笠置山から柳生の里へ

−東海自然歩道に沿って、修行の山から剣術の里へ−

   

山行概要

日 程
2022年10月27日(木)
山 域
笠置山地・柳生街道
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
JR笠置駅=0:30=笠置寺(行場巡り25分)=0:35=十兵衛杉=0:25=芳徳寺=0:10=天乃石立神社・一刀岩=0:10=疱瘡地蔵=0:25=南明寺=0:30=夜支布山口神社=0:30=円成寺【3:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 業務の隙間を縫って、休暇取得に成功! 長年、柳生の円成寺境内にある「里」さんの松茸うどんを狙っていたが、土日は入店厳しそうだったので、行けずにいたところ、ついに、タイミングが合う時がやって来た。

 京阪本線、交野線、JR学研都市線、関西本線を乗り継ぎ、笠置駅にたどり着く。車で来るより相当面倒くさい行程だ。
 本日のゴールに設定している円成寺から奈良に向かうバスは13時35分発を逃すと、次は16時7分発までないので、焦り気味で出発。

笠置の町並み 8:29

 駅から南東方向に進んで行くと、「市場」交差点がある。笠置と言えば、一般的には木津川河川敷でのキャンプが有名で左に曲がると木津川だが、私は一顧だにせず、右折する。
 「市場」交差点周辺は、古い町並みが広がっている。南へ100mほど進むと、笠置山上まで通じる車道の入口があり、そのすぐ横に東海自然歩道の入口もあるので、ここで山道に入る。

笠置山への登山道 8:45

 けっこう急な箇所もあり、ひと汗かかされる。平日なので、誰もおらず、静かな登山道だ。
 東海自然歩道が柳生方面に向かうため、右折するポイントをそのまま直進すると、笠置寺はすぐ目の前だ。
 笠置寺の創建は不詳だが、境内に特徴的な巨石が点在することから、古代から巨石信仰、山岳信仰の場として、成立していたと思われる。
 歴史上にはっきりと存在が確認されるのは、元禄元年(879年)の「東大寺要録」からであるが、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)には、日本仏教における戒律の復興者として知られる興福寺出身の僧・貞慶が、南都の仏教の退廃を嘆き、笠置寺に住した。貞慶は藤原信西の孫で、学僧として名声高かったことから、笠置寺の寺勢は最盛期を迎え、伽藍もこの頃に整備された。
 鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り、挙兵したが、同年9月に落城、後醍醐帝は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった(元弘の乱)。この兵火で笠置寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離するなど、甚大な被害を受けた。
 その後、再興と焼失を何度か繰り返すが、寺勢は衰え続け、寺は衰退。明治初期には無住となった。現在の寺は明治9年(1876年)に再興されたものである。
 境内に入るが、寺務所は無人で、参拝&行場巡り料300円を納付し、早速行場巡りへ。

笠置石 8:58

 大師堂やもみじ公園に向かうルートが分かれると、すぐに巨石が現れ、笠置石が現れる。
 671年(天智天皇10年)に鹿狩りに来山された大海人皇子(天武天皇)が、巨石から馬もろとも滑落しそうになった時に「山の神よお救いください」と願われると、仏さまが現れて難を逃れた。皇子は恩返しに目前に現れた仏の姿を巨石に刻むことを約束し、後日訪れた際の目印としてかぶっていた笠をこの石の上に置いて帰ったという。
 笠を置いた石ゆえ「笠置石」と呼ばれており、「笠置」という地名の由来となった石である。
 笠置石の前には、石造十三重塔が建つ。かつて存在した木造十三重塔の跡に建てられており、鎌倉時代末〜室町時代の建立とされており、国指定の重要文化財である。

弥勒摩崖仏跡 8:59

 笠置石の奥には、笠置寺の本尊である弥勒摩崖仏跡の巨石が建つ。高さ約20m、幅約15mで、平滑面に弥勒菩薩を彫刻していたが、元弘の乱の兵火で焼亡し、現在は光背部分のみが判別できる程度になっている。
 弥勒摩崖仏跡の目の前に建っている正月堂(弥勒磨崖仏の礼堂)の脇から行場道が続いている。

胎内くぐり 9:00

 すぐに虚空蔵磨崖仏が現れ、その先に胎内くぐりが現れる。
 修行場のスタート地点であり、岩の洞窟を母胎にたとえ、通り抜けることによって生まれ変わるとされた。
 私も通り抜け、生まれ変わりました(笑)…

太鼓岩 9:01

 胎内くぐりの先には太鼓岩が鎮座。叩くとポンポンと音がするらしい。

ゆるぎ石 9:04

 続いて、ゆるぎ石が登場。
 元弘の乱で笠置寺に籠城した後醍醐軍が、巨石を落として幕府軍を攻撃するために使った巨石の残りらしい。
 「重心が中央にあり、人の力で動く」との案内だったので、押してみたが、ピクリとも動きませんでした(笑)…

平等石からの眺望 9:05

 次は、平等石。小ピークの上にあり、登ってみると、北東方面の眺望が抜群。蛇行する木津川が良く見える。

後醍醐天皇行在所 9:11

 上り下りを繰り返し、西側へ回って行くと、もみじ公園を見下ろす場に出た。後醍醐天皇行在所を示す道標があり、左にルートが分かれているので、そちらに向かうと、北側に登る石段が現れる。
 登ったところが後醍醐天皇行在所で、この辺りが笠置山の頂上である。

もみじ公園を見下ろす 9:14

 先ほどの分岐まで戻る。もみじ公園を見下ろすが、色づきはまだまだこれから。
 例年、紅葉の見頃は11月中旬らしいです。

貝吹岩 9:15

 行場巡りの正コースである分岐を右に行くと、すぐに貝吹岩が現れる。
 元弘の乱の際、兵士たちの士気を高めるために、この岩の上でほら貝を盛んに吹いた場所だという。

貝吹岩から西方の眺望 9:15

 この辺りは西方の展望が良く、木津川が見下ろせた。
 もみじ公園に下り、公園を縦断し、反対側へ登って行くと、先ほどの後醍醐天皇行在所石段の下に出る。結局、もみじ公園を一周したことになった。
 石段とは反対側に進んで行くと、大師堂。

大師堂 9:18

 石仏の弘法大師が本尊の大師堂。元弘の乱で焼失した後、なかなか復興されなかったが、明治期に関西鉄道(現JR関西本線)の整備に伴い、笠置駅にあった大師堂を移築し、現在に至っている。
 大師堂の先で行場巡り一周完了。

柳生への道 9:24

 笠置寺を後に、東海自然歩道の標識に従い、柳生へのルートに入る。
 杉の植林帯の中、平坦な地道を進んで行く。笠置寺への山道と同様、静かな山道だ。
 六角堂跡への分岐を左に分けるところで、車道に合流。ゆるやかに登り、峠のような地形を越えて下って行くと、左手は、かさぎゴルフ倶楽部に接しながら下るようになる。
 さらに下り、県道4号線「笠置山添線」に合流してすぐのところに、阿対(あたや)の石仏がひっそりと立つ。

阿対の石仏 9:42

 高さ2mほどと奈良市内でも有数の規模を有する阿弥陀如来像と、その脇に小さな地蔵菩薩像が刻まれている。
 室町時代の作と言われる阿対の石仏は、阿対の「地蔵」とも呼ばれ、地域の人々を中心に深い信仰を集めるスポットとしても知られており、大きな阿弥陀如来像は、「流行病」よけの願いを叶えてくださる仏様として、また小さな地蔵菩薩は子どもを持っていない人が、「豆腐」をお供えすると望み通りに子どもを産むことができるというご利益があるとされ、無事子供が生まれた際には、ご利益に感謝して千個の数珠を作って奉納するという習わしがあったと言われている。

柳生の里に出た 9:46

 阿対の石仏から少し南へ進むと、目の前が開け、柳生の里の北端に入ったようだ。
 誠に長閑な山村を南へ縦断していく。

十兵衛杉 9:55

 木津川支流の打滝川の左岸側の山手に沿って南下し、「十兵衛杉へ」の道標に従い右折し、墓地の中を登って行くと、頭上に天に突き刺すような枯れた杉の大木が目に入ってくる。
 これが十兵衛杉で、柳生藩初代藩主の柳生宗矩の子で、真偽はともかく「剣豪」のイメージで知られる柳生十兵衛三厳が、柳生の地から旅立つ際に先祖の墓地に杉の木を植えたという伝説が残されている。
 昭和48年(1973年)の落雷で枯死し、立ち枯れてしまった木のみが残されているが、幹回りの太さや木の高さは際立つ大きさで、枯れた白い幹が逆にインパクトを放っており、柳生の里のランドマーク的存在となっている。

旧柳生藩家老屋敷 10:04

 十兵衛杉から南下し、R369に合流。この辺り一帯が、柳生の里の中心エリアになるのだろうか。
 国道を少し進んだ箇所で、右折し、1本西側の細道で南下すると、高石垣が聳える旧柳生藩家老屋敷がある。
 この屋敷は、柳生藩の財政再建を成し遂げた家老小山田主鈴が藩主柳生俊章から賜った土地に営んだ旧隠居宅である。大規模な石垣が特徴的で、天保12年(1841年)に尾張国の石工が築いたと刻まれている。
 屋敷は嘉永元年(1848年)の完成。昭和39年(1964年)に作家山岡荘八の所有となり、山岡没後、山岡の遺志により奈良市に寄贈され、小山田主鈴と柳生藩及び山岡荘八に関する資料館として公開された。奈良県指定の有形文化財である。
 時間の関係で内部見学はパスして、先へ進む。

柳生八坂神社 10:09

 さらに南へ進むと、林に突き当たり、山道が延びている。すぐに柳生八坂神社の境内に飛び出す。
 柳生八坂神社は、柳生の里の最大の神社で、承応3年(1654年)に藩祖柳生宗矩の子である柳生宗冬が、柳生の里の南にある大保地区の八坂神社のご祭神を勧請して社殿を造り「八坂神社」とした記録が残っている。一方で、それ以前から春日大社の本殿第四殿の御祭神である比売神を祀る四之宮大明神と呼ばれる神社であったともされている。
 特徴的な拝殿は、この後参拝する天石立神社の能舞台として用いられていた建物を移築したらしい。

旧柳生藩陣屋跡 10:12

 八坂神社から、南東に進み、小高い丘に登ると旧柳生藩陣屋跡。案内板が立つのみで、広場になっている。
 寛永19年(1642年)に藩祖柳生宗矩が建てた柳生藩陣屋の跡地で、建物は延享4年(1747年)に火災で全焼し、本格的な再建はされず、仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。ソメイヨシノが300本ほど植えられており、お花見スポットとして有名。
 陣屋跡から、いったん北側に下り、合流したR369から東へ打滝川を渡り、車道を登って行くと、道が二分し、右が天乃石立神社・一刀岩方面へ、左は芳徳寺へ向かうルートだが、まずは芳徳寺へ向かう。

柳生正木坂剣禅道場 10:19

 芳徳寺の手前に、柳生正木坂剣禅道場が建つ。
 この地は柳生十兵衛三厳の異母弟、友矩の邸宅跡とされている。
 道場名は、柳生十兵衛が延べ約1万人ともいわれる弟子を鍛えたと伝えられる「正木坂道場」に由来する。柳生新陰流の精神「剣禅一如」を受け継ぐ道場で、昭和40年(1965年)、当時の芳徳寺住職・橋本定芳氏の尽力で建立された。
 建設計画が立てられたのは昭和6年(1931年)であり、34年の歳月がかけられた。その間、宇垣一成、徳富蘇峰、犬養毅、長谷川伸、吉川英治ら多くの政治家、財界・文化人の尽力・助力があったと言われている。
 建物は奈良地方裁判所として使われていた興福寺一乗院の屋根と柱を移築し、正面入口は京都所司代の玄関を移設したものである。

芳徳寺本堂 10:20

 芳徳寺はすぐ目の前だ。
 芳徳寺は柳生氏の菩提寺で、かつては柳生城があった柳生の地区を一望できる高台に位置する。寛永15年(1638年)、柳生藩主柳生宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため開基となり、宗矩と親交のあった沢庵宗彭の開山により創建されたと伝わる。
 宗矩の死後、当時、11歳であった末子の六ツ丸が仏門に入り、大徳寺の天祐和尚に預けられたのち、列堂義仙として当山の第一世住持となった。
 本堂は、宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。奈良市指定の有形文化財である。
 廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔であ柳生基夫氏が資金を遺贈し、本堂が再建された。
 その後、大正末期から昭和初期に当山の副住職、住職を務めた橋本定芳氏が再興に奔走、柳生新陰流の普及にも努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現:成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた。

柳生一族の墓 10:25

 芳徳寺の北側の林の中に柳生一族の墓地がある。
 柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基余りが並ぶ。
 芳徳寺を離れ、先ほどの分岐まで引き返し、山中を進む。すぐに分岐が現れ、柳生街道へは右手のルートを取ることになるが、ここはいったん左に向かい、天乃石立神社・一刀岩へ向かうため、さらに山中に分け入る。すると巨石が前方に現れる。これが天乃石立神社である。

天乃石立神社 10:40

 天乃石立神社は、小さな拝殿を持つほかは「磐座」と呼ばれる4つの巨岩そのものがご神体となっている神社であり、現在は4つの磐座がご神体となっている。
 創建は不詳であるが、延喜式に名を連ねる古社であり、天岩戸が落ちて来たといった伝説が残されているほか、周辺一帯の奈良市内山間部では古代から巨石・巨岩信仰があったことから、相当古い歴史を持つと考えられる。

一刀岩 10:41

 天乃石立神社の奥には、真っ二つに分かれた巨石があり、これが一刀石である。
 伝説が残っており、柳生藩初代藩主、柳生宗矩の父に当たる柳生宗厳が天狗を斬った後に残ったのがこの石とも、天狗と間違えて斬ったのがこの石であるとも言われている。
 分岐に戻り、南西方向に下って行く。すぐにR369を横断し、東海自然歩道の標識に従い、山道に入り、南西方向に進んで行く。

疱瘡地蔵 10:55

 すぐに山道に面して疱瘡(ほうそう)地蔵が現れる。
 疱瘡地蔵・正長元年柳生徳政碑は、巨石にお地蔵さまと碑文の両方が彫られたもので、お地蔵さま本体よりもお地蔵さまの正面右下に記された碑文のほうが歴史遺産として良く知られた存在であり、碑文は室町時代の中頃に京都で発生し、奈良方面にも波及した「正長の土一揆」の際に農民の側が勝ち取った「徳政令」について記されたものとなっている。
 碑文は現在は風化でほとんど読み取ることができないが、「正長元年ヨリ サキ者カンへ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス」と記されており、農民が背負っていた負債が帳消しになった旨が記されており、農民の立場からの歴史を示す貴重な碑文として知られている。

阪原の里に出た 11:14

 疱瘡地蔵から静かな山道をゆるやかに登って行くと、阪原峠を越え、一気に下って行くと前方が開け、阪原の里に出た。
 阪原は、大柳生と柳生の狭間に位置する小さな盆地のような空間である。

お藤の井戸 11:19

 集落に入ると道端に「お藤の井戸」という古井戸がある。
 阪原に住んでいた「お藤」という若い娘が、この井戸でいつもと同じように洗濯をしていたところ、偶然、柳生宗矩が通りかかり、美しい顔立ちのお藤を見つけて名を尋ねるのみならず、「洗濯桶の中にある波の数はいくつか」といった少し意地悪な質問をしたところ、お藤は決してひるむことなく「波の数は21でございます」と答えたばかりか、「お殿様がここまでやって乗って来られた馬は何歩歩いたのですか」と言い返し、宗矩の方が恥をかくような格好となったが、宗矩はむしろそのお藤の機転の利く姿、才気に惚れ込んで、自らの妻としたという。

南明寺本堂 11:20

 「お藤の井戸」のすぐ南に南明寺(なんみょうじ)が建つ。
 南明寺の創建は不詳。伝承によれば敏達天皇4年(575年)、百済の僧によってこの地に営まれた「槇山千坊」の一つであったという。現本堂は鎌倉時代中頃の建築と推定され、境内からはこの時代をさかのぼる遺構や出土品などが見つかっていないことから、実際の創建は鎌倉時代頃ではないかと推定されている。
 木造薬師如来坐像をはじめ3体の仏像は本堂より古い平安時代の作であり、他所から移されたものと考えられている。
 本堂と仏像3体とともに、国指定の重要文化財である。

水木古墳の辺り 11:44

 南明寺を後に、大柳生の古い町並みを抜けると、再び耕作地が広がり、畦道のようなところを進んで行く。
 道横に水木古墳という円墳がある。水木古墳は、出土遺物より古墳時代後期の6世紀後半頃の築造と推定されている。大柳生盆地を一望する位置における単独墳である点、石室規模・豊富な副葬品の点から、奈良市東部における有力墓に位置づけられている。

夜支布山口神社 11:50

 南から西方向に回り込むと、夜支布山口神社の鎮守の森に突き当たる。
 夜支布山口神社の創建は不詳。大柳生地区の氏神様として延喜式記載の由緒と歴史を有する神社であり、「山口神社」という呼び名は、その他の奈良県内の山間部にも数多くみられる名前で、その名の由来としては、朝廷が宮殿などの建物を建立する際に供出する木材を切り出すに当たり、「山の入り口」にお祀りする神様として設けられた社である。
 境内摂社の立磐神社は、夜支布山口神社の設置以前から存在したと伝えられており、かつての春日大社本殿の建物を移築した「春日移し」の建築であり、国指定の重要文化財である。

 夜支布山口神社を後に、いったん北に戻るように進み、反時計回りにぐるっと回って、沢筋を進む。
 途中で沢筋を離れ、右手の山道に入るのだが、私は真っすぐ沢筋のコンクリ舗装の道をそのまま進んでしまった… 途中で行き止まりになり5分ほどロス… この分岐は道標が無いので注意が必要である。
 戻って山道を歩むが、これまで道標が過剰とも思えるほどあったのに、全く無くなり、また、踏み跡の薄い箇所もあったりして、「ここホンマに東海自然歩道か?」と疑ってしまうほど。だいぶ進んだ所でやっと道標が現れ一安心。最後まで登りが続き、民家が現れると、ようやくR369に飛び出し、そこがゴールの忍辱山バス停だった。
 バスの時間まで1時間ちょっとを確保。計算通りである。

円成寺庭園 12:22

 円成寺の境内へ。
 目の前に庭園が広がる。池泉回遊式の浄土庭園であり、国指定の名勝である。
 「円成寺縁起」によれば、鑑真とともに渡日した唐僧の虚滝(ころう)が天平勝宝8年(756年)に聖武天皇の勅願で創建したというが諸説ある。
 寺に現存する木造十一面観音立像は、その技法・作風から10世紀末頃の作品とみられ、現本尊である阿弥陀如来坐像は、11世紀後半から12世紀初頭の作とみられ、また、庭園はその形式から平安末期、12世紀頃の作と推定されることから、円成寺は平安時代中期に創建され、12世紀半ば頃に寺観が整備されたとされる。
 応仁の乱で堂塔伽藍の大半が焼失したが、再興され、江戸時代には、寺領235石、子院23箇寺を有する寺院となった。明治期の廃仏毀釈によって衰退したが、明治15年(1882年)に盛雅和尚が入寺すると次第に落ち着きを取り戻し、現在に至っている。

円成寺境内の「里」さんでランチ@! 12:27

 早速、池の奥にあるお目当ての「里」さんへ。平日なのにほぼ満員で、何とか滑り込む。
 まずはビールでしょう! 旨い!

円成寺境内の「里」さんでランチA! 12:47

 来ました来ました、松茸うどん2500円! 松茸を1本使っており、映えます(笑)
 土瓶蒸しにうどんが入った感じ。香り最高で、出汁も旨く、最高でした!

円成寺多宝塔 13:05

 すっかり良い調子で、境内を散策。
 多宝塔は、平成2年(1990年)の再建。一時期は国宝の木造大日如来坐像が安置されていた。
 木造大日如来坐像は、運慶の現存するもっとも初期の作品であり、安元2年(1176年)の完成。現在は相應殿へ移されている。

円成寺楼門 13:10

 円成寺は建物、仏像など、重文以上の文化財祭り(笑)である。
 本堂は文明4年(1472年)の建立で、入母屋造で妻入なのは仏堂建築では非常に珍しい。国指定の重要文化財であるが、残念ながら、修繕中でブルーシートに覆われていた。
 画像の楼門は、応仁2年(1468年)の再建。三間一戸入母屋桧皮葺で、上下層とも和様三手先を使い、下層出入り口の上に、正・背面とも花肘木(はなひじき:柱の上方にあって上からの重みを支える横木を花の形に装飾したもの)を入れている。
 国指定の重要文化財である。

春日堂(左)と白山堂(右) 13:14

 境内東端には、春日堂と白山堂が建つ。2棟とも同規模・同形式であり、安貞2年(1228年)に春日大社の本殿を移築したもので、春日造社殿の現存最古の例であり、国宝に指定されている。
 明治の神仏分離令による破壊を免れるため、仏堂風に「堂」と称したとのこと。

宇賀神本殿 13:15

 春日堂と白山堂の東隣には、宇賀神本殿が建つ。
 宇賀神本殿は、鎌倉時代後期の建立とされ、春日造の社殿の中で向拝(こうはい:仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分)を唐破風(からはふ:頭部に丸みをつけて造形した破風の一種で、唐と付くが日本特有の建築技法)とした奈良県内最古級の社殿であり、国宝。
 宇賀神は、農耕神または蛇神・龍神とされ、仏教では弁才天と習合し、書道の神としても信仰されている。
 円成寺の参拝終了〜 予定通り13時35分発のバスに乗り込み、近鉄奈良駅へ。
 その後、京橋に出て、さらに昼呑みしてから帰宅しました。

参考タイム

10/27JR笠置駅 8:258:55 笠置寺 9:209:55 十兵衛杉 9:5510:20 芳徳寺 10:3010:40 天乃石立神社・一刀岩 10:4510:55 疱瘡地蔵 10:5511:20 南明寺 11:2011:50 夜支布山口神社 11:5012:20 円成寺

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