一宮城跡登城(+勝瑞城跡・美馬市脇町)

−徳島名城巡りと、「うだつ」の街並みを行く−

   

山行概要

日 程
2018年12月18日(火)
山 域
徳島近郊
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
一宮神社=0:20=一宮城本丸跡=0:10=一宮神社【0:30】

記録文(写真はクリックで拡大)

 12/18 晴れ

 午後から徳島で所用が入った12月の平日。となれば、午前はどっかに行きたい、と言う訳で、大阪駅を始発の7時発のバスで出撃。
 徳島駅には9時半過ぎに到着し、駅前のタイムズ駐車場から予約していたカーシェアのカローラフィルダーで発進。目指すは続日本100名城に選ばれている、徳島市の西郊外にある一宮城跡である。

 一宮城は、阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が、この地の豪族一宮宗成を滅ぼし、暦応元年/延元3年(1338年)にこの地に城郭を築いて移り住み、その後小笠原氏自身も一宮氏を称し、一宮城は一宮氏が代々居城としていた。
 その後、一宮氏は阿波国の覇者となった細川氏、そして三好氏に仕えていたが、三好氏が分裂状態になると、長曾我部氏を頼るようになったものの、最後は長曾我部元親に内通を疑われた12代城主一宮成祐が誅殺されてしまう(成祐の弟の成孝は讃岐国へ逃亡したが、その子である光信の代で、蜂須賀氏に仕えるようになり、一宮神社の神職として代々続いている)。
 そして、長曾我部氏の支配下に入った一宮城だったが、秀吉の四国攻めで落城し、元親の降伏後、阿波国は蜂須賀家政に与えられ、家政は一宮城を居城とした。石垣を巡らした現在の遺構はこの時に大幅改修されたものと言われている。
 しかし、家正は、わずか1年後の天正14年(1586年)に徳島城を築いてそちらを居城としてしまう。一宮城は、その後も阿波9城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって寛永15年(1638年)に廃城となった。
 標高144mの城山の山頂に本丸を置き、東西の尾根に大きく曲輪を展開する、徳島県内最大級の山城である。

一宮神社 10:10

 登城口となっている一宮神社の駐車場は、地元の町内会の集まりでもあるのか、ほぼ満車で、何とかギリギリ滑り込ませる。
 一宮神社は、阿波国一宮とされているが、元々は神山町の上一宮大粟神社が一宮であったところ、参拝に不便であるため平安後期に一宮神社に移され、国府の近くにも分祠(現在の八倉比売神社?)されたと伝わる。しかしそれ以外にも大麻比古神社も一宮を称しており、もはや良く分からない(笑)
 寛永7年(1630年)の建立の一宮神社本殿は三間社流造の銅板葺で、国指定の重要文化財である。

登城口 10:12

 一宮神社の裏手から山の中に登城路が伸びていく。奥深い山中に不釣り合いなコンクリの階段が延々と続く。何でこんな地味な(失礼)山城跡に、ここまで立派に整備したのだろう… 歩きやすそうで、実は歩幅が合わず、歩きにくい。

倉庫跡 10:17

 5分程登って、最初の平らな区画に登り着く。この辺りで標高90m辺り。ここから炭化した穀物が出土しているらしい。

ルートはこんな感じ 10:20

 一息つくが、九十九折れの急登が始まる。また階段だ…

才蔵丸 10:22

 九十九折れを突破すると才蔵丸に到着。登城口から最初に到達する主要曲輪で、三ノ丸とも呼ばれている。標高は130mと、ほぼ本丸と同じ高さである。
 少し登ると、本丸と明神丸の2つの曲輪の鞍部のようなところに登り着く。「門跡」の標識が立っていた。
 右に進むと明神丸(二ノ丸)に到着。本丸とほぼ同じ高さなので、一宮城は、ツインピークに設けられた2つの曲輪を中心とする城だったことが良く分かる。
 そして反対側の本丸へ。

本丸への石垣 10:27

 本丸のみ石垣が組まれている。一宮城と言えばここからの写真が必ず出てくる定番のショットである。

本丸 10:28

 石段を登って本丸へ。下草が刈られ広場になっている。144.3mの三角点がある。

本丸からの眺望 10:29

 見通しが利くように整備されているので、ご覧の展望が広がる。写真は北東の徳島市街方面を望んだもの。
 満足して往路を戻る。遺構が良く残る1級の山城だった。

大日寺 10:46

 一宮神社に降り立つ。道路を挟んですぐ隣には、四国88箇所霊場第13番の大日寺がある。
 寺伝では、弘仁6年(815年)に空海がこの付近で修行中、大日如来が現れ、「この地が霊地であるから一寺を建立せよ」と告げたことから、その大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置したという。
 その後、隣の一宮神社の神宮寺となって一体となっていたが、明治の神仏分離で、一宮神社の本地仏になっていた行基作といわれる十一面観音が本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされた。
 現住職の金昴先は韓国人で前住職と結婚し、夫が死去すると後を継いだとのことで、八十八箇所霊場で唯一の外国籍住職らしい。

勝瑞城の居館跡@ 11:18

 まだ時間があったので、近くの藍住町にある、一宮城と同じく続日本百名城に選定されている勝瑞城(しょうずいじょう)にも行くことに。
 勝瑞城は、鎌倉時代から安土時代まで、阿波国はもとより、淡路国、讃岐国も含む政治、経済、文化の中心地であり続け、「天下の勝瑞」として名高い城跡である。
 吉野川低湿地帯の中央部に位置し、現在と違い当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。また、海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔てて京畿にも非常に便利の地であった。要塞というよりも、守護の居館、政庁という、いわゆる守護所としての性格の強い城で、中世の地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。

勝瑞城の居館跡A 11:20

 勝瑞城跡は大きく城跡と居館跡にゾーンが分かれており、居館跡は城跡の約150mほど南に位置している。発掘調査が長年継続して行われており、だだっ広い居館跡にプレハブの現地事務所が建てられ、この日も作業中だった。
 これまでの調査結果により、東西約120m、南北約150mの規模で、この規模や、出土遺物の質、量から三好実休(じっきゅう:生前の戒名で、俗名は義賢。長慶の弟)の居館跡と推定されている。
 また、居館跡から南方向に東西約40m、南北約30mの池跡が発掘され、発掘庭園としては、日本国内最大級の池庭と言われている。これだけの規模の居館を地方に持っていた三好氏の実力恐るべしである。

勝瑞城跡の本丸跡の水濠 11:25

 城跡に移動する。平成6年(1994年)に行われた発掘調査により、城は居館よりだいぶ後の16世紀末に造られ、短期間のうちに廃城となったことが明確になったとのこと。
 天正10年(1582年)の中富川の戦い(阿波国へ侵攻してきた長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦い)に備えて、詰めの城として急造されたと思われる。

見性寺の本堂 11:28

 本丸跡は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、境内には三好実休(義賢)ほかの三好一族の墓が並んでいた。
 勝瑞城跡の探索終了。徳島駅に戻る。

「スパイスれすとらん cardamom」さんでランチ!@ 12:20

 車を返し、ランチを求めて街中へ。前から気になっていた徳島どころか四国カレーの最高峰の呼び声高い「スパイスれすとらん cardamom」へ。
 ランチタイム真っ最中だったが、何とか席を確保し、超定番メニューの「マサラカレー」900円をチョイス!
 目玉は使い放題のカルダモンをはじめ、6つのスパイスボックスが、このカレーにのみ付いてくるのだ。

「スパイスれすとらん cardamom」さんでランチ!A 12:25

 マサラカレー登場! プレーンでもスパイスが十分に利いているが、さらに6つのスパイスを順番に試しながら、そして混ぜながら食べ進む至福のひと時!
 ここ絶対にリピートすると思います。
 匂いを気にしながら、午後の所用をサクっと済ませ、飲み屋を物色(笑)

夜は「安兵衛」さんで豪遊!@ 16:58

 夜は徳島を代表する大衆居酒屋の「安兵衛」さんへ! 早い! 安い! 旨い!の三拍子揃った名店である。私は5年前のGWにも1度来ている。
 16時半頃で既にほぼ満員(笑)の中、カウンター席を何とか確保し、注文しまくる。給仕は全てオバハンらで活気が凄い。
 板ウニが1000円ちょっとと、あり得ない破格値に、酒が進む。

夜は「安兵衛」さんで豪遊!A 17:05

 焼き鳥盛り合わせ! ちなみにもも肉は「かたい」(親鶏)と「やわらかい」(若鶏)の2種類ある(笑)
 一人で飲んでいたが、仕事を終えた連れが合流。暴飲暴食にさらに拍車がかかる。

夜は「安兵衛」さんで豪遊!B 17:07

 牡蠣の蒸し焼き!

夜は「安兵衛」さんで豪遊!C 17:33

 鶏のもも焼き! こんなにボリュームあると思ってなかった… 腹がちぎれる。

「よあけ 駅前店」さんで〆! 20:01

 腹いっぱいだったが、強引に連行され、徳島ラーメンで〆る。また太ったな…
 呑み(呑まされ)過ぎて、意識混濁状態で、予約したカプセルサウナの場所が良く分からず、小1時間ほど彷徨した挙句、何とか収容された…

 
   

 12/19 快晴

 この日も昼まで自由時間があったので、何とか早朝にカプセルを抜け出し、徳島駅からまたしてもタイムズカーシェアで発進。この日は徳島を代表する重要伝統的建造物群保存地区である美馬市脇町の街並み探索に向かうことに。1時間ほど、ひたすら車を西に走らせ、吉野川沿いの道の駅「藍ランドうだつ」に車を止める。

うだつの街並み 9:18

 道の駅のすぐ北が、うだつの街並みのある東西の通りとなっており、通りに出た瞬間、一気にタイムスリップした感じになる。
 脇町は、吉野川北岸の主要街道の撫養街道と讃岐への街道が交差する陸路の要衝であり、さらに吉野川に面するため舟運の利用にも適した位置にある。
 脇町は、脇城(徳島城を守る阿波9城の一つ。筆頭家老格の稲田氏が城主だった)の城下町として成立し、藍の集散地として発展を遂げた当時の街並みが当時の様子を色濃く残しているのだ。

うだつ 9:19

 街のいたるところで、うだつが上がりまくっており、うだつの上がらない私(笑)には、羨ましいこと限りなしである…

脇町劇場(オデオン座) 9:33

 重伝建地区の東の外れには、レトロな芝居小屋が建っている。これが脇町劇場(オデオン座)である。
 徳島県唯一の木造芝居小屋で、昭和9年(1934年)に、この辺りの事業家らの尽力で建設され、戦前には歌舞伎や浪曲の上演で人気を集め、戦後には歌謡ショー公演や映画上映など地域の憩いの場として親しまれた。
 映画の斜陽化と建物の老朽化が重なり、閉館し、取り壊される予定だったが、山田洋次監督の「虹をつかむ男」のロケ舞台となったことがきっかけで、平成11年(1999年)に町指定文化財として昭和初期の創建時の姿に修復され、一般公開されることになった。美馬市指定有形文化財である。

雄大な四国三郎 9:52

 脇町の探訪を終え、吉野川河畔に寄ってみる。ゆるやかに流れる姿からは、とても「日本三大暴れ川」と呼ばれるイメージは湧かないが、増水時はすごいことになるのだろう…
 ちなみに吉野川の最長川幅は2380mもあり、東京の荒川の2537mの次に広いらしい…

脇町潜水橋 9:57

 この際なので、脇町潜水橋で吉野川を渡る。増水時には水が橋の上を流れ、橋が沈んでしまうことから「潜水橋」。そのままである…
 有名な夕焼けスポットらしい。

旅の終わりは「酒とめし 酒場ダン」さんで昼呑み!@ 11:43

 タイムアップなので、徳島駅に戻り、車を返却後、JR徳島駅地下に新たに整備された、駅バル横丁の「酒とめし 酒場ダン」さんへ突撃!
 11時から酔っぱらえるとは、JR四国さん素晴らしい! 名物の「肉豆腐煮玉子付き」とハイボールでスタート!

旅の終わりは「酒とめし 酒場ダン」さんで昼呑み!A 11:49

 カンパチの炙り!

旅の終わりは「酒とめし 酒場ダン」さんで昼呑み!B 11:55

 名物阿波尾鶏の、おつまみ焼きでフィニッシュ! 最高でした!

またしても〆を… 「セルフうどん やま 徳島駅前店」さんでダメ押し! 13:09

 しかし、また終わらない。大阪行きのバスの時刻まで中途半端に時間があったもんだから、駅前のセルフうどん店に吸い込まれてしまう…
 そして大阪行きのバスに乗り込み、ワープ! 大阪まで僅か5分感覚だった…(笑)

参考タイム

12/18一宮神社 10:1010:30 一宮城本丸跡 10:3510:45 一宮神社

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諸国名山探訪

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