−1年半前に登城に失敗した名城をリベンジ−
山行概要
2018年12月31日(月) | |
松山市街・道後温泉 | |
曇り後晴れ | |
単独 | |
えひめ共済会館=0:10=三ノ丸=0:25=本丸=0:10=東雲神社=0:15=秋山兄弟生誕地=0:05=伊予鉄勝山町駅【1:05】 伊予鉄大街道駅=0:10=坂の上の雲ミュージアム=0:10=松山城跡=0:30=えひめ共済会館【0:50】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
宿泊した「えひめ共済会館」を出発し、すぐ北側にある南口で松山城三ノ丸へ。
1年半前のGWに訪れたのだが、「天守の入場1時間待ち」の情報に、すごすごと逃げ帰ったのであった…
二ノ丸には、庭園や茶室などが整備されている。
三ノ丸奥にある黒門口から九十九折れを登って行く。こちらが江戸期の正規登城ルートである。
写真は二ノ丸史跡庭園と山上の分岐。反対側に進むと二ノ丸史跡庭園だが、まだ空いてないので、山上に向かう。
壁が低いので登城道から二ノ丸史跡庭園が見下ろせる。
植物で昔の御殿の間取りを再現しているらしい。
右は北門で城主も登城時にはこの門を潜って登ったという…
本格的な登りが始まる。距離は短いが、静かな深い森にいきなり入るので、城の登りとは思えない静けさである。
最後、本丸へは大きく折れ曲がりながら到着。
本丸の南西隅を守る太鼓櫓は、昭和48年(1973年)の再建。奥に天守も垣間見れる。
松山城は、天守をはじめ21棟の重要文化財が残っているが、昭和33年(1958年)から現在も木造による本格復旧整備がずっと続いているのだ。
戸無門は、本丸の大手入口の最初に現存する高麗門で、重要文化財。昔から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がない。
戸無門をくぐって、反転すると筒井門。昭和24年(1949年)、不審火で焼失してしまったが、昭和46年(1971年)に復元された。
この門は築城の際、正木城から移建されたと伝えられる松山城最大の門。本丸の固めを構成する重要な櫓門で、城中で最も重要かつ堅固な場所である。
続く隠門をくぐって、いよいよ本丸へ。
馬具櫓(右)は、戦災で焼失したが、昭和33年(1958年)に復元された。その左には、本壇の南隅櫓と小天守も見える。
左奥には、昨日登った興居島の伊予小富士も見える。
いよいよ城中核の本壇へ。
戦災にも生き残った中央の大天守は、言わずと知れた現存12天守の一つで、重要文化財。
この天守は3代目で、安政元年(1854年)の落成。高さ20m、連立式3重3階地下1階構造の層塔型天守である。現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられている。
左から、小天守、大天守、一ノ門南櫓。壮観です。
本壇内部へ。始業すぐなのに、もうかなりの人でいっぱいである。
本壇内部への入口となる一ノ門。上方からの攻撃が容易な高麗門で、次の二ノ門との間は枡形を形成しており、攻め手は、小天守、一ノ門南櫓、二ノ門南櫓、三ノ門南櫓の四方から集中砲火を浴びることになる…
重要文化財である。
天守内部へ。西方を望む。興居島が見える。
南方を望む。松山市街も一望。
本壇を出て、振り返る。
重要文化財の紫竹門と、左から南隅櫓、小天守、大天守、一ノ門南櫓。南隅櫓と小天守は、昭和8年(1933年)の不審火で焼けてしまったとのこと。一ノ門南櫓は現存で重文である。
本丸の西側に回り込む、
古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、搦手方面の防備のための施設が並ぶ。
左から乾門東続櫓と乾門。戦災で焼失したが、昭和57年(1982年)の復元。
右奥は乾櫓で、これは現存で重要文化財。弾丸が壁を貫けないように壁の中に小石や瓦を詰めて厚くする太鼓壁構造となっているとのこと。
十間廊下を挟んで北隅櫓(左)と南隅櫓。
北隅櫓は戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式をもつ櫓である。十間廊下は天守の搦手に当たる西側の乾門方面を防衛するとともに北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓である。小天守と同様、昭和8年(1933年)の不審火で焼けてしまった…
乾櫓の北には野原櫓が建つ。
野原櫓は乾櫓とともに本丸西北を防備するとともに、その東にあった小筒櫓(跡)と本丸の北側を防衛する重要な櫓であり、日本で唯一現存する望楼型二重櫓であり、天守の原型といわれている。
石落とし、狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残り、重要文化財である。
本壇の鬼門(北東)に当たる箇所には、艮門と艮門東続櫓がある。艮門は不浄門ともいい、この方面の防備を担当すると共に、本丸防衛のための出撃口としての意味も持ち、敵が大手口の揚木戸門や、搦手口の乾門方面に迫ったとき、この門から出撃して侵入者の側面を攻撃するためのものと考えられている。
艮門と艮門東続櫓とも明治期に取り壊されたようで、昭和59年(1984年)に再建された。
本丸を出る。東雲口登城道を下る。ロープウェイ、リフトと交差しながら下っていく。
東雲神社に降り立つ。
東雲神社は、文政6年(1823年)、松山藩11代藩主松平定通が、藩祖である松平定勝の神霊を祀るため、京都の吉田家に神号授与を要請し、息長福玉命の神号を得て、松山城山揚木戸に仮宮を造営し仮勧請したのに始まる。
天保8年(1837年、12代藩主松平勝善は、藩祖定勝の神号授与を再度依頼し、東雲大明神の神号が授与され、松山城内の御社へ正式に勧請し、社殿の造営が開始され、天保11年(1840年)、社殿が完成し、藩崇敬の神社とした。
戦災で焼失したが、昭和48年(1973年)、神明造りの社殿が完成した。
境内を下り、賑やかなロープウェー街を通り抜け、秋山兄弟生誕地へ。
秋山家は、江戸末期の天保年間からこの地に家を構えており、兄の好古が退役後、北予中学校の校長時代に住んでいたのは、自分が生まれた当時の家に若干手を加えただけのものだったといわれている。
現在の建物は、当時の設計図がないことから、好古が住んでいた時に何度か訪問していた親戚の方々などからの聞き取りや、当時の写真を検証して建設されたものである。当時の湧水を今に残す井戸など、在りし日の暮らしが再現されている。
道後温泉に入るため、最寄りの勝山町駅へ。
真っ赤なLRTが鮮烈である。
ちなみに伊予鉄道は、明治20年(1887年)の創立で、民営鉄道としては日本で2番目に古いそうだ(最古は、東北本線などを経営していた「日本鉄道」)。
ここも2年前に来ました。2回も本館に来ましたが、すごい行列で2回とも断念…
この日も行列で入る気が失せました…
気を取り直し、日本百名城の湯築城跡へ。
1年半前はこってりと回ったが、今回は触りだけ…
本館前の「道後麦酒館」さんに突入。清酒「仁喜多津」で有名な、地元の酒蔵である水口酒造さんの営業らしい。
ケルシュタイプの「坊ちゃんビール」でスタート!
「伊予のうまいもん」として、「城川町のウィンナー盛り合わせ」!
「伊予のうまいもん」として、「瀬戸内真鯛の刺身」!
「自家製ビール酵母入りじゃこ天とたことわかめのかまぼこ」でフィニッシュ!
この後、1年前にオープンしたばかりの道後温泉別館「飛鳥乃湯泉(あすかのゆ)」に沈む… 最高!
松山市街に戻る。大街道駅から、坂の上の雲ミュージアムに行こうか…
ミュージアムの近くにも色々と見どころが…
まずは愛松亭跡。愛松亭とは、夏目漱石が松山に赴任当初住んでいた下宿先の名称で、ここに建てられていた。
漱石は、ここからの景色を大変気に入り、友人の正岡子規に自慢の手紙を送る程だったらしい。
愛松亭跡の奥には萬翠荘が建つ。
萬翠荘は、大正11年(1922年)、旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(さだこと)伯爵が、別邸として建設したもの。
陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時の松山最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところらしい。裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられている。
萬翠荘は戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されている。
いよいよ坂の上の雲ミュージアムへ。
しばし展示に見入る…
大学生の時に一気に読破した感動が蘇ってきました…
すっかり晴れ渡ってきたので、再び城山へ登る。
今回は、リフトで横着する(笑)…
本丸からは、雪を被った石鎚連峰が一望だ…
曇りの時は全然印象が違う… 素晴らしい!
北隅櫓(左)と南隅櫓。
本丸西面。馬具櫓(右)から、大天守、小天守、南隅櫓が続く。興居島も見える。
石鎚連峰をバックに松山市街が広がる。
1日2回も松山城を堪能し、1年半前のリベンジを完全に達成した。
参考タイム
12/31 | えひめ共済会館 8:25 ⇒ 8:35 三ノ丸 8:35 ⇒ 9:00 本丸 9:40 ⇒ 9:50 東雲神社 9:50 ⇒ 10:05 秋山兄弟生誕地 10:05 ⇒ 10:10伊予鉄勝山町駅 伊予鉄大街道駅 13:55 ⇒ 14:05 坂の上の雲ミュージアム 14:40 ⇒ 14:50 松山城跡 15:30 ⇒ 16:00 えひめ共済会館 |
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