京街道その3(枚方公園〜天満橋)

−京都と熊野古道のドッキング企画の2日目。なぜか京橋のグランシャトーで遭難(笑)−

   

山行概要

日 程
2018年2月12日(祝)
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
京阪枚方公園駅=0:30=光善寺=0:05=蓮如の腰掛け岩=0:25=鞆呂岐神社=0:10=茨田堤の碑=0:45=仁和寺氏神社=0:05=佐太天神宮・来迎寺=0:40=正迎寺=0:20=難宗寺=0:05=京阪守口市駅=1:25=野江水神社=0:20=京橋(グランシャトー)=0:35=天満橋八軒家浜【5:25】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日の淀〜枚方公園ハイクに続く、京街道歩きの2日目。
 昨日のゴール地点の枚方公園駅にこの日も降り立つ。枚方市民のソウルフード「恩地のうどん」の看板が眩しい。
 晴れてはいるが、超絶寒い。体を温めようと、速足で歩きだす。
 枚方大橋の南詰までは街道風情の残る街路を進み、恩地食品の本社がある南詰からは新興住宅街の中を行く。目印にしていた枚方西高は、平成18年(2006年)3月末に周辺校と統合・閉校となり、「伊加賀スポーツセンター」となっていた。
 隣の伊加賀小学校の横を抜けると、急に細道となり、すぐに光善寺に出る。

光善寺本堂 8:05

 この辺りは出口と呼ばれる集落であり、出口は、文明7年(1475年)本願寺第八世蓮如上人が建立した御坊を中心に発達した寺内町(浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落)である。
 蓮如上人は出口御坊(のちの光善寺)を拠点に摂津、河内、和泉で布教活動を行い、3年後、山城に創建した山科本願寺に移った。
 蓮如上人の死後、光善寺は戦国乱世の中で退転を余儀なくされ、旧地に復したのは慶長年間(1596−1615年)であった。広大な寺域と御堂・山門・通用門・鐘楼・太鼓櫓・書院・庭園などの江戸時代の伽藍を今に残し、寺内町の核としての風格を今に伝えており、京阪本線の駅名にもなっている。

蓮如の腰掛け岩 8:10

 光善寺から、いかにも旧街道っぽい路地を南下すると、すぐに蓮如の腰掛け岩が左側に現れる。
 この地は、蓮如上人が越前の吉崎からこの出口にやって来た時に最初に身を寄せた箕屋があった場所で、ここの平らな石に腰掛けて説法したとのこと。
 蓮如の説法は多くの信者を集め、その名はいやが上にも高まり、上人の腰掛けた石にも功徳ありと多くの人がお詣りするようになったという。
 旧街道はしだいに西向に方向を変えながら続き、最後は府道13号線に合流した。左折し、しばらく南下すると、R1に合流し、そのまま国道沿いに南下する。
 京街道のマップでは淀川左岸の堤防を進むことになっているが、風が強く寒いのと、淀川から東に少し離れたところに、鞆呂岐神社や佐太天神宮などの見所があることから、退屈だが、R1をそのまま進んだ。

鞆呂岐神社 8:35

 寝屋川市に入ってすぐの木屋西交差点の少し手前にある本信寺のところで左折、寺の境内を通過し、そのまま東へ伸びる細街路を進むと、鞆呂岐神社に出た。
 清和天皇の貞観3年(861年)の勧請だという。もとは天照大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・稲荷大神・蔵王権現を祀った。
 この辺りの地は、古代から皇室の荘園で、当地とゆかりの深い応神天皇は大鞆別命といい、鞆は天皇の立派な姿の形容、呂岐は神を表すという。

奥宮の石鳥居 8:39

 奥宮として若宮八幡社があり、こちらの方に色々な由緒が伝わる。大正3年(1914年)に合祀したというが、古くから当地に鎮座していたという。
 この奥宮の鳥居には、寄進された事情が明記されており、赤穂浪士の村松喜兵衛秀直の四世孫、村松喜兵衛源尚次による寄進とのこと。討ち入り後、縁者は捕らえられ、秀直の子である政右衛門は伊豆大島に配流されたが、4代将軍徳川家綱の法要を機に赦免されたので、木屋村に移り住んだという。
 また、この奥宮には独特の神事が伝わる。「木屋のヒトミ祭」と呼ばれ、毎年10月17日の祭礼に、薦巻飯(こもまきめし:米の粉を水でとき、ツバキの葉の上に乗せたもの)を供進する。そして、奥宮に供える際、昔は、妙齢の処女が行っていたというが、江戸時代後期の寛政年間(1789−1801年)には里正(村長)、明治後は氏子総代が行うようになったという。
 奥宮の後方には畑が広がっているが、大きな池の跡であり、池の主は大きな蛇で、奥宮の御神体だといわれている。この大きな蛇は遠く大和境の田原辺まで出没したと伝わっている。

茨田堤の碑 8:50

 鞆呂岐神社の参道を南へ進み、信号のある交差点を右折すると、R1木屋西交差点。そのまま国道を歩道橋で渡り、淀川左岸の堤防に上がる。
 凄い強風… しばらく我慢して進むと、茨田堤(まむたのつつみ)の碑が現れる。
 茨田堤は、日本最初の河川堤といわれ、日本書紀によると、工事は古墳時代の仁徳天皇11年(323年)に淀川の洪水を防ぐために計画されたが、難工事の連続で、工事の安全を願う人柱の伝説も残る。
 碑はオランダ人お雇い技師、デ・レーケたちによる明治の淀川改修から百年になるのを記念して、昭和49年(1974年)に建立された。
 R1に戻り、しばらく国道を南下し、仁和寺本町北交差点で左折、南西に伸びるR1を離れ、路地を南に進むと仁和寺氏神社に到着。

仁和寺氏神社 9:38

 仁和寺氏神社(にわじうじじんじゃ)の創建年代は不明だが、元々白山権現と称し、仁和寺庄の観音寺(宇多天皇の皇子、敦實親王が創建)の建立と同時に、本宮の地に建てられた社であるとされている。
 応永の乱(応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱)の後に、この地方が男山八幡宮の社領となり、八幡宮を境内に勧請し、寛永10年(1633年)、領主永井信濃守の支配により、天満宮となった。
 明治44年(1911年)1月、佐太天神宮に合祀され佐太天神の御旅所となっていたが、村を挙げて神社復旧運動を起こし、太平洋戦争の最中の昭和18年(1943年)8月に盛大な還幸祭を執り行い、再興された。

佐太天神宮 9:47

 仁和寺氏神社のすぐ南西に佐太天神宮が鎮座する。いつの間にか寝屋川市から守口市に入っていた。
 この辺りは菅原道真の領地であったところで、昌泰(しょうたい)4年(901年)、道真が太宰府に左遷された際、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられる。
 道真は、宇多法皇の計らいで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、ここで都からの沙汰を待ったが、一向に連絡はなく、ついに筑紫へ下向することとなった。当地の地名である「佐太」はこの「沙汰」が訛ったらしい。
 道真は出立に際し、自身の木像と自画像を残し、この時楊枝を土に挿し、「わが身の無実の証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓ったところ、程なく発芽し、見事な松の木に成長したと伝わる。道真が太宰府でなくなってから50年後の天暦年中(947〜57年)に、里人がその徳を慕い、道真が残していった木像を御神体として祀ったのが、佐太天神宮の創建とのことである。
 佐太天神宮のすぐ南には、来迎寺が建つ。

来迎寺の石造十三重塔 9:52

 来迎寺(らいこうじ)は、近代以降は浄土宗に属しているが、もとは融通念仏宗(大念仏宗)佐太派の本山であった。
 正平2年(1347年)、大念仏寺7世法明上人の弟子、実尊誠阿上人西願が現守口市来迎町に天筆如来を本尊として一宇を建立したのが始まりとされる。
 天筆如来とは、石清水八幡宮を創建した僧・行教が貞観元年(859年)に感得したとされる、阿弥陀三尊の絵像である。
 後に南朝後村上天皇の勅願寺となり、釈迦如来立像の寄進を受け、本堂に放光殿の号を賜る。
 その後、延宝6年(1678年)、現在地に落ち着くまでの300年余り、北朝方の足利義満から圧力を受けるなどで、26回の移転を繰り返した。
 庭園には石造十三重塔が立つ。嘉元2年(1304年)の銘で、大阪府指定の有形文化財である。
 来迎寺の南側には、佐太陣屋跡の駒札が立つ。この佐太地区は、京都・大阪間の交通・軍事上の要地であったことから、美濃国加納藩(32000石)の永井氏が貞享年間(1684〜1688)に枚方の渚地区からこの地に陣屋を移し、摂津・河内の12000石を領有支配した。
 約5000uの敷地に屋敷・蔵・牢屋敷等を次々と整備し、加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし、年貢米の納入はもちろん、加納藩の特産物である提灯・傘等もここにいったん集積して大阪の町人に売りさばくなど、加納藩の台所の役割を担っていたという。

淀川左岸堤防を鳥飼大橋に向かう 10:15

 来迎寺から西に向かい、R1を横断し、淀川左岸の堤防に出る。ものすごい強風で前に進まない…
 鳥飼大橋の下をくぐり、正迎寺の辺りでようやく堤防歩きから解放。八雲小学校の横を通り、守口宿一里塚を過ぎると、ようやく難宗寺。

難宗寺 10:55

 難宗寺は、文明9年(1477年)に、蓮如上人が創立した守口御坊がはじまりと伝えられ、慶長16年(1611年)には本願寺掛所に昇格し、「西御坊」と呼ばれるようになった(すぐ東隣の盛泉寺が「東御坊」と称された)。
 その後、元和元年(1615年)の兵火などを経て、文化7年(1810年)に再建されたのが現在の本堂である。

四川麻婆専門店「ホントのホント」さんでランチ 11:13

 まだ11時だが、もう腹が減って仕方がなかったので、守口市駅近くの「ホントのホント」さん(謎の屋号…)の始業と同時に入店。「ホントのホント定食」(四川麻婆豆腐と但馬鶏唐揚げ、スープ、ライスのセット、1280円)とビールでほっこり。辛さと痺れをそれぞれ3段階のMAXで注文したが、なかなかのパンチだった。辛い方はノーマルをお勧めします(笑)
 ハイボールも2杯飲んでしまい、すっかり良い調子だ。京阪守口駅前の京阪デパートで少し買い物をしてから、歩行再開。

千林商店街を通過 12:42

 守居橋を渡り、南へ進む。京阪東通商店街を抜け、太子橋今市駅のところで京阪本通に出て、千林へ。
 千林商店街は、完全に大阪の下町のノリだ。ヒョウ柄の服を来たオバハンが多数生息している(笑)
 完全に都会の交差点と言った感じでガヤガヤしている関目5の交差点から、都島通りを通らず、あえて京街道沿いに街路を蛇行しながら歩く。この辺りまで来ると、京街道には独自のマークが舗装路に埋め込まれており、迷う心配はない。
 都島通りに復帰し、野江内代駅のところで少し左の路地に入ると、野江水神社。

野江水神社 13:25

 野江水神社(のえすいじんじゃ)は、水波女大神(みずはのめのおおかみ)を祭神とし、一般には水神社・水神さま・水神宮・野江神社などと呼ばれている。
 天文2年(1533年)、三好政長が榎並城を築く際、たびたび水害を被ったので、水火除難の守護神として城内に小さい祠を造営し、祀ったのが起源といわれている。
 明治18年(1885年)の大洪水で社殿が倒壊したため、明治21年(1888年)に現在の社殿に再建された。
 ちなみにこの辺りにあった榎並城は、江口の戦い(天文18年(1549年)6月12日から24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶と同族の三好政長が衝突した戦いで、長慶が勝利した。江口合戦とも呼ばれる。)で8ヵ月間持ちこたえた堅城であるのにもかかわらず、あまり記録が残っていないらしい。
 野江3西交差点で都島通りを離れ、細い街路を南へ。京橋は近い。

グランシャトー 13:45

 最後はアーケードの商店街に吸い込まれ、京橋駅前へ。
 馴染みのグランシャトーを見て、今日寒かったせいもあって、気が付けば、サウナの中に…(笑)
 調子に乗って、アカスリとマッサージも頼んでしまった(笑) ♪京橋は〜ええとこだっせ〜グランシャトーが〜おまっせ〜♪(笑)
 堪能して、再び歩みを再開したのは入店から3時間以上も過ぎた17時(笑)
 JR環状線と京阪の京橋駅の間の広場から南へ高台に上がり、西へ土佐堀通を歩く。

夕日に染まる大阪城天守 17:23

 大川(寝屋川)を渡る、寝屋川橋東詰にある歩道橋からは、大阪城が真っ赤に見えた。
 橋を渡るとゴールの天満橋は目と鼻の先だ。

天満橋八軒家浜 17:35

 律儀に八軒家浜まで歩く。すっかり夕暮れになった。
 兎にも角にも、これで熊野街道(熊野古道)と鳥羽・京街道が繋がった。京都〜和歌山〜紀伊田辺〜熊野本宮大社〜新宮〜紀伊長島〜伊勢神宮まで、2015年の正月から、丸3年以上かかっての偉業?である。我ながらバカらしさが素晴らしい(笑)

天満橋で祝勝会! 18:07

 天満橋駅近くの「割烹かおり」さんで、酢牡蛎や、写真のアンコウ鍋をいただく。
 すっかり良い調子で、京阪特急の人となり帰洛しました。

参考タイム

2/12 京阪枚方公園駅 7:358:05 光善寺 8:058:10 蓮如の腰掛け岩 8:108:35 鞆呂岐神社 8:408:50 茨田堤の碑 8:509:35 仁和寺氏神社 9:409:45 佐太天神宮・来迎寺 9:5510:35 正迎寺 10:3510:55 難宗寺 10:5511:00 京阪守口市駅 12:0013:25 野江水神社 13:2513:45 京橋(グランシャトー) 17:0017:35 天満橋八軒家浜

山行データへ

諸国名山探訪

Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved

inserted by FC2 system