熊野古道をほぼ終えたので、次の目標が欲しくなった。熊野古道伊勢路で久しぶりに伊勢神宮に参拝した印象が強烈だったので、自然と伊勢を目指す街道歩きに没頭していった…
しかし、お伊勢参りに使われた旧街道は多く、無限にあり、収拾がつかなくなってきた(笑)…
江戸期に、爆発的に起こった「お蔭参り(お伊勢参り)」だが、古代においては、伊勢神宮は皇室の祖先神ということで、勅許によらなければ参拝することはできなかった。その後、公家・寺家・武家に広がり、加持祈祷を行っていた伊勢神宮だったが、中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃していた。その伊勢神宮を建て直すため、神宮で祭司を執り行っていた御師(おんし)は外宮に祀られている豊受大御神を広めるため、農民に伊勢神宮へ参詣してもらうように暦を配るなど各地へ布教するようになった。
御師たちは、さらに組織化され、参宮のための宿泊の手配や大麻(たいま)などの神札の頒布を通して、地方の檀家(だんか)を拡大していき、伊勢講や神明講が地方に多数結成されるようになった。こうして中世末期から近世にかけて、かなり広範囲の信者を獲得するに至り、伊勢参りも盛んになり、一生に一度はお伊勢参りをするものという通念が生み出された。
江戸時代以降は、五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となり、さらに伊勢詣は賑わうことになる。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。米の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売された。
当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあり、農家の間では五穀豊穣の守り神でもあったから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていた。また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物(お守りやお札など)を持ち帰れば、お咎めは受けないことになっていたという。
そうした中で、「お蔭参り(お伊勢参り)」が発生する。お蔭参りは約60年に一度の周期で起こった熱狂的な群衆による参宮で、沿道の住民の施行(せぎょう)によって、着の身着のままでも参加できたのでこの名があるともいわれる。
大阪玉造から生駒山を越えて奈良に至る「暗越奈良街道」、奈良から桜井に至る「上街道(上ツ道)」、そして、桜井から榛原、奥津、多気を経て、神宮に至る狭義の「伊勢本街道」を含め、ここでは大阪玉造〜伊勢神宮の合計約170kmを「伊勢参宮本街道」として紹介する。
特徴としては、山道が多いことがあげられる。いきなりの生駒山暗峠越から始まり、赤膚山を越えて、奈良中心部へ。天理を経て桜井までしばらくは平野を進むが、以降は山道の峠越が連続し、なかなかに厳しいコースである。読図含め、できれば登山経験が求められるコースである。
険しい山道も多気を過ぎ、伏拝坂峠を越えれば、視界から山が消え、はるばる伊勢までやって来たことが実感できる。内宮に参拝した時はさすがに感動しました。
コースNo. | 山行No. | 区 間 |
開始日 | 終了日 | 日数 | 人数 | コ ー ス 概 要 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 |
暗越奈良街道その1 (上本町〜枚岡) |
11.11.06 |
11.11.06 |
1 |
1 |
近鉄上本町駅〜玉造稲荷神社〜深江稲荷神社〜近鉄枚岡駅 | |
2 |
暗越奈良街道その2 (枚岡〜南生駒) |
12.01.07 |
12.01.07 |
1 |
1 |
近鉄枚岡駅〜暗峠〜近鉄南生駒駅〜音の花温泉〜近鉄東山駅 | |
5 |
上街道(上ツ道)その2 (天理〜大和朝倉) |
14.03.22 |
14.03.22 |
1 |
1 |
近鉄天理駅〜市座神社〜大和神社〜黒塚古墳〜箸墓古墳〜恵比寿神社〜玉列神社〜近鉄大和朝倉駅 |
大道は、「日本書紀」の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され、日本最古の官道と言われている。
ここでの「大道」は、「竹内街道・横大路〜難波から飛鳥へ日本最古の官道『大道』〜活性化実行委員会」の対象となっている、難波大道、竹内街道、横大路、大和三道(上ツ道・中ツ道・下ツ道)、山田道としている。
竹内(たけのうち)街道は、堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの日本最古の街道である。
街道沿いには、応神天皇陵、仁徳天皇陵、推古天皇陵をはじめとする古墳が多数あることから、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を果たした幹線と考えられている。古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。
中世以降は、伊勢街道の一部として存続し、現在ではR166が通っており、竹内街道は飛鳥時代から現在に至るまで街道として利用されていることになる。
コースNo. | 山行No. | 区 間 |
開始日 | 終了日 | 日数 | 人数 | コ ー ス 概 要 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 |
728 |
堺〜河内松原 | 18.10.14 |
18.10.14 |
1 |
1 |
南海堺駅〜堺市役所〜JR三国ヶ丘駅〜金岡神社〜丹南東〜柴籬神社〜近鉄河内松原駅 |
2 |
735 |
河内松原〜上ノ太子 | 18.11.04 |
18.11.04 |
1 |
1 |
近鉄河内松原駅〜丹南東〜野中寺〜日本武尊白鳥陵〜杜本神社〜飛鳥戸神社〜近鉄上ノ太子駅 |
3 |
737 |
上ノ太子〜磐城 | 18.11.11 |
18.11.11 |
1 |
1 |
近鉄上ノ太子駅〜竹内街道歴史資料館〜竹内峠〜綿弓塚〜長尾神社〜近鉄磐城駅 |
大和三道は、平城京を起点に、奈良盆地の中央より東を南北に2kmほどの間隔で平行する三本の縦貫道で、東から、上ツ道、中ツ道、下ツ道からなる。
三道の敷設時期については、「日本書紀」孝徳天皇の白雉4年(653年)6月条に「処処の大道を脩治(つく)る」と記載があることなどから、7世紀半ば頃には敷設されたと推定されている。
さらに、「日本書紀」には、壬申の乱の奈良盆地での戦闘記事には、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前には完成していたことになる。
また、上ツ道の終点から飛鳥を経て橿原の下ツ道との交差点まで、さらに山田道が延びている。
上ツ道は、奈良市内から奈良盆地の東側を南北に貫き、桜井までを結ぶ古代の官道である。6世紀後半以降の飛鳥時代に整備され、かつては広い道幅の道がほぼ直線的に伸びていたとされる。
近世になってからは、「上街道」とも呼ばれるようになり、江戸時代には、長谷寺・伊勢神宮への参詣時に通る道として利用されたことから「長谷街道」や「伊勢街道」といった別名で呼ばれることもある。そうした経緯から、三道の中で最も道筋が保たれている。
コースNo. | 山行No. | 区 間 |
開始日 | 終了日 | 日数 | 人数 | コ ー ス 概 要 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2 |
天理〜大和朝倉 | 14.03.22 |
14.03.22 |
1 |
1 |
近鉄天理駅〜市座神社〜大和神社〜黒塚古墳〜箸墓古墳〜恵比寿神社〜玉列神社〜近鉄大和朝倉駅 |
長尾街道は、堺市から東へ向かい、二上山の北麓を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。
日本最古の「官道」である「竹内街道」の北約2kmに平行して整備され、既に飛鳥時代には築造されていたと考えられており、古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、また、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)ともいうことから、その特徴から長尾街道と名が付いたという。
河内国と大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(現在の柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅・二上駅の北側を通った「関屋峠越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが新たに開削され、現在のR165に至っている。雰囲気が大きく壊されているので、私は旧道の関屋峠越えのルートを採用した。
中世から近世において、商業都市堺や浪速を中心とした産業の流通や人々の伊勢詣や熊野詣、高野詣などによってさらに発展し、とりわけ、中高野街道と交わる辻は、明治時代まで御茶屋などがあり、「阿保茶屋」と呼ばれ、賑わったという。
伊勢詣にも利用されたことから、この項に収録した。
コースNo. | 山行No. | 区 間 |
開始日 | 終了日 | 日数 | 人数 | コ ー ス 概 要 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 |
746 |
堺〜藤井寺 | 18.12.24 |
18.12.24 |
1 |
1 |
南海堺東駅〜方違神社〜愛染院〜雄略天皇陵〜近鉄藤井寺駅 |
2 |
764 |
藤井寺〜磐城 | 19.03.02 |
19.03.02 |
1 |
1 |
近鉄藤井寺駅〜允恭天皇陵〜近鉄河内国分駅〜関屋地蔵尊〜近鉄関屋駅〜近鉄当麻寺駅〜近鉄磐城駅 |
諸国名山探訪
Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved