井伊谷散策

−台風で山行は諦め、衝動的に転進した東海城&グルメ巡りそのB−

   
  

山行概要

日 程
2018年10月8日(祝)
山 域
遠州
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
龍潭寺=0:05=井伊谷宮=0:10=妙雲寺=0:05=渭伊神社・天白磐座遺跡=0:20=井伊谷城跡=0:10=井殿の塚=0:15=共保公出生の井戸=0:05=龍潭寺【1:10】
方広寺総門=0:10=方広寺本堂=0:15=方広寺総門【0:20】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨晩も車内で爆睡… 5時に起床し、動き出す。今日は3連休の最終日。渋滞を避けるため、昼前には帰路につきたい。と言う訳で、井伊氏発祥の地で、文化資源が色濃く残り、半日もあれば探索可能な西遠の井伊谷を目指す。
 その前に、少し寄り道。浜松市北の二俣城址に行くことに…
 R152(秋葉街道)で北上し、鹿島橋で天竜川を渡ると、二俣町に入る。「二俣城跡へ」の道標がある、トンネルを抜けた先の交差点を左折し、細い車道を山上に上がっていくと、すぐに二俣城跡の駐車場に到着。

二俣城天守台 6:17

 この地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であり、信濃側から見れば山間部から遠州平野への入口といえる場所にあるため、まさに交通の要衝であり、幾たびも戦乱の部隊となったところ。特に、武田・徳川軍によるこの城を巡る争いで有名である。
 また、二俣城は、家康の嫡男、松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。
 天正7年(1579年)7月、織田信長に家康の正妻・築山殿と信康が武田方に内通したとの報がもたらされ、信憑性は非常に疑わしいものであったが、信長は家康に2人を処断するよう求め、家康は抗うことができず、まず築山殿を殺害し、さらに9月15日、かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させたのである。
 服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る(近年では信康が切腹に追い込まれた背景には家康や家臣団との対立があったためではないかという説も強くなっている)。信康は時に享年21歳であった。

清瀧寺 6:43

 続いて、車を二俣の中心部にある二俣小学校前の駐車場に止め、清瀧寺へ。
 ここは、信康の遺体が葬られたところで、家康によって廟と位牌堂が建立され、その後、家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせたという。山号も信康山である。
 ここには、二俣城の遺構である、井戸櫓が移築されている。
 二俣城は切り立った岩盤上に立地していることから、水は西側の天竜川からの取水が必要で、井戸櫓が築かれていた。元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻し、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した際に、攻めあぐねたところ、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという話が「三河物語」に残っている。

信康廟 6:45

 境内奥の墓地には、信康の墓がある。
 また、この二俣の地は、本田技研工業の創業者、本田宗一郎の出身地であり、小学校に在学中のある日、「腹が減った」と授業中に教室から抜け出して、ここ清瀧寺の鐘楼に赴き、正午前に鐘を突き、持ってきた弁当を食べたという実話が語り継がれている。
 二俣の探索を終了し、井伊谷へ向かう。ほとんど、天竜浜名湖鉄道と並走するR362で西走し、金指で右折、R257で北上すると、すぐに井伊谷の里に入る。
 龍潭寺を拠点に散策することとし、ここの駐車場に車を止める。

井伊谷宮 9:27(帰りの撮影)

 龍潭寺の拝観は9時からなので、後に回して、北隣の井伊谷宮から探索スタート!
 井伊谷宮は、明治維新の際、建武親政に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つで、後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。
 宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、元中2年(1385年)8月10日に73歳でこの地で死んだと伝えられており(社殿の背後に宗良親王の墳墓がある)、その縁で彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治3年(1870年)に創建された。

妙雲寺 7:45

 井伊谷宮から井伊谷川沿いに西進し、橋の北詰で右折する。この辺り最近、区画整理事業が行われたらしく、整然としている。その一角に妙雲寺が建つ。
 妙雲寺は、龍潭寺と同じく、「おんな城主」井伊直虎の菩提寺である。
 井伊谷城の女城主として、激動の戦国時代に井伊家を守った直虎は、生涯独身を貫き、47歳(推定)でこの世を去った。亡骸は、「自耕庵」に葬られ、庵はその後、直虎の院号「妙雲院殿月泉祐圓禅定尼」をもって「妙雲寺」と改められた。
 平成27年(2015年)の11月、本堂で直虎の位牌が発見された。その後、南渓和尚(龍潭寺の第2世住職。井伊直平の次男で直虎の祖父、直宗の弟だったといわれている)の位牌や肖像画も発見されている。
 妙雲寺から西に少し歩くと渭伊神社。

渭伊神社 7:50

 渭伊神社は、元々、龍潭寺境内にあったらしく、南北朝時代に現在地へ遷座したというが、真偽は不明。神宮司川の流れに囲まれた丘に鎮座するため、その場所から井戸や井水を祭祀していたと考えられるとともに、平安時代、井伊家初代の井伊共保が渭伊神社内の井戸で誕生したとの言い伝えから、井伊家の氏神となったという。
 しめ縄の上に、井伊家家紋の彫刻が施されているのがその証である。

天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 7:53

 渭伊神社の本殿の後方、薬師山とも呼ばれる丘の頂きには、巨大な石がいくつも横たわっている。
 自然の造形とは思えないほど、見事にバランスのとれた配置で石群が存在しており、古代の祭祀場跡と言われている。
 いかにもパワースポットというような清浄な雰囲気が素晴らしい。この地は三方を神宮寺川に囲まれていることから、この遺跡は、水霊を祀る祭祀の場だったと思われている。
 昭和59年(1984年)、下草や低木に覆われ荒れていた巨石周辺を、地元の人々が手入れをしたことで現在の景観となり、遺跡であることが判明し、その後、いくつもの土器の破片や鉄鉾、勾玉、和鏡などが発見され、4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)まで続いた祭祀場だったことが判明した。

井伊谷城跡の城山山頂三角点 8:17

 渭伊神社から県道303号線をまたぎ、墓地の奥に続く細道を登っていくと、井伊谷城のある城山の山腹を東にトラヴァースしていく。心細くなるほどの森の中の細道である。台風の影響か、倒木で道がふさがれている箇所もあったが、何とか突破し、城の登り口へ。
 舗装された九十九折れの坂道が山上まで整備されており、一気に登っていく。
 山頂部は木に覆われているが、南側のみは切り開かれ、展望が開けている。

井伊谷城跡の展望 8:19

 井伊谷城は、南北朝時代の井伊家当主、道政が、平安末期に初代の共保(ともやす)が建てた井伊家居館を本丸として、二の丸や三の丸を整備し築いた城である。
 建武4年(1337年)、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が井伊谷を訪れると、道政は、親王のために城山に「御所の丸」をつくり、ともに北朝と戦った。この当時、戦時に井伊家が使ったのは、東方に約3キロ離れたより深い山の頂きに建てた三岳城だったが、戦国時代には、「御所の丸」に堀と土塁が作られ堅牢な山城となり、戦の拠点となっていた。
 その後、直虎が女城主となった3年後の永禄11年(1568年)、井伊谷城は、井伊直親(直虎の元許嫁)や直満(直親の父)を今川に謀殺されるよう仕向けた井伊家の家臣、小野道好に一時横領されたが、その直後に徳川家康が遠江に侵攻し、奪還した。

井殿の塚 8:35

 登ってきた道を下り、住宅地に下っていくと、大きなタブノキが目印の井殿の塚に到着。
 井殿の塚は、井伊直満、直義兄弟が弔われている場所である。
 戦国時代の井伊家の当主であった井伊直盛(井伊直虎の父)には男子がいなかったため、直盛の叔父に当たる直満は自分の長男、亀之丞(後の直親)を直盛の養子にし、直虎と結婚させて家督を継がせようとした。しかし、井伊家の筆頭家老であった小野道高の反感を買い、直親が家督を継ぐことを阻止しようと、当時井伊氏が従っていた今川義元に「直満、直義(直満の弟)の兄弟に謀叛の企みあり」と讒言し、義元は、2人を自害させた(亀之丞の命も狙われたが、武田領に逃れた)。
 井伊家の兄弟の無念の死をいたみ、この辺りの里人たちが、末弟の直元に乞い、供養のため、井伊谷城の居館敷地に塚を築き、遺骨を納めて塔を建て、一本の松を植えたという。以来ここを「井殿の塚」と称し、香華を絶やさなかったといわれている。
 その後、井伊直弼は、天正10年(1582年)6月に来訪し、祖先の墓所を礼拝して石垣等を寄進したと伝えられている。

共保公出生の井戸 8:50

 普通の公民館が建っている井伊氏居館跡を過ぎ、井伊谷のメインストリートである県道303号線を西に戻ると、神宮寺交差点で左折、しばらく南下すると、龍潭寺に帰還。そのまま通り過ぎて、一面の田圃の中、立派な白壁に囲まれた一角を目指す。
 これが、井伊家初代の井伊共保(ともやす)が出生したとされる井戸の跡という。
 都では藤原氏が全盛を誇っていた平安時代の寛弘7年(1010年)、当時、龍潭寺の門前近くのこの地にあったといわれる八幡宮の井戸の脇に捨てられていた赤子を、宮の神官が拾い育て、7歳のときに浜名湖畔の志津城の城主、藤原共資(ともすけ)に養子に出された子は、後に共資の娘を娶って共保を名乗り、井伊谷に戻って井伊氏を称したといわれている。
 井伊家の井桁と橘の家紋は、この井戸と、脇に咲いていた橘の花にちなんでいるといわれている。

龍潭寺本堂 9:21

 龍潭寺は、天平5年(733年)、行基によって、地蔵寺の寺号で開山されたが、寛治7年(1093年)、井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。
 平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされ、永正4年(1507年)、井伊直平が黙宗瑞淵を招き、龍泰寺と寺号が改められた。そして、戦国時代の永禄3年(1560年)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。
 直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、そして直盛の娘の直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。
 関ヶ原の戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた名刹である。
 本堂や山門等は、龍潭寺伽藍6棟として、静岡県の有形文化財に指定されている。

龍潭寺庭園 9:08

 本堂裏の池泉鑑賞式庭園は、寺伝によれば小堀遠州の作庭で、国の名勝に指定されている。
 ここで井伊谷の探索終了。まだ9時半なので、近所の名刹方広寺に寄っても、帰りの渋滞を回避できそうだ。と言う訳で、県道303号線をさらに山奥に入ったところにある方広寺へ。
 奥山半僧坊の名で親しまれている方広寺は、建徳2年(1371年)に後醍醐天皇の皇子の無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)により開かれたと伝えられる寺で、約60haの広大な境内に、本堂や三重の塔など60余棟の伽藍を擁する東海を代表する大寺院である。

方広寺山門 10:12

 総門をくぐったところに駐車場があり、ここで駐車料金を払って広大な境内へ。
 まずは谷に沿った参道を進む。ところどころに五百羅漢が佇んでいる。
 しばらく進むと、鮮やかな朱色の重曹の山門が現れる。山門は、足利紫山(しざん)管長の代、昭和27年(1952年)頃に再建された。
 正面には、高松宮宣仁親王のお筆による扁額が掲げられています。

方広寺の伽藍 10:18

 山門の先の分岐で、左に入り「哲学の道」と呼ばれる山道(裏参道)に入る。
 一気に登っていくと、本堂や鐘楼など、山上の大伽藍が見えてくる。角背橋という真っ赤な新しい橋を渡ると、本堂の前に出る。

方広寺本堂 10:42

 本堂は明治38年(1905年)から大正7年(1918年)にかけて建設されたもので、間口32m、奥行27mを誇る東海屈指の建築物である。
 中央の大額「深奥山」は山岡鉄舟によるものらしい。
 帰りは裏参道よりなだらかな表参道を下り、一気に車に戻ってきた。
 帰路は車で5分ほどの近くにある新東名の浜松いなさICから一気に大阪へ。この辺りも便利になりました…

参考タイム

10/8龍潭寺 7:257:30 井伊谷宮 7:357:45 妙雲寺 7:457:50 渭伊神社・天白磐座遺跡 7:558:15 井伊谷城跡 8:258:35 井殿の塚 8:358:50 共保公出生の井戸 8:508:55 龍潭寺
方広寺総門10:1010:20 方広寺本堂 10:4510:55 方広寺総門

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