みへ。野里は、姫路城が建てられるもっと前から、鋳物の町として栄えていたまちで、バス道から1本東の旧野里街道に入ると、ガラッと雰囲気が一変する。
その野里のまちのど真ん中、旧野里街道から少し東に入った辺りに慶雲寺が建つ。
慶雲寺は、嘉吉3年(1443年)、天台宗寺院として創建され、その後、本堂が焼失したが、当時の和尚であった南室和尚に帰依した姫路城主池田輝政が姫路城の建築資材を分け与え、本堂を再建したという。
また、境内には、寛文2年(1662年)に姫路で起きた駆落ち事件の当事者である「お夏と清十郎」の墓がある。
事件のあらましは 〜 姫路城下の旅籠の大店・但馬屋の娘・お夏は、恋仲になった手代・清十郎と駆け落ちするが、すぐに捕らえられてしまう。清十郎はかどわかしに加え店金持ち逃げの濡れ衣まで着せられ、打ち首となる。お夏は狂乱して行方をくらませ、誰も二度とその姿を見ることはなかった 〜
というもので、事件後各地で様々な小唄や歌祭文(うたざいもん:江戸時代の俗謡の一つで、浪花節の源流。初め山伏が錫杖を振り法螺貝を吹いて神仏の霊験などを語ったが、のちには三味線の伴奏で市井の事件などをいち早く読み込み、その伝播の役も果たした)に歌われて民間に浸透していった。
事件のあった寛文年間中に、早くも江戸中村座で歌舞伎舞踊「清十郎ぶし」が上演され、以後この事件を題材にとった作品が次々と書かれていくことになる。
中でも貞享3年(1686年)に井原西鶴が著した浮世草子「好色五人女」の第一章「姿姫路 清十郎物語」と、それを宝永4年(1707年)に近松門左衛門が脚色して世話物の人形浄瑠璃に仕立てあげた「五十年忌 歌念仏」の2つが代表作である。
慶雲寺から旧野里街道に戻り、北へ少し進むと、大きな町家が右手に現れる。
これが大野家住宅で、2階の3つある虫籠窓が印象深い。江戸から明治前期の建物らしく、姫路市の都市景観重要建築物に指定されている。
この大野家は元禄時代から「鍋市」と号する鋳物屋を営んでいたそうで、もともと野里地区には古くから職人が多く住み、特に鋳物産業が盛んで、この地で作られた鍋は「野里鍋」「播磨鍋」と呼ばれて播磨の特産物として全国に知られており、大阪の陣のきっかけとなった京都・方広寺の鐘もここ野里で作られたと言われている。
普段は非公開らしいが、この日はアート系のイベントが内部で開催されていた。
その後も町家が頻出する旧野里街道をのんびり北上すると、日吉神社にたどり着く。野里のまちの北端に当たるところだ。
日吉神社は、承和7年(840年)、ここから1キロ余り北方にある随願寺の鎮守として、比叡山の日吉大社から勧請されたといい、当初は山王権現と称していた。
播州三木城での壮絶な籠城戦で有名な、別所長治の侵攻による天正元年(1573年)の兵火で、随願寺ともども焼失したが、池田輝政の時代に再建され、同じ野里地区内にある雲松寺の鎮守になったという。
ここで姫路市内探索を終了。車を止めてある、JR野里駅は、ここから10分ほどだ。
但馬・播州を満喫した3日間だった。
参考タイム
10/21 | JR姫路駅 8:05 ⇒ 8:25 射楯兵主神社 8:30 ⇒ 8:35 兵庫縣姫路護國神社 8:35 ⇒ 8:40 姫路城 10:10 ⇒ 10:15 好古園 10:25 ⇒ 10:35 ローソン姫路山野井店 10:50 ⇒ 11:00 男山(千姫天満宮・男山八幡宮) 11:10 ⇒ 11:40 慶雲寺 11:45 ⇒ 11:50 大野家住宅 11:50 ⇒ 12:00 日吉神社 12:00 ⇒ 12:10 JR野里駅 |
山行データへ
諸国名山探訪
Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved