−京都から続く高野街道の最終章その1−
山行概要
2018年5月4日(祝) | |
晴れ | |
単独 | |
南海河内長野駅=0:10=別久坂登り口=0:05=烏帽子形八幡神社=0:10=旧三日市交番=0:10=南海三日市町駅=0:25=石仏寺=0:25=南海千早口駅=0:25=南海天見駅=0:30=紀見峠登り口=0:20=紀見峠=0:30=葛城神社=0:35=大福寺=1:00=応其寺=0:10=東家4丁目【4:55】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
今年のGW前半で、念願の熊野古道小辺路をコンプリートし、京街道、紀伊路、中辺路で繋がった京都から熊野本宮大社の長大なトレースに加え、さらに京都から熊野本宮大社へもう1本のロングコース(京街道、東高野街道、高野街道、小辺路)を繋ぐ最終段階に入った。本当は順序良く、小辺路をやる前にやりたかったが、予定していた4月14,15日の土日が悪天で、後回しになってしまったのだ。
熊野古道小辺路を無事終えた、2018GWの後半戦、所用で2日しか使えないが、逆にちょうど良かった。
車中泊をする予定で、車で出撃。枚方を4時前に出発し、R170からR371のずっと下道で橋本へ向かう。和歌山県側に入ったとたんに急に立派になった国道に驚きながら、順調に橋本へ。
事前に調べておいた、橋本駅から西に10分ほど離れたタイムズの橋本東家に車を止める。駅から少し離れ過ぎだが、1日の最大料金400円(笑)に惹かれたのだ。さすが橋本(笑)
駅に向かい、5時35分発の急行で、河内長野へバックする。1箇月振りの駅前から、高野街道へ。
すぐに大きな町家と楠の大樹が目に入る。
これが吉年(よどし)邸で、伊勢神戸藩の郷目付と大庄屋を務めた豪商で、享保3年(1718年)に河内鋳物108人衆であった田中氏より事業を受け継ぎ鋳物師として現在まで続いている家である。
この家の大楠は、河内長野市指定の天然記念物で、昭和45年(1970年)に指定を受けた時点で、高さ20m、幹周りは5mとのことなので、現在はさらに大きくなっているのは確実である。
吉年邸のすぐ隣には長野神社がある。この辺りは、天見川や石川の交流地点で、古くから水上交通の要所として栄えており、長野神社の創建年代は不詳で、江戸時代中期頃までは「木屋堂(こやど)の宮」「牛頭天王宮」と呼ばれていたが、慶応4年(1868年)に長野神社と改称された。
この木屋堂という名は、木材の収集場所を意味する言葉で、ここ天見川上流、石川上流の山林から伐採した木材を集めて、石川下流の富田林や古市、陸地では高野街道を通じて堺、平野、大阪、京都などへ出荷されていたと考えられ、正和2年(1313年)の後宇多院御幸記や、元弘3年(1333年)の粉河寺文書、応永6年(1399年)の日野観音寺大般若経奥書などに地名が記されている。
本殿は、室町時代後期に建立された一間社流造りで、国指定の重要文化財。
カラー舗装された旧街道を進む。造り酒屋もあり、なかなか雰囲気の良いところだ。
R371に合流するとコンビニがあり、そう言えば朝食を取ってなかったな… と言うことで、ここに立ち寄る。
街道は、R371を横断して続いており、国道を渡ったところに「別久坂(びっくざか)」の標識が立つ。
ここは、高野街道の難所の一つであったところから、「ビックリ坂」とも呼ばれている。別名「別宮坂」とも呼ばれ、この先の烏帽子形八幡宮(伝、昔応神天皇の離宮であった)に登る坂であったため、「別宮坂」と呼ばれることも。
坂自体はものの数十mで終わり、山際に沿った細い車道を5分ほどで、烏帽子形八幡神社に到着。
神社の上の烏帽子形山には楠木七城(河内七城)のひとつとされる烏帽子形城があり、楠小二郎がこれに拠い、城の鎮護として創祀したと伝えられる。
その後、荒廃したが、文明12年(1480年)に、河内源氏の末裔と言われる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立した。室町末期に一度修理されたのみで荒廃していたが、元和3年(1617年)に楠木一族の後裔と言われる甲斐庄正房が、大阪四天王寺の普請奉行を勤めた折、その竣工後に自身の居城・烏帽子形城の鎮守が荒廃しているのを嘆き、その余材で改修したとされる。
本殿は、文明12年(1480年)の建立。入母屋造檜皮葺で、国指定の重要文化財。本殿の向かいには、楠木正成が湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」があったが、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の命を全うした。
上田集落を通り過ぎ、R371を陸橋で渡ると、三日市の宿場跡に入ると、木造の交番が現れる。
この建物は、平成19年(2007年)に三日市交番が三日市駅前に移転するまで、地域の治安を守ってきた。府内最古の木造駐在所建築物であり、平成22年(2010年)10月に河内長野市の指定文化財となった。
洋風と和風の建築様式が混じり合うのが特徴で、2階は半切妻屋根で、軒先と軒裏、外壁は洋風。屋根は日本瓦葺きの寄棟屋根、小屋組は和式、壁の下地には竹小舞が組まれ、手前の執務室の他は真壁に竿縁(さおぶち)天井という和式になっている。現在は、地域の交流拠点として再整備された。
趣のある旧宿場町が続く。
多くの人で賑わっていた三日市宿には、菊屋・片屋などの旅籠屋が20軒前後も建ち並び、中でも、油屋が本陣としての役割をはたしていた。
油屋には、葛城修行中の聖護院宮や五條代官所襲撃前の天誅組が立ち寄ったり、天誅組に殺害された五條代官鈴木源内の家族が宿泊していたことなども記録に残っている。
しかし大正4年(1915年)に、高野登山鉄道が三日市から橋本まで開通したことなどから、三日市宿は次第に役目を終えてゆき、明治23年(1890年)、油屋は廃業した。
南海三日市町駅を過ぎ、R371と何度か交差しながら進む。石仏寺の先で国道の脇道に入ると、雰囲気が激変し、沢沿いに静かな散策が楽しめる。
千早口駅に近づくにつれ、大きく景色が開け、山間ののびやかな光景が広がってきた。
千早口駅を過ぎると、再び深い森の中を進むようになり、天見小学校のすぐ先が天見駅。
駅前には天見温泉「南天苑」が。玄関では外人さんが掃除をしていた。
この地には南北朝時代から温泉があり、「極楽温泉」として、高野山の参拝客で賑わったが、寛延3年(1750年)に焼失し、そのまま廃湯となっていたが、昭和10年(1935年)に当時の天見温泉の見取り図が発見されたことで、地元で温泉再興の気運が高まり、室戸台風で倒壊した堺市の「大浜潮湯」別館を、阪堺電気軌道から譲り受けて天見に移築、大阪市阿倍野の料亭「松虫花壇」の別館として開業し、当初は料理旅館として使用されていた。第二次世界大戦を経て、昭和24年(1949年)には温泉旅館「南天苑」として開業した。
南天苑本館の建物は数寄屋風入母屋造木造2階建の大規模なもので、和風をベースにしながら洋風モダンな意匠を取り入れた当時の貴重な建築様式を残しており、辰野片岡建築事務所による建造物だったことが後日判明し、平成15年(2003年)7月に、国の登録有形文化財に登録された。
今では宿泊客の7割がインバウンドらしい。
天見駅から、しばらくR371沿いの味気ない登り坂を進み、紀見峠トンネルの手前で右の旧道に入る。
舗装された車道だが、ほとんど通行量はないので、静かな歩行が楽しめる。
ダイヤモンドトレイルの登り口に到着。4年前の馬鹿げた激闘が思い出される。
ここから峠はすぐだ。ついに和歌山県に到達。同じく熊野古道紀伊路で和歌山に入った時以来の感動だ。
峠のすぐ下から、趣ある街並みが続く。
あまりに雰囲気が素晴らしいので、ボーッと何も考えず、進んでいたら、いつの間にか大きく東側の柱本集落を経由する車道に入っていた… かなりの回り道だが、気が付いた時にはだいぶ下ってしまっていたので、そのまま進むしか仕方がない…
大きく回り込みながら下って、葛城神社。
葛城神社は、素盞鳴命を主祭神とし、歓請については、詳細不明、古老の言伝えによれば、正平4年(1349年)頃の創建らしいが、戦火により、旧記等、悉く焼失したと言う。
当神社の総社は、京都八坂神社で、祗園さんの紋が胡瓜の切り口に似ているところから、祗園さんの紋を食べるのは恐れ多いとされ、最近まで胡瓜を食べなかったと云う。
60年毎に本殿の造築が行なわれ、現在の建造物は、昭和55年(1980年)に、氏子の寄進により全ての建物が造営されたものである。
柱本の集落を抜け、柱本小学校の横を通ると、新興住宅街となり、大きく下っていくと、R371に合流する手前に大師堂があり、ここを左折し、国道脇の旧街道をのんびり進む。この辺りも旧街道の面影が濃いところだ。
慶賀野(けがの)という集落に入ってくると、はるか前方には高野の山並みが見渡せるようになり、最終章に入ったことを実感。
国道脇の崖上に建つ大福寺に立ち寄り、さらに国道を南へ。西福寺の辺りで。国道西側の旧街道に入り、町並みを楽しみながら、さらに南へ。向かいの高野山がどんどん近づいてくる。
京奈和道をくぐると、国道を離れ、橋本川沿いの静かな車道歩きとなる。
ゆるやかに下り、南海線とJR線をくぐったところで最後は左折し、橋本川を渡って、橋本市街へ到着。
開発も進んでいるが、細い路地の古い町並みも残っている。
應其(おうご)寺は、橋本の町を興した應其上人(木食応其(もくじきおうご))が荒れた里寺を再建したもので、應其上人は、元は武士だったが、高野山で出家し、真言宗の僧となり、紀の川に橋を架け、高野山への行き来や物の運搬の便宜を図り、塩市を開いた。これが橋本の地名の起こりと言われている。
應其上人はまた、秀吉の外交僧として、島津氏との和睦交渉で活躍するほか、高野山をはじめ寺社の大規模造営・整備に当たるなど、秀吉政権で重い地位を占めた。
旧市街を抜け、車の置いてある東家4丁目のタイムズへ。
明日もここからスタートするが、賑わいを求めて和歌山市内へ。全線無料の京奈和道で1時間ほどで一気に和歌山市内へ。
市内中心部のタイムズ東鍛冶屋町に車を止める。丸1日止めてもMAX900円なので、京都とは大違い(笑)
米屋町のアーケードにある「ぶらくりきっちん」さんで、昼からグダグダに…(笑)
そして、本町のフォルテワジマの地下にある「ふくろうの湯」さんへ。ここは街中にありながら、関西最強の炭酸泉「花山温泉」と遜色ない湯が楽しめる、なかなかの掘り出し物の温泉である。
岩盤浴も楽しみ、完全に沈没…
すっかりふやけた体で、特にあてもなく和歌山市駅方面に向かう。偶然「なかま家」さんの前を通ったので、吸い込まれるように店内へ。
造り盛りでスタート!
串焼きはなかなか秀逸でした。すべて塩で…
ほろ酔いでフラついてたら、「麺屋 ひしお」さんに吸い込まれてしまった…
紀州湯浅吟醸醤油ラーメンでフィニッシュ! 太るな…
大満足で、和歌山の夜は更けていった…
明日はいよいよ(広義の)高野街道のオーラスだ!
参考タイム
5/4 | 南海河内長野駅 6:00 ⇒ 6:10 別久坂登り口 6:25 ⇒ 6:30 烏帽子形八幡神社 6:35 ⇒ 6:45 旧三日市交番 6:45 ⇒ 6:55 南海三日市町駅 6:55 ⇒ 7:20 石仏寺 7:20 ⇒ 7:45 南海千早口駅 7:45 ⇒ 8:10 天見温泉(南天苑) 8:10 ⇒ 8:40 紀見峠登り口 8:40 ⇒ 9:00 紀見峠 9:00 ⇒ 9:30 葛城神社 9:35 ⇒ 10:10 大福寺 10:10 ⇒ 11:10 應其寺 11:15 ⇒ 11:25 東家4丁目 |
山行データへ
諸国名山探訪
Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved