中高野街道その2(平野〜河内長野)

−徐々に郊外の光景となる中、中高野街道をコンプリート!−

   

山行概要

日 程
2018年11月18日(日)
山 域
中高野街道
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR平野駅=0:05=杭全神社=0:25=楯原神社=0:20=瓜破天神社=0:10=高野大橋=0:15=屯倉神社=0:20=近鉄河内松原駅=0:25=丹南東(竹内街道交差点)=0:15=美原ふる里公園=0:25=舟渡池=0:40=狭山藩陣屋跡=0:05=中高野・下高野街道合流点=0:05=狭山池=0:05=南海大阪狭山市駅=0:20=狭山神社=0:30=南海滝谷駅=0:20=西高野・中高野街道合流点=0:50=近鉄河内長野駅【5:35】

記録文(写真はクリックで拡大)

 中高野街道のコンプに向け、気が高ぶってしまい、連闘となった。しかも、ほぼ始発に近い電車で出発したため、昨日のゴール地点であるJR平野駅に着いたのは7時ジャスト(笑)
 まずは、杭全神社へ戻る。

2日連続の杭全神社 7:05

 昨日と違い、朝日を浴びた社殿が神々しい。
 境内を抜け、南へ。R25を渡る。

奈良(大坂)街道を示す道標 7:10

 杭全神社の鳥居前から国道を渡ったところに石の道標があり、
 「右 ふじい寺、大峯山上、かうや山」
 「すぐ 天王寺、大さか」
 「當社 熊野権現、祇園宮」
 「右 大坂」(寛政十二年)と刻まれている。
 平野本町商店街のアーケードを横断し、この春にも来た全興寺の横を南下する。

流口地蔵 7:17

 流口地蔵が建つ地は、かつて平野環濠集落の13あった出入口のうち、南端の流口木戸門があったところだ。
 ちなみに、全興寺からたどってきた街道筋は、流口木戸門につながっていたことから、「流門筋」と呼ばれていたらしい。
 ここで平野を離れ、さらに南下する。

喜連北口地蔵尊 7:28

 また先ほどと同じような地蔵堂が現れる。
 ここが平野の南隣の同じく環濠集落であった喜連(きれ)集落の北側の入口に当たるのだ。

楯原神社 7:30

 街道左側に楯原神社が如願寺と並んで建っている。
 当初は喜連集落の西北端にあったが、兵火・台風などの被災で文明13年(1481年)の春に、現在地付近に移ったとされる、延喜式神名帳記載の古社である。
 明治以後の祭神は武甕槌大神と大国主大神。奥殿の氏神天神社は大坂夏の陣の戦災後、真っ先に再建された元和年間(1615−1624年)の築造で、喜連で最古の建物で、大阪市指定の有形文化財である。

喜連の街並み 7:35

 古い街並みが残る喜連のまちを通り抜ける。
 大阪メトロ谷町線が走る府道179号線を横断すると、今度は瓜破(うりわり)集落に入る。ちなみにこの近くにある谷町線の駅の名は「喜連瓜破駅」であり、絶対読めない(笑)
 

瓜破天神社 7:55

 市営住宅の横をしばらく南下すると、今度は瓜破天神社が現れる。
 瓜破天神社は、この辺りの出身で、日本法相宗の祖である船氏道昭という僧が、当地で修行中、天神の霊像が出現したため、そこで瓜を割って供えたが(この伝承が瓜破という地名の起源の一つといわれている)、この件を道昭は朝廷に上申したところ、方八丁の宮地を賜り、社殿を造営し像を祀り、西の宮(八丁の宮)と称したのが当社の起源とされている。
 ちなみに、道昭は、白雉4年(653年)、遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたという(続日本紀)。

阪和貨物線の跡 8:00

 さらに南下すると、空堀のような地形を渡る箇所が出てくるが、これが阪和貨物線の跡で、かつて関西本線の八尾駅から阪和線の杉本町駅に至っていた貨物線である。
 阪和貨物船は通称であり、正式には関西本線の支線で「阪和連絡線」とも呼ばれた。平成16年(2004年)に休止され、平成21年(2009年)に廃止された。

高野大橋で大和川を渡る 8:05

 阪和貨物線跡のすぐ南で大和川に突き当り、昔はこのポイントに橋があったそうだが、現在は、西(下流方向)に100m余り行ったところに高野大橋が架けられており、ここで橋を渡る。
 大和川を渡って、少し南に行った辺りで、大阪市平野区から松原市に入る。
 しばらく街道を南下すると、けっこうな規模の境内を持った社が左手に現れる。

屯倉神社 8:20

 これが屯倉(みやけ)神社で、この地には古くから土師氏(後の菅原氏)の祖神の天穂日命を祀る穂日の社があったという。神社蔵の「三宅天満宮梅松院縁起」によれば、大宰府に左遷され九州へ向かう途中の菅原道真が祖先由来のこの地に立ち寄った際に、穂日の社に無実を訴えたとされる。
 この他にも、朱雀天皇の時代に、釈道賢なる人物が参詣した際に、十一面観世音のお告げがあり、道賢は現地の住民と協力して天慶5年(942年)、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を祀ったのに始まるという伝承もある。
 江戸時代までは、河内国丹比郡依羅三宅天満宮と称していたが、明治に入り、屯倉神社と称するようになり、現在に至っている。

松原の街並み 8:52

 屯倉神社からさらに南へ。河内松原駅に出た。この秋に竹内街道を歩いたせいで、この駅に1月の間に3回も来ることになってしまった…
 前2回は、駅から真っすぐ南に伸びるバス道を行き来したのだが、今回は1本東側の細街路を歩く。
 写真は新堂という地名辺り。趣ある街並みが残っている。

丹南東(竹内街道交差点) 9:05

 やがて、見慣れた光景となり、竹内街道との辻に出た。
 この辻の少し南が、府道2号線(中央環状線)の丹南東の交差点。前回は、この角にある吉野家で朝食を食べたな(笑)… と思い出す。
 ここから、しばらく振りに、初見の道歩きとなるが、府道190号線沿いで、単調かつ、交通量も多く、歩道がない箇所も多いので、怖い…
 いつしか堺市美原区に入っていたが、「ここホンマに政令市か?」と思ってしまうほど、クソ田舎な光景が広がっている。
 美原ふる里公園でトイレを借り、すぐ南で阪和自動車道の高架をくぐり、ひたすら南下を続ける。

舟渡池 9:45

 R309と交差してすぐに舟渡池が現れる。周囲は公園として整備されている。
 舟渡池は、美原区内で最も大きいため池で、昔この付近一帯が湿地帯で、交通手段として舟を利用した名残が池名の由来として伝えられている。
 ホンマに長閑なところだが、旧美原町域と思えば納得がいく。堺市が政令市になるために、平成17年(2005年)2月に編入合併されたのだ。
 引き続き、単調な車道が続く。だいぶ疲れてきた…

標識だけが残る狭山藩陣屋跡 10:25

 南海高野線を渡ると、かつてこの辺りに狭山藩の陣屋があったとする石碑と説明版がある。
 天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐により、後北条氏5代当主北条氏直が高野山に蟄居を命ぜられ、これに氏直の叔父にあたる北条氏規も従った。翌年赦された氏直は秀吉から1万石を与えられたが、程なくして死去し、後北条氏の本家筋は絶えた。
 氏直の死後は、氏規が家督を相続し、河内国に7千石を拝領し、大坂屋敷で政務を執っていたが、慶長5年(1600年)に氏規が没すると、氏規の嗣子である氏盛は、下野国に拝領していた自身の4千石を併せて1万1千石の外様大名となり、狭山藩が立藩され、初代狭山藩主となった。以後12代氏恭の代まで続き、明治維新を迎える。
 南海大阪狭山駅と狭山池に挟まれた中間地点で、狭山池方面(西)から下高野街道が合流してきた。舗装路に街道名がシールされているので、すぐに分かった。逆方向になるが、狭山池を見たかったので、立ち寄ることに。

狭山池 10:35

 狭山池は、飛鳥時代前期、朝廷によって西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め築造されたとされるが、正確な築造年は定かではなく、4世紀から7世紀の改修記録が残る時期まで築造時期は幅広い説があるが、「古事記」・「日本書紀」にもその名が記されており、日本最古のダム式ため池とされる。
 この辺り、河内国西部の丘陵地帯は、石川や大和川といった水量豊富な河川から離れており、昔から灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在している。
 狭山池自体は、宝永元年(1704年)に大和川が付け替えられるまで、現在の大阪市域に至る80か村、約55,000石余りの土地を灌漑していたという。近年の大改修で、洪水調整機能を備えるとともに、池の周囲は公園として整備された。

狭山神社 11:05

 元の合流点に戻り、南海大阪狭山市駅のところで、線路を渡って高野線の東側を南下する。
 再び高野線を渡るとすぐに金剛駅で、腹が減って来たし、駅前に飲食店も少しはありそうだったので、物色してみたが、まだどこもオープンしてなかった(涙)
 仕方がないので、金剛駅から東側に少し下った狭山神社に立ち寄る。
 狭山神社の創建の年代は不詳だが、崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたという伝承があり、延喜式神名帳にも記載のある相当な古社である。
 この辺りは南北朝時代の激戦地であり、たびたび兵火にかかった。現在の社殿は室町時代中期の明応2年(1493年)の再建と推定されている。

狭山市半田の街並み 11:16

 狭山神社から、街道に戻り、南下を再開。
 半田という集落は、昔ながらの街並みが残っている。
 滝谷駅前で空腹が限界に達し、西へ少し入ったR310のロードサイド店舗を狙うことにし、偶然見つけたサイゼリアへ(笑)

サイゼリアで昼呑み(笑) 12:27

 ミックスグリルにむしゃぶりつき(笑)、ストロング酎ハイや赤ワインのデキャンタ500mlで完全に昇天!(笑)
 気が付けば、1時間半以上も呑み続けていた…(笑)

西高野・中高野街道合流点 13:35

 何とか歩行を再開。酔いの効果で、疲労感が一掃された(笑)
 フラフラと進み、地蔵堂の建つ辻へ。ここで4月に歩いた、堺からやって来る西高野街道に合流し、中高野街道はここで終点となる。
 写真の左が西高野街道で、右が今日辿ってきた中高野街道。道標も建ち、「右平野迄四里、左さかい大坂」と「天保7年(1836年)」と記されていた。

河内長野市内の旧街道筋 14:01

 ついでなので、そのまま河内長野駅まで2回目の歩行。
 この原町付近は古い街並みが残っている。最後は酔いに任せて歩き切った感じ。気が付けばすっかり馴染みになった河内長野駅の駅前広場に到着していた。
 南海でなく、あえて近鉄で阿部野橋に向かい、また「湯処 あべの橋」で一浴してから帰宅した。
 これで中高野街道約36キロをコンプリート! こうなると、残る1つの下高野街道もすぐにやりたくなってきた…

参考タイム

11/18JR平野駅 7:007:05 杭全神社 7:057:30 楯原神社 7:307:40 ファミリーマート喜連七丁目店 7:457:55 瓜破天神社 7:558:05 高野大橋 8:058:20 屯倉神社 8:208:40 近鉄河内松原駅 8:409:05 丹南東(竹内街道交差点) 9:059:20 美原ふる里公園 9:209:45 舟渡池 9:4510:25 狭山藩陣屋跡 10:2510:30 中高野・下高野街道合流点 10:3010:35 狭山池 10:4010:45 南海大阪狭山市駅 10:4511:05 狭山神社 11:0511:35 南海滝谷駅 11:3511:40 サイゼリヤ河内長野松ヶ丘店 13:2013:35 西高野・中高野街道合流点 13:3514:25 近鉄河内長野駅

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