熊野古道紀伊路その11(岩代〜紀伊田辺)

−ついに熊野古道紀伊路を踏破! 小春日和の中、海浜ハイクを満喫−

   

山行概要

日 程
2015年11月22日(日)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
曇り後晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR岩代駅=0:40=千里王子社・千里観音=0:15=南部峠の石仏=0:35=三鍋王子神社=0:10=鹿島神社=0:55=大神社(芳養王子跡)=0:05=芳養一里塚=0:05=牛の鼻=0:25=潮垢離記念碑=0:05=出立王子跡=0:25=闘鶏神社=0:05=JR紀伊田辺駅【3:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日からの連戦。車中泊だったが、無神経な私は、いつものように爆睡。まずは目的地の紀伊田辺駅へ向かう。
 駅前のコインパーキングに車を停め、6時20分発の各停で、岩代駅へ戻る。

 まだ薄暗い中、駅を出発。昔は浜づたいに歩けたらしいが、今日では侵食のために通行不可とのことで、梅林の中を縫うように登っていく。

海を背後に進む 6:50

 細かく分岐する車道を進む。地図があってもコース通り進むのは至難の業だが、小まめに道標が出現するので、それを頼りに進む。
 ゆるやかに下るとR42が近づき、国道に合流する直前で、脇道に入る。ビニールハウスのところで左の細い山道に入るが、私は道標があるにもかかわらず、見落としてしまった。ここは注意が必要である。

今度は海へ下る 7:06

 林の中の暗い山道を突破すると、再び林道に出合い、梅林の中をのんびり下っていく。
 別荘地の中を抜けると、きのくに線のガードが現れ、これをくぐると、不意に目の前に砂浜が広がる。

千里浜に出た 7:14

 熊野古道紀伊路で唯一、砂浜歩きが楽しめる。締まった砂ではなく、けっこう潜るので、ショートカットの靴では砂が入り放題だが、あまりの景色の良さに構わずズボズボ進む。
 海亀が産卵のために上陸することでも有名で、各所に注意書きの看板が建っていた。

千里王子社 7:18

 境内には花山院の歌碑がある。1909年(明治42年)に近隣の須賀神社(みなべ町村西本庄)に合祀された。

千里観音 7:23

 千里王子社から石仏の立つ道を少しで、千里観音。
 明治7年、神仏分離令により、千里王子社から分離し現在地に移ったとある。
 本尊は、厄除け観音として知られる馬頭観世音で、桓武天皇の時代には、如意輪観音菩薩が祀られていたという。
 他にも、小栗判官が海で嵐に合い、観音経を唱えると白馬が現れ助けられたといい、如意輪観音に災難を救っていただいた御礼に、自ら馬頭観世音を彫り奉納したといわれている。
 千里観音の境内を抜け、きのくに線沿いに地道を進む。ブッシュも濃く、少し不安になる道だ。線路をくぐると、車道に合流し、南部峠への登りにかかる。

南部峠の石仏 7:40

 南部峠手前には、ラ○ホテルがあり、雰囲気ぶち壊しだが、やっと着いた峠には、石仏が佇んでいた。
 林間の車道を駆け下りると、JRを再びくぐり、R42に合流する。

紀州梅干館 7:59

 国道をしばらく進むと、巨大な梅干館が目の前に…
 梅干メーカー、ウメタの施設で、工場の見学や梅干し作り体験もできるらしいが、まだ始業前だった。
 南部大橋で南部川を渡り、いよいよ南部の市街地へ。

三鍋王子社 8:18

 イチョウの大木で有名な丹川地蔵を過ぎると、三鍋王子社は近い。
 藤原宗忠(藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣)が摂関政治から院政への過渡期の政治上の要事を克明に書き留めた「中右記」10月12日条に南陪山の麓にある王子社で奉幣をしたとの記事があるほか、後鳥羽院の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家が書き残した日記「熊野道之間愚記」にも「三鍋王子」との記述が見られる。
 1877年(明治10年)に、千里王子と同じく須賀神社に合祀された。
 昨夕もうろうろしていたJR南部駅前を通過し、静かな街並みを過ぎると、厳かな鎮守の森が現れる。これが鹿島神社である。

鹿島神社 8:33

 もともとは南部の沖合2キロのところにある鹿島に鹿島大明神があり、奈良時代以前に常陸の国の鹿島神宮から勧請したと伝えられ、宝永と嘉永の大地震の津波からみなべのまちを救ったといわれ、島全体が信仰の対象とされていたところ、明治42年に天照皇大神(おいせさん)、須佐之男命(ごりょうさん)と合祀され、現在の場所に移動した。
 その昔、鹿島から光の玉が現れ、その光が大地震からくる津波の災害から村を救ったと伝えられており、これに感謝を捧げる為に宝永5年から始まったとされる鹿島神社奉納花火祭は、毎年8月1日に約1200発の花火でみなべの夜空を彩る。

鹿島を望む 9:06

 鹿島神社から、しばらく国道の側道を行く。少し高台になっているので、常に海を眺めることができ、沖合には、みなべ町のシンボル、鹿島が見える。
 鹿島は、古代から神の島として崇められており、角度によって鹿島とみなべの町が並んだ三つ鍋の様に見えるという事から、文字は異なるが町名の由来となったとも伝えらる。
 魚の直売&食堂の「もとや魚店」を過ぎると、いよいよ紀伊田辺市へ。井原隧道をくぐると、芳養の町並みに入る。芳養王子跡である大神社は芳養川を渡ってすぐのところに鎮座する。

大神社(芳養王子跡) 9:42

 芳養王子は、「中右記」天仁2年(1109年)10月22日条に「早王子」の名で登場し、奉幣や納経を行ったとある。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月12日条にも「ハヤ王子」の記載が見られるが、「紀伊国名所図会」や「紀伊続風土記」といった近世の記録では「芳養」の表記が多い。
 明治期の神仏分離の際に何度か改称した後、1872年(明治5年)に、現行の大神社(おおじんじゃ)の社名になった。
 折しも、地元のお祭りの日で、つき立てのお餅を分けてもらいました。

芳養一里塚 9:50

 芳養王子のすぐ東、JR芳養駅の近くに、芳養一里塚があり、そばに榎の大木と地蔵堂が建っている。
 和歌山から18里の一里塚で、地元の人々からは「塚の地蔵さん」と呼ばれ親しまれている。

天神崎を望む 10:01

 R42に沿って進む。牛の鼻(太古熊野神が宮居を求めて出雲からここまで牛に乗って来たが、これより先は道が険しいので、鳥に召されて熊野に遷座したと伝えられている)を過ぎると、天神崎がすぐ目の前に見えるポイントがあった。
 天神崎の散策は今回は割愛し、田辺市内へ。

潮垢離記念碑 10:20

 国道から県道に入り、さらに路地へ。児童公園の一角に潮垢離の記念碑が立つ。
 この辺りは昔、熊野に参詣する人びとが身を清めるために潮垢離(しおごり)をとった浜として知られる。潮垢離とは、浜で海水を浴びて穢れをはらう儀式のことで、ここまで海辺をたどってきた熊野への道が、この浜を境に中辺路への山中ルートに切り替わることから、この浜で潮垢離をとることは重要とされたのだ。

出立王子跡 10:25

 県道に戻り、今度は反対側の路地に入り、少し登ると、出立王子跡が現れる。
 出立の地名は万葉集に「出立の松原」と詠まれ、「中右記」天仁2年(1109年)10月22日条には「田之陪(たのべ)に行き王子社に奉幣」と見え、田部(たなべ)王子とも呼ばれていた。
 「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月12日条には「出立王子」とあり、藤原定家が不覚にも風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ、鳥羽院に厳しく叱責され、やむなく潮浴びをしたと伝えられている。
 王子社はもと元町西郷の御所谷附近にあったといわれているが、元の場所は不明で、現在はこの地に移されている。

闘鶏神社 10:59

 商店街へ入る。豊田貞次郎(海軍大将、退役後、商工大臣や外務大臣を歴任)の生誕地を過ぎ、田辺駅前北西の味光路と呼ばれる飲食店街を抜け、闘鶏神社へ。
 七五三で賑わう境内で御朱印をいただき、車の待つ田辺駅へ。
 ようやく熊野古道紀伊路、大阪天満橋から紀伊田辺の完歩達成! いよいよ次は中辺路だ!

参考タイム

11/22JR岩代駅 6:357:15 千里王子社・千里観音 7:257:40 南部峠の石仏 7:408:15 三鍋王子社 8:208:30 鹿島神社 8:359:40 大神社(芳養王子跡) 9:459:50 芳養一里塚 9:509:55 牛の鼻 9:5510:20 潮垢離記念碑 10:2010:25 出立王子跡 10:2510:50 闘鶏神社 11:0511:10 JR紀伊田辺駅

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