熊野古道紀伊路その7(海南〜紀伊宮原)

−麗らかな春の休日、熊野古道紀伊路のハイライトコースを満喫−

   

山行概要

日 程
2012年4月8日(日)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
JR海南駅=0:20=藤白神社=0:35=藤白峠=0:25=橘本王子=0:40=拝ノ峠=1:10=有田川温泉=0:30=JR紀伊宮原駅【3:40】

記録文(写真はクリックで拡大)

 熊野古道の直前区間の記録は、その6(布施屋〜海南)へ。

 今春の週末は快晴の日が多い。故に無理しても出かけてしまう。前から気になっていた熊野古道の藤白坂へ。
 張り切って4時半に起き、阪急烏丸駅5時過ぎの始発で大阪に向かい、紀州路快速で一気に海南へ。それでも8時を回っていた。京都から和歌山へは東京に行くより遠いことを実感…

海南の渋い町並 8:30

 すっきりと晴れ渡った空の下、意気揚々と発進。駅から南へ、いかにも旧街道風情の古い町並みを抜けていく。

藤白神社 8:35

 JRを渡り、坂をひと登りで藤白神社。熊野九十九王子の中でも特に格式が高く別格とされた藤代王子跡である。
 中世熊野詣の盛期には、九十九王子の中でも特に格式の高い五体王子のひとつとして崇敬された。
 後鳥羽院の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家が書き残した日記「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月9日条に、「御経供養」「白拍子」といった文字が見えるなど、参拝の折には,歌会,里神楽,相撲などの奉納が行われるのが通例であった。また,藤白の次の宿泊地であった湯浅で歌会が催され、その歌会で後鳥羽院らの詠まれた歌が藤白王子に献納されている。

藤白坂から振り返る海南の町並み 8:48

 桜満開の境内を後に、有馬皇子の歌碑を過ぎ、細い舗装路を緩やかに登っていく。みかん畑を抜けると山道となり、藤白坂の登りとなる。
 路傍には町石がわりの丁石地蔵が祀られている。これらは江戸時代に海南の専念寺住持であった全長が建てたものと伝えられ、旅人の安全を祈念したものだという。

藤白峠に建つ地蔵峰寺 9:15

 所々石段も残る歴史の香り溢れる峠道をつめれば、地蔵峰寺の建つ藤白峠。ここが藤白塔下王子跡であり、明治42年(1909年)に橘本王子神社に合祀されるまでは、若一王子神社と称され、祠もあったという。
 地蔵峰寺の本堂には石造の地蔵様が祀られており、地元では「峠の地蔵さん」と呼ばれ親しまれている。

御所の芝の展望 9:17

 峠から少し西に分け入ると、御所の芝と呼ばれる展望所に出る。「熊野路第一の美景なり」と「紀伊国名所図会」にも記された名所である。和歌浦やマリーナシティなどが一望できる。
 峠に戻り、林道と何度か交差しながら、加茂川に向かって下っていく。

藤白峠からの下り道 9:24

 周囲の景色は最高! しかし、行く手の山がどんどん高さを増していく。そうか紀伊宮原まではもう一つ山越えをしなくてはいけないのかと今更気づく。
 加茂川の岸辺まで重力に逆らうことなく駆け下る。橘本王子(きつもとおうじ)跡は、近くの阿弥陀寺の境内にあったと伝えられるが、遺構らしきものは見られない。
 しばし平坦な道を今度は支流の市坪川に沿ってさらに南へ。

橘本神社 9:45

 橘本神社に到着。所坂王子跡でもある。境内にはみかんの木の先祖である橘の木がある。ひと山越えて来たので、しばしの間ほっこりタイム。しかしホンマに良い天気だ。
 所坂の名の起因については、江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌「紀伊続風土記」に「此地草蘇(ところ)の多く生ひたりし故に此名あり」と記されている。
 天正17年(1589年)には、白河法皇が熊野行幸の際に当社で一夜を明かし、「橘の本に一夜のかりねして入佐の山の月を見るかな」と詠んだという。
 明治40年(1907年)、神社統合令によって塔下王子、橘本王子、さらにみかんと菓子の祖神田道間守その他の社祠を合わせ祀っており、全国的にも珍しいみかんとお菓子の神様として知られている。
 平坦な道はさらに続く。

山路王子神社 10:00

 やがて、山路王子神社が現れるが、ここが一壷王子跡である。
 「紀伊続風土記」に「街道の西にあり 市ノ坪大窪沓掛三箇村の産神なり 御幸記に一壺王子とある 鐘銘には山路王子と刻めり 拝殿玉垣鳥居鐘楼あり 昔は瑠璃光山といひしに今廃して其本尊廳にあり」との記録が残る。
 境内に土俵があり、秋祭りの際に、子供の健やかな成長を願い行われる「泣き相撲」で有名である。
 山路王子神社から、徐々に傾斜が急になる。拝ノ峠への登りは藤白峠より骨が折れる。ずっと車道なのも精神的に辛い。
 薄暗い峠の頂上を通過し、ゆるやかに南へ下る。何度か西側が開け、淡路島まで見渡せる。

蕪坂塔下王子跡 10:40

 拝ノ峠からしばらく下ると、蕪坂塔下王子跡である。蕪坂王子、または蕪坂峠王子とも言われる。
 「中右記」(藤原宗忠が政治上の要事を克明に書き留めた院政初期の基本史料)の天仁2年(1109年)11月6日条に「加不良坂」と記され、また、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月9日条に「カフラ坂」、更に帰路の24日条にも「超蕪坂藤代山」とあるが、王子があったとする記述は見当たらない。
 一方で、「民経記」(民部卿勘解由小路(かでのこうじ) 経光の日記。全46巻で、闕失部分はあるが,鎌倉時代中期の公家社会の行事が克明に記されている重要史料)の承元4年(1210年)4月25日条には王子の名が見える。
 王子跡に建てられたという蕪坂塔下王子社は、明治41年(1908年)に近隣の宮原神社に合祀された。

有田川への下り 10:46

 王子跡を過ぎると、民家の間を縫う、気持ちの良い細道が続く。空と海が青い…
 周囲はまたみかん畑となり、林道を串刺しにしながら、歩道は急降下を続ける。

有田川が徐々に近づく 10:52

 相当な急傾斜なので、膝にはこたえるが、一気に標高を下げ、さっきは見下ろしていた紀伊宮原の町並みが徐々に同じ目線へ変わっていく。
 山口王子跡まで来れば、完全に平坦な道となり、有田川の畔まではもう一息である。

山口王子跡 11:00

 山口王子は、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月9日条には「カフラサカ山口王子」とあり、「頼資卿記」の承元4年(1210年)4月25日条には、一帯の地名にちなんでか、宮原の王子という名が記されている。江戸時代には、山口王子社あるいは鏑鎚(かぶつち)王子などと呼ばれていたようである。明治41年(1908年)に近隣の宮原神社に合祀された。
 平成3年(1991年)に地元の有志が社祠を再建した。

 

有田川 11:27

 ここまで来れば、JR紀伊宮原駅はすぐだが、まだ時間があったので、宮原橋で有田川を渡って、20分ほど歩いた所にある有田川温泉に寄り道。

太刀魚の姿造り 11:55

 併設のレストランで、造りや天ぷらなど、太刀魚のフルコース&ビールで昇天。あー今日は良い仕事した!!
 温泉もサウナ併設でトータル2時間半ものんびりしてしまった…

ローカル風情満点のJR紀伊宮原駅 14:40

 JR紀伊宮原駅へは有田川沿いの涼風を浴びながら、大満足で戻る。
 しかし、特急「スーパーくろしお」は満席であり、またもや電車を乗り継ぎ乗り継ぎ3時間以上かけて帰洛した。和歌山はホンマに遠い…

 その8(紀伊宮原〜湯浅)へ。

参考タイム

4/8JR海南駅 8:158:35 藤白神社 8:409:15 藤白峠 9:209:45 橘本神社 9:5010:00 山路王子神社 10:0010:30 拝ノ峠 10:3010:40 蕪坂塔下王子跡 10:4011:00 山口王子跡 11:0011:40 有田川温泉 14:1014:40 JR紀伊宮原駅

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