−女子2名を連行した福井3連戦の最終日、越前朝倉氏の本拠で、日本100名城の一乗谷を散策!−
山行概要
2023年11月5日(日) | |
一乗谷 | |
快晴 | |
SN、OT、私 | |
復原町並駐車場=0:15=湯殿跡庭園=0:20=唐門=0:15=復原町並=0:05=諏訪館跡庭園=0:15=復原町並駐車場【1:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
あっと言う間に最終日。予備日的扱いの本日は、1、2日目のような、がっつり登山ではなく、一乗谷の散策ということで、ホテルのフロントに8時集合。ホテルの朝食をがっつりいただきました。
福井市内から30分弱で、一乗谷到着。復元町並みの北側にある駐車場に車を止める。
復元町並みとは一乗谷川を挟んで東側にある、遺跡ゾーンを南に進んで行く。
朝の空気が清々しい。気持ちの良い快晴だ。
東に分け入る散策路に入る。
中の御殿跡に進入。礎石が残っている。ここは御殿跡の東北側にあり、桁行7間、梁間2間の日常生活を行う建物であったと推定されている。南西側にも小規模な建物の礎石が発見されている。
中の御殿は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝わる所で、南側と東側に土塁、東側と北側に空堀が設けられ、主たる建物の南面には庭園が広がっていたと伝わる。
中の御殿跡から、北の高台へ進むと、湯殿跡庭園。
湯殿跡庭園は、16世紀初頭に当時の当主朝倉孝景によって造られたと推定されている。4つある国指定特別名勝の朝倉氏庭園の中では最も古い作庭。
朝倉孝景は越前朝倉家第10代当主で、越前国守護職、父親(貞景)の跡を継ぎ、堅実に領内運営を行った事で領内の成熟期を向かえ、京都から様々な文化を取り入れた人物とされている。
湯殿跡庭園は、南北に細長く、複雑に入り組んだ形の約100uの池を中心に、凝灰角礫岩の巨石を配する、廻遊式林泉庭園である。
湯殿跡庭園は、一乗谷に残る室町文化の影響を色濃く残す庭園文化の一端を成す貴重な遺構であり、昭和5年(1930年)に国指定名勝、さらに、平成3年(1991年)には、国指定特別名勝に指定されている。
湯殿跡庭園から少し北の高台に、朝倉館跡や庭園跡を見下ろす展望台がある。画像は北西方向を望んだもの。
第11代で最後の当主、義景が住んだと伝わる。土塁と堀に囲まれた広大な敷地に、会所、主殿、小座敷、台所などが整然と配置されていた。その中には日本最古とされる花壇も含まれている。
東の山際には、国指定特別名勝の朝倉氏庭園の一つ、朝倉館跡庭園があり、完全に土の中に埋もれていたのを、発掘調査により約450年ぶりに発見されたとのこと。美しくデザインされた石組が残るなど、大掛かりで洗練された庭園の様子を現在に残している。
最近の新資料によると、朝倉氏は既に南北朝時代には、一乗谷を本拠にしており、文明年間(1469−87年)になると、重臣が一乗谷に集住するようになり、さらに、応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため、飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。
全盛期の孝景の頃には人口1万人を超え、越前の中心地として栄え、室町幕府第10代将軍足利義稙や、15代将軍義明が、一乗谷を訪れ、歓待されるなど、幕府からも頼りにされていた。
こうして繁栄した一乗谷も、信長の台頭により、じわじわと劣勢になり、ついに、天正元年(1573年)8月16日、越前と近江国の国境にある刀禰坂で義景は大敗を喫し、一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日17日、信長の軍勢によって火を放たれ、200年以上にわたって栄華を極めた一乗谷は一瞬にして灰燼に帰した。
その後、この戦の功績によりm信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が、一乗谷を統治したが、同じ旧臣である富田長繁ら国人は、長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策し、天正3年(1575年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の3万を超える一揆勢が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。一揆は、信長により、すぐに平定されたが、越前八郡を与えられた柴田勝家は、本拠を北ノ庄(福井)に構えたため、辺境となった一乗谷は、復興されることなく田畑の下に埋もれていったのである。このため一乗谷は「日本のポンペイ」の異名を取っている。
朝倉館のすぐ南には義景の墓所がある。
一乗谷が壊滅した後の天正4年(1576年)に、村民が建てた小祠の場所に、寛文3年(1663年)、越前福井藩第4代藩主、松平光通(みつみち:結城秀康の孫)が墓塔を建立した。なお、大野市にも江戸時代に建てられた義景の墓がある。
朝倉館跡の西端から東方向を望む。
奥の山裾に、庭園跡の石組みが確認できる。
いったん朝倉館跡を出て、堀沿いに南へ戻る。
それにしても良い天気〜 堀には鯉がいました。
唐門をくぐって、再び朝倉館跡へ。
朝倉館跡の正門の位置にあり、幅2.3mの唐破風造り屋根の門だが、朝倉氏の遺構ではなく、後に建てられていた松雲院の寺門として、朝倉義景の菩提を弔うために建てられたと伝わる。
現存の門は、江戸時代中期頃の再建で、門表には朝倉家の家紋である三ッ木瓜の紋が刻まれている。
朝倉館跡の一乗谷川を挟んだ西側には、計画的に町割がなされた城下町が形成されていたが、現在、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって、当時の町並みが復元され、復原町並として公開されている。原寸大の立体模型は日本初である。
復元された町家の中では、地元の劇団員の方々が、当時の日常生活を描写した寸劇を披露されていた。
中央の通りを挟んで西側は塀のみ復元されているが、建物は復元されておらず、広大な敷地に井戸跡等が点在している。
復原町並を南口から出、諏訪館橋で、また一乗谷川の右岸に渡り、東の高みを目指す。
登った先には、国指定特別名勝朝倉氏庭園の一つ、諏訪館跡庭園で、特別名勝4庭園の中で最も大きく、上段と下段で構成される庭園は、回遊式林泉庭園としては、日本でも第一級の豪華さを誇るといわれる。
諏訪館は、5代義景が最愛の妻「小少将(こしょうしょう)」のために建設したと伝えられている。湯殿跡庭園に比べ、低く丸みを帯びた石が多く、女性らしい雰囲気が感じられる。
足羽川沿いに戻り、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ。我々は復元町並との共通券を買っていた。
当初は「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」という名で、昭和56年(1981年)に開館したが、約1年前の令和4年(2022年)、資料館の道路西向かいに新築した建物へ移転、「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」へ改称した。
館内には、使用目的が不詳の石敷遺構や、朝倉義景館の復元模型など、展示物が充実し、軽く1時間は楽しめる。
折しも、本日で来館者が20万人を達成したということで、さらに賑わっていた。
博物館を後に、足羽川対岸の「宿布屋(しゅくぬのや)」さんへ。対岸だが、適当な橋が無く、けっこう迂回させられた。
普通の古民家にしか家に暖簾がかかっている。私達が一番乗りだった。「当店はおろしそば一本」と潔い表示が(笑)…
私は2皿をオーダー!
煮干しが効いた出汁が秀逸です。その出汁におろし大根の搾り汁が交わり、ほんのりと塩味が効いた素朴な味わい。おろし大根の辛みは全くありません。旨い!
速攻で完食し、帰路につく。渋滞を考慮し、いつものように小浜経由の鯖街道で京都市内に帰着しました。
天気とメンバーに恵まれた最高のグルメ山旅でした。
参考タイム
11/5 | 復原町並駐車場 8:30 ⇒ 8:45 湯殿跡庭園 8:45 ⇒ 9:05 唐門 9:05 ⇒ 9:20 復原町並 9:55 ⇒ 10:00 諏訪館跡庭園 10:00 ⇒ 10:15 復原町並駐車場 |
山行データへ
諸国名山探訪
Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved