竹内街道その2(河内松原〜上ノ太子)

−日本最古の官道歩きの第2ラウンド! 今回もほとんど市街地歩きだが、だいぶ鄙びてきた…−

   

山行概要

日 程
2018年11月4日(日)
山 域
竹内街道
天 気
晴れ時々曇り
メンバー
単独
コースタイム
近鉄河内松原駅=0:20=丹南東=0:20=新ヶ池=0:30=野中寺=0:05=仁賢天皇陵=0:10=峰ヶ塚公園=0:10=白鳥陵古墳=0:10=近鉄古市駅=0:30=杜本神社=0:25=飛鳥戸神社=0:10=近鉄上ノ太子駅【2:50】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日、飛騨地方へ強行日帰り山行、しかも位山〜川上岳の「天空遊歩道」を往復する26キロの長丁場をやったばかりにもかかわらず、また翌日も天気が良さげだったので、出かけてしまう。ほとんど病気ですな…
 本日は、昨日の激闘の筋肉ほぐしも兼ねて、10月14日に1発目をやったばかりの竹内街道の2回目に向かうことにする。

 枚方から、京橋、天王寺と乗り換えて、近鉄南大阪線で3週ぶりの河内松原駅へ。3週前にも歩いた、駅から真南に伸びる細いバス道をまずはバックして、府道2号線の丹南東の交差点で前回の竹内街道の続きに合流する。
 前回、この交差点に吉野家があるのを知ってたので、ここで朝食を取る(笑)

竹内街道と中高野街道の辻 9:05

 府道から1本北に戻った細道が正しい竹内街道なので(前回は大泉緑地から府道をそのまま歩いてしまっていた…)、そこから歩き出す。
 実は、後で気づいたのだが、ここは竹内街道と中高野街道の交差点だった(この日の2週後に、また私は中高野街道を歩くことになるのだ)。
 住宅街を東に進み、立部の交差点で近畿自動車道をくぐり、南東方向に進路を変え住宅街をさらに進む。

新ヶ池 9:25

 この辺りはため池が多く、この新ヶ池もその一つ。
 かなりの逆光だが、金剛、葛城の山々が美しい…
 新ヶ池を時計回りに回り込み、野村という交差点で左折し、細い街路を東に進んでいく。ゆるい登り下りをこなしながら東進すると、久しぶりの信号が現れ、ここを北上すると野中寺の正面に出た。

野中寺 9:57

 野中寺は、伝承では聖徳太子建立48寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされる。また「上之太子」の叡福寺、「下之太子」の大聖勝軍寺とともに、三太子の一つに数えられ、「中之太子」と呼ばれている。
 創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しているが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など、法隆寺式伽藍配置を示す礎石が残っており、「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定されている。
 一時期は廃寺に近い状況だったと見られ、現在の本堂は江戸時代初期の寛永〜寛文年間(1624−1673年)に、他の堂宇は享保年間(1716−1735年)に再建されたものである。

お染と久松の墓 10:07

 寺の西隣の墓地の奥に心中事件を起こし歌舞伎や浄瑠璃などの題材になった「お染久松の墓」がある。
 宝永7年(1710年)、大坂板屋橋の南詰にあった油問屋の細工場(さいくば)で、丁稚の久松が主人の娘そめと刃で心中、事件をそのまま歌舞伎世話物に仕組んだ『心中鬼門角(しんじゅうきもんかど)』が大坂荻野八重桐(おぎのやえぎり)座で上演された。浄瑠璃では紀海音(きのかいおん)作『お染久松袂(たもと)の白しぼり』が、大坂豊竹座で初演されている。

仁賢天皇陵 10:20

 野中寺から溜池沿いに細道を南下すると、東側に顕著な古墳が見えたので、坂を下り、古墳に近寄ってみる。
 これが、史跡名、ボケ山古墳で、世界遺産登録を待つ古市古墳群を構成する古墳の1つである。
 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第24代仁賢天皇の陵に治定されている。
 墳丘の長さ122m、前方部の幅107m、高さ13m、後円部は直径65m、高さ11.5mの前方後円墳である。周囲は濠で囲まれている。
 これでも結構な大きさの古墳だが、古市古墳群では10番目に入るか入らないかの大きさである…

峰ヶ塚公園からの二上山 10:38

 仁賢天皇陵からさらに南に下って、羽曳野市管理の峰ヶ塚公園に出た。
 古市古墳群の構成古墳、峯ヶ塚古墳と小口山古墳の2つの古墳を中心とした公園で、市民の憩いの場となっている。
 二上山がだいぶ近づいてきた。

白鳥陵古墳 10:50

 外環状線(R170)を東に渡り、交差点から細い路地を南東方面に入っていくと、古い町家が並ぶ街道筋となり、さらに東に進むと、これまた濠を持つ顕著な大古墳に出た。
 これが白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)で、第12代景行天皇の皇子で、熊襲征討・東国征討を行なった日本古代史上の伝説的英雄、日本武尊(ヤマトタケル)の陵に治定されている。
 墳丘の長さ200m、前方部の幅165m、高さ23m、後円部は直径106m、高さ20mの大前方後円墳である(これでも古市古墳群では7番目の大きさである…)。

 「古事記」によれば、日本武尊は、伊勢の「能煩野」(のぼの)で没し、陵を造ったところ、日本武尊は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。
 「古事記」に「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」と記されていることが、羽曳野市という市名の由来にもなっている。
 「日本書紀」では、さらにワンクッション置かれ、白鳥は、伊勢からまず大和国琴弾原(奈良県御所市)にとどまり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国にいきとどまったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったという。
 このため、両方の記述を尊重し、日本武尊の墓を「能煩野墓」と定め、御所と羽曳野の2箇所の白鳥陵を「能煩野墓」に附属するものとされている。
 白鳥陵古墳からさらに東に進み、この辺り2本並行しているR170を渡ると、近鉄の古市駅。線路を渡り、さらに東へ進む。この辺り、以前にも古市古墳群の探索で歩いたところで、土地勘もあり、スイスイ進む。
 すぐに応神天皇陵の東縁を南下してくる、東高野街道(これも今年の3月に歩いた)と交差し、さらに竹内街道は東へ伸びる。

臥龍橋で石川を渡る 11:12

 しばらく歩くと、石川(和泉山脈は蔵王峠に発し、河内長野市、富田林市、羽曳野市、藤井寺市を貫き、最後は柏原市で大和川に合流する)に突き当たるので、少し北に進んだところに架かる臥龍橋で、石川の右岸に渡る。
 川沿いに南下し、近鉄の南大阪線に沿いながら、R166を南東へ進む。国道と言っても交通量がほとんどない。市街地を完全に抜け、だいぶ長閑な景色になってきた。
 近鉄駒ヶ谷駅前の交差点で、東側の山手に入り、少し登って行くと、厳かな鎮守の森が現れ、奥に進んでいくと、杜本神社に出る。

杜本神社 11:32

 杜本(もりもと)神社の縁起は、社伝によると「崇神天皇の頃、香取明神の神孫14世伊波別命(イハワケノミコト)がこの地に住み、祖神である経津主命(フツヌシノミコト)を祀ったのを始まりとし、代々その一族が神社の管理にあった。
 平安時代、皇室の崇敬が厚く、「三代実録」によれば、貞観元年(859年)、正4位下を授かっている。隣接する金剛輪寺とあわせ神宮寺形式をとっており、金剛輪寺は、聖徳太子の開基と伝わり、後醍醐天皇、後村上天皇の綸旨や楠正成の施行状などが残るなど、南朝の勅願所となり大変栄えたが、南北朝の合戦で兵火を受け衰退、更には天正年間(1573〜92年)、織田信長の高屋城攻めの折の兵火で社殿が焼失し、その後、豊臣秀吉から社領を没収され神社は廃退した。
 祭神は経津主神・経津主姫神という夫婦神である。

上ノ太子駅付近の古い街並み 12:09

 神社から駒ヶ谷の古い集落を抜け、R166に復帰し、さらに鄙びた風景の中を南東に進んでいくと、本日のゴール予定地の近鉄上ノ太子駅の位置する飛鳥の古い集落に入る。
 簡素な社殿だけが建つ、飛鳥戸神社に参拝してからゴールに到着。
 上ノ太子駅⇒阿部野橋駅から天王寺駅⇒京橋と乗り継ぎ、京橋で昼呑みして帰りました〜

参考タイム

11/4近鉄河内松原駅 8:308:50 丹南東(吉野家) 9:059:25 新ヶ池 9:259:55 野中寺 10:1510:20 仁賢天皇陵 10:2010:30 峰ヶ塚公園 10:4010:50 白鳥陵古墳 10:5011:00 近鉄古市駅 11:0011:30 杜本神社 11:3512:00 飛鳥戸神社 12:0012:10 近鉄上ノ太子駅

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