熊野古道紀伊路その6(布施屋〜海南)

−街道歩きの風情がより色濃くなる中、紀ノ國を南下!−

   

山行概要

日 程
2015年4月11日(土)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
JR布施屋駅=0:10=吐前王子跡=0:20=川端王子跡=0:30=和佐王子跡=0:15=矢田峠=0:25=平緒王子跡=0:10=伊太祁曽神社=0:20=奈久智王子跡=0:25=四ツ石地蔵=0:15=松坂王子跡=0:10=汐見峠=0:15=春日神社=0:10=菩提房王子跡=0:10=日限地蔵=0:10=祓戸王子跡=0:15=JR海南駅【4:00】

記録文(写真はクリックで拡大)

 熊野古道紀伊路の探索も紀州にどっぷり入り、当たり前のことだが、しだいに京都からの日帰りが時間的、コスト的にも厳しくなってきた。と言う訳で、初めて1泊2日での街道歩きを計画。和歌山市内のグルメも堪能したかったので、宿は和歌山市内に確保した。
 JR京都駅から、3時間近くかけて、2週間振り(山中渓〜布施屋)の布施屋駅へ。運賃は2270円也… 青春18きっぷを調達すべきだった…
 気を取り直し、布施屋駅を出発。まずは前回の積み残しの吐前(はんざき)王子跡へ。駅から北へ踏切を渡り、しばし紀ノ川沿いを東へ進み、道標のところで再び南へ踏切を渡る。

吐前王子跡 9:35

 吐前王子跡は、田んぼの中にぽつりと立っていた。
 説明板によると、この王子の名前は、後鳥羽院の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家が書き残した日記「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「吐前の仮屋で昼食を摂りながら遅れていた後鳥羽院の到着を待った」とある。また、藤原頼資(よりすけ)が御幸に随行した時の日記である「頼資卿記」承元4年(1210年)4月24日条にも同様に見られ、当時は紀ノ川の水で水垢離をした後、王子社に参拝をしたらしい。
 突き当りを東に取り、渋い街並みを抜け、再び布施屋駅前に帰還。今度は西へ向かう。すぐに川端王子跡が道端の一角に現れる。

川端王子跡 9:55

 江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌「紀伊続風土記」に「昔は村の西七町小栗街道にあり・・」と記載があり、 明治43年(1910年)に高積神社に合祀されている。
 現在の王子跡は、高積神社までは遠いので、遙拝所を作ったものの名残である。
 再びJR和歌山線に接近し、踏切のところで直角に南下する。

井ノ口集落 10:10

 南へ県道を渡ると、街並みの中に疎水の流れる、風情ある井ノ口集落。静かな街並みをゆるゆると南へ。

旧中筋家住宅 10:18

 街道沿いにひときわ立派な建築物が。これが旧中筋家住宅で、国の重要文化財。
 江戸時代末期の大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しており、嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家である。

春ですなぁ… 10:19

 旧中筋家住宅から向かいの観喜寺を望む。
 県道に出合うと、すぐ左手に和佐王子跡が。

和佐王子跡 10:25

 「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月8日条に「ワサ王子」の名が記されているが、日前國懸宮での奉幣のため別の道をとったため、和佐王子には参詣していないと記載されている。
 寛文年間(1661〜73)にはすでに社殿はなくなっていたので、紀州藩が現在の石碑を建て遺跡の保存を図ったという。そして、幕末頃には、1間半(2.7m)四方の社殿が再建されたらしいが、明治42年(1909年)高積神社に合祀された。

 そして、すぐ横の山道に分け入ると。和佐大八郎の墓がある。
 江戸時代、弓の名手としてその名を知られた和佐大八郎は、貞享三年(1686年)24歳の時、京都・三十三間堂の「通し矢」に挑戦し、一昼夜に8133本という大記録を達成したらしい。
 県道を渡り、溜池の間を登り、再び県道を横切ると、森の中の矢田峠への細道へ。背後に遥か和歌山市内の街並みを見下ろしながら頑張ると、あっけなく峠へ。石仏が数体立ち並ぶ峠の反対側は立派な車道が上がってきており、これを一気に下っていくと、県道に合流。
 しばらく南下し、平尾集落の街並みへ入る。

平緒王子跡 11:05

 集落のど真ん中、平尾自治会館の前に、平緒王子跡の歌碑が立つ。
 「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「平緒王子」の名が見えるが、日前國懸宮への奉幣のために藤原定家自身は参詣せず、先達のみが奉幣を行ったとある。
 秀吉の紀州征伐で荒廃し、その後も60坪の境内に2尺2寸4面の社殿があったが、明治41年(1908年)、都麻津姫神社に合祀された。
 さらに南へ。県道、わかやま電鉄を相次いで渡り、口須佐の集落へ。地蔵の立つ六地蔵の交差点から、少し左(東)へ寄り道。

伊太祁曽神社 11:15

 やはり伊太祁曽(いたきそ)神社は外せない。木の大鳥居は、この社ならでは。
 創建時期は明らかでないが、「続日本紀」の大宝2年(702年)の記事が初見になる。古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇16年(86年)に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝わる。その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、さらに、和銅6年(713年)に現在地に遷座したと伝えられる。
 御祭神の五十猛命は素盞鳴尊の御子神様で、「日本書紀」には父神の命を受けて日本国土に木種を播き青山と成した植樹神と記されている。このことから「木の神」として慕われ、木の神様の住む国ということでこの地は「木の国」と呼ばれ、やがて「紀伊国」と成った。また、家や船は木材より作られたことから、家屋の神、浮宝(船)の神としても慕われている。

奈久智王子跡 11:50

 口須佐から奥須佐の集落へ。標識に従い、民家の間を抜けると、奈久智王子跡。
 藤原定家や藤原頼資が日記に記した奈久智王子だが、その跡がどこであるかははっきりと判っておらず、ここは2カ所ある推定地のうちの一つらしい。
 「奈久智」という名前は、ここがちょうど名草郷(ここから南の、現在の海南市あたり)への入口にあたることから、「名草への口」の意味で付けられたものであるらしい。

吉里集落を抜けた辺り 12:00

 さらに南へ、吉里の集落を抜ける。辺りは伸びやかな耕作地が広がる。目の前に阪和道が現れ、真下を潜り抜ける。
 しばらく阪和道に沿って、長閑な畑の中をのんびり南下する。

松坂王子跡 12:30

 古い街並みの残る多田の集落を抜け、阪和道から東に分かれ、県道に合流する辺り、神子谷と呼ばれる丘陵の山すそに松坂王子跡の標識が立つ。
 「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「次参松坂王子」の記載が見られる。
 また、「民経記」(民部卿勘解由小路(かでのこうじ)経光の日記で、鎌倉時代中期の公家社会の行事が記されている)の承元4年(1210年)4月24日条には「大野坂王子」と記されおり、道順から松坂王子のことと推定されている。
 寛文年間(1661−1673年)にはすでに近隣の且来(あっそ)地区の八幡神社の末社の内に退転したとあり、現在地の庚申塚は、別の所から移されたものと伝えられる。

石畳の道 12:33

 松坂王子跡から蜘蛛池へのゆるやかな登りの区間に、僅かだが石畳が整備されている。
 蜘蛛池に沿って蛇行しながら県道を歩くと、汐見峠。昔、熊野への道の途中、この地から初めて海が見えたので、汐見峠と呼んだという。
 ゆるやかに下る。海南の街並み入ってきた。春日神社への道標を頼りに左折する。

春日神社 12:33

 静かな住宅地を過ぎ、急な参道を登ると、春日神社。
 祭神は、天押帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと:第5代孝昭天皇の皇子で、和邇氏、春日氏。小野氏ら諸氏族の祖とされる)で、ご鎮座の年代は不詳だが、既に奈良時代には創建されていたらしい。
 元弘2年(1332年)、大塔宮護良親王が熊野へお忍びの際、当社へお立ち寄りになり、地元の豪族10人(大野十番頭)が親王を神殿にお隠しになり、今も神殿の1つは空位になっているとのこと。
 当社は、紀伊国神名帳に「正一位春日大神」と位置づけられており、海南市で「正一位」を与えられたのは、現存社では、春日神社だけである。聖武天皇から代々の祈願所として朝廷の厚い保護を受けていたとのこと。

松代王子跡 12:59

 松代王子跡は、春日神社参道の脇に、静かに立っている。
 「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「松代」と記されている。明治42年(1909年)に春日神社に合祀された。
 先ほどの春日神社の道標のところまで戻り、住宅地を南下。国道370号線を横断する。

菩提房王子跡 13:10

 蓮華寺の前から山田川を渡ってしばらくのところ、建具屋の傍らに菩提房王子跡があり、小さな石仏が祭られている。
 「紀伊続風土記」にこの王子についての廃跡との記述があり、早い時期に退転したものと見られる。
 さらに、昔ながらの渋い街並みを抜けていく。

日限地蔵 13:20

 古い街並みの中、城塞のような立派な石垣が現れる。これが日限(ひぎり)地蔵である。時宗仙臺山浄土寺が正式名称のようだが、地元では「ひぎりさん」と呼ばれ、安産ご祈祷・腹帯祈願のお寺として親しまれてきた。
 急な石段を登った境内からは、海南の街が一望できる。

祓戸王子跡への山道 13:30

 日限地蔵のすぐ先が一之鳥居跡。ここで3年前に歩いた藤白峠へのコースに合流し、大阪天満橋から湯浅までのトレースが繋がった!
 古くは熊野一ノ鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る直前に身を清める潔斎所であったようで、この辺りの地名を鳥居と称する。鳥居は天文18年(1549年)に失われたという。
 一之鳥居跡から道標に従い左折を2回繰り返すと、祓戸王子跡への山道の入口が現れる。今日の歩みの最後にふさわしい、石仏が立ち並ぶ、静かな雑木林の中を進む。

祓戸王子跡 13:35

 だいぶ山中を彷徨ったが、結果的には、さっきの日限地蔵のすぐ横と思われる辺りに、祓戸神社之跡の石碑が現れる。これが祓戸王子跡で、かつてはここから藤白神社の大楠、藤白坂の筆捨松、藤白峠が一望できたというが、今は深い森の中である。
 「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月8日条に、その名の記載が見られるが、藤原経光の参詣記の承元4年(1210年)4 月24日条には「鳥居王子」、仁和寺蔵の「熊野縁起」(正中3年(1326年))には「大鳥居王子」と記されている。室町時代以降はもっぱら鳥居神社の名で呼ばれたと見られ、禅林寺文書や「紀伊続風土記」にも鳥居王子との言及がある。
 一之鳥居跡へ戻り、後は市街地の中をJR海南駅へ向かうだけだ。

 電車で和歌山駅に戻り、ドーミーインPREMIUM和歌山にチェックインし、この日は和歌山の酒と魚を堪能し、ホテルのサウナとマッサージで明日に備えたのであった。

 熊野古道の続きは、その7(海南〜紀伊宮原)へ。
 翌日の行程は、その9(湯浅〜御坊)へ。

参考タイム

4/11JR布施屋駅 9:259:35 吐前王子跡 9:359:55 川端王子跡 9:5510:10 井ノ口 10:1010:25 和佐王子跡 10:2510:40 矢田峠 10:4011:05 平緒王子跡 11:0511:15 伊太祁曽神社 11:3011:50 奈久智王子跡 11:5012:15 四ツ石地蔵 12:1512:30 松坂王子跡 12:3012:40 汐見峠 12:4012:55 春日神社(松代王子跡) 13:0013:10 菩提房王子跡 13:1013:20 日限地蔵 13:2513:35 祓戸王子跡 13:3513:50 JR海南駅

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