川越散策

−「小江戸」川越を初訪問! グルメも含め、小江戸を満喫!−

山行概要

日 程
2019年6月9日(日)
山 域
川越市街
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
西武本川越駅=0:15=川越熊野神社・蓮馨寺=0:05=小川菊=0:05=時の鐘=0:10=広済寺=0:15=大蓮寺=0:10=見立寺=0:15=小川菊=0:25=川越氷川神社=0:15=川越城本丸御殿=0:10=富士見櫓跡=0:20=日枝神社・喜多院・仙波東照宮=0:15=西武本川越駅【2:40】

記録文(写真はクリックで拡大)

 月曜日に東京出張が入るという僥倖。当然前乗り(笑) 土曜日は大学の時のサークル仲間とへべれけになり、沈没…
 前乗り2日目の日曜日。梅雨空の模様で、おとなしく下界の探索に…
 そういえば、小江戸、川越がまだ未訪だった。日本100名城の川越城跡もあるしということで、ホテルのある新橋駅から、電車を乗り継ぎ、西武新宿線で本川越駅へ。
 駅前の道路(県道12号線)を北に進み、まずは川越熊野神社へ。

川越熊野神社 9:42

 川越熊野神社は、天正18年(1590年)に蓮馨寺の二世然誉文応(ねんよぶんおう)僧正が紀州熊野より勧請したことが始まりといわれている。以後、通称「おくまんさま」と呼ばれ、開運・縁結びの神として親しまれている。
 御社紋は、紀州の本家と同様、熊野大神様のお使いである三本の足を持つ「八咫烏(やたがらす)」。夜明けを呼ぶ鳥、太陽を招く鳥ともいわれ、希望の世界に導く霊鳥として広く信仰されている。

蓮馨寺 9:44

 県道を挟んで熊野神社の西向かいに建つのが、熊野神社を勧請した然誉文応僧正のいた蓮馨寺(れんけいじ)。
 河越夜戦後の天文18年(1549年)、川越城代大道寺政繁の母・蓮馨によって開基され、開山は大道寺政繁の甥にあたる感誉存貞(かんよぞんてい)上人。
 存貞上人は増上寺第十世法主となった高僧であり、また、その後も源誉存応(げんよぞんのう)上人(増上寺の十二世法主)など代々、高僧が住職となった。
 江戸時代には、浄土宗の僧侶養成機関である関東十八檀林の1つとなり、葵の紋所が許された幕府公認の機関として多くの学僧を育てた。

小川菊 10:00

 いったん、県道から1本東の「大正浪漫夢通り」に入り、鰻の名店が多い川越でも最高峰の呼び声高い「小川菊(おがぎく)」さんに寄ってみる。
 果たして、開店1時間前だが、既に10人ほどの行列ができていた。しかし、これなら1回転目でいけるなと思い、1時間待つ覚悟を決めたが、何と素晴らしいことに、タッチパネル式の整理券発行機があり、1時間前の10時から稼働しているのだ。
 「9番」の整理券をゲットし、再び探索再開。

一番街 10:04

 小川菊から県道に復帰すると「仲町」交差点があり、ここから北の一帯にわたって、重要伝統的建造物群保存地区内となる。
 「一番街」と呼ばれるゾーンに入り、大きな鬼瓦の屋根に黒漆喰の壁と分厚い観音開きの扉という、趣豊かな蔵造りの建物が立ち並び、一気にタイムスリップした感覚に襲われる。
 江戸時代、度重なる大火のため幕府が瓦葺きを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになったという。
 現存の蔵造りの多くは、明治26年(1893年)の川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが消失したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ貴重な歴史的遺産である。

時の鐘 10:05

 そして、川越のシンボル、時の鐘が現れる。
 江戸時代の寛永年間(1624−1645年)に川越藩主、酒井忠勝によって建設されたのが始まりであるが、火災によりたびたび焼失しており、現存するものは、明治27年(1894年)の再建。
 3層構造の塔で、高さは16m。第二次世界大戦の直前まで鐘撞き守(岩内老人という、スイス製のモバードの時計をたよりに、正確に鐘をつくことから「時計男」の異名をとった名物男もいたらしい)が決まった時間に時を知らせていたが、現在では機械式で1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)、川越城下に時を知らせている。

広済寺 10:15

 時の鐘から北上し、重伝建地区の北端である札の辻を過ぎ、さらに北に進んだところに建つのが広済寺。なかなか広大な境内を有している。
 青鷹山慈眼院と号し、曹洞宗に属する寺院で、河越夜戦の2年後の天文17年(1548年)、川越城代になった大道寺政繁が建立した。
 本堂は拝観できないが、寄棟造・桟瓦葺の風格ある建物である。

大蓮寺 10:30

 西に進み、新河岸川に突き当たると、川沿いに南下。本町通りに出ると東に少し進んだところに、大蓮寺の入口がある。
 大蓮寺は、蓮馨寺の末寺で、来迎山紫雲院と號す。本山と同様、開基は大道寺政繁の母蓮馨で、開山も同様に感誉存貞上人。

菓子屋横丁 10:35

 大蓮寺の南、本町通りを渡った先に「菓子屋横丁」の入口がある。
 「菓子屋横丁」は、鈴木藤左衛門という人が、明治元年(1868年)、川越本町からこの地に移り住んで「松本屋」を開業し、養寿院の門前町として栄えていたこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことに始まり、その後、菓子屋が集積していったといわれている。
 大正12年(1923年)の関東大震災の際には、壊滅した東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。
 その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したが、現在でも20軒ほどが軒を連ね、人情味あふれる横丁の情緒を残している。

見立寺 10:40

 菓子屋横丁の南に見立寺が建つ。
 この寺も蓮馨寺の末寺で、本山と同様、開基は大道寺政繁の母蓮馨で、開山も同様に感誉存貞上人。
 蓮馨が蓮馨寺を建立する際に、現在の見立寺の敷地に仮のお寺を建て(建立時)、蓮馨寺建立後、見立寺とした。
 本堂は何度か火事で消失した後、明治14年(1881年)の再建。

いよいよ「小川菊」さんへ@ 11:18

 「小川菊」(おがぎく)さんの開店が近づいてきた。11時前に店舗に到着。スムーズな応接で、11時5分には着席。
 骨せんべいとうざくでスタート!
 「小川菊」は、文化4年(1807年)の創業で、以来200余年、創業から代々受け継がれた一子相伝の秘伝のタレを使った伝統の味を守り続けており、現当代で7代目の川越を代表する鰻屋の老舗である。

いよいよ「小川菊」さんへA 11:22

 数量限定のきも焼きをゲット! 絶妙〜

いよいよ「小川菊」さんへB 11:30

 白焼き降臨! 旨過ぎる!

いよいよ「小川菊」さんへC 11:38

 ラストは、これまた数量限定のうな丼! 糖質制限大崩壊である(笑)…
 ビールも進み、昼から一人で10000円オーバーの大散財(笑) 最高のランチでした!

川越商工会議所 12:00

 大満足で店外へ。「大正浪漫夢通り」の北端の東南角には、「川越のパルテノン神殿」と呼ばれる(笑)、川越商工会議所が異彩を放っている。
 元々は旧武州銀行川越支店として、昭和3年(1928年)に建設され、その後、昭和45年(1970年)に川越商工会議所が譲り受け、現在も現役ばりばりで使われている。
 鉄筋コンクリート造りの2階建て・地下1階の造りで、ルネッサンス・リバイバル様式といって、当時の金融機関が好んで建てた様式らしい。
 このコテコテの重厚感や堂々たる佇まいが「銀行の信用性」を強調するらしい… 確かに(笑)

川越氷川神社の風車 12:21

 探索を再開し、街並みの北東方面へ。
 川越氷川神社が現れ、大勢の人で賑わっている。
 氷川神社は、欽明天皇2年(541年)、入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。
 毎年10月に行われる国の重要無形民俗文化財である川越まつり(川越氷川祭)で有名な他、 七夕周辺の夏季には境内に飾られた2000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ祭事「縁むすび風鈴」も有名。。
 この日は、境内の風鈴棚に風車が設置されていた。

川越氷川神社本殿 12:26

 本殿は、入母屋造の銅板葺で向拝(社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分)付で、寛永2年(1849年)に川越(越前)松平家第4代藩主、松平斉典(なりつね)の寄進により完成した。彫物師は、江戸で名工中の名工と謳われた嶋村源蔵と飯田巌次郎で、江戸彫りの精巧な彫刻が施されている。
 県指定の有形文化財である。

「あい鯛みくじ」 12:28

 川越氷川神社は、どんな恋愛も叶えてくれる関東の最強スポットとの一面もあり、この「あい鯛みくじ」は、シッポにおみくじが挟まっていて、それを釣竿を使って釣り上げるというこれまた何とも珍しいスタイルなのだ。
 映えますな(笑)〜 大勢の女子がこれに群がっていた…
 氷川神社を後に南下。川越城跡を目指す。

川越城本丸御殿 12:45

 江戸時代、川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称された。城下は武蔵国の商工農の中心、物資の集散地として栄え、物産は新河岸川を通して江戸に運ばれた。
 川越城は、承応2年(1653年)、時の藩主、松平信綱(知恵伊豆) により、大拡張工事がなされ寛文年間(1661−1673年)に完成し、以前とは倍の規模の近代的城郭に生まれ変わった。

本丸御殿の中庭 12:52

 本丸御殿は、嘉永元年(1848年)、松平斉典が建設した入母屋造りで、豪壮な大唐破風と霧除けのついた間口19間・奥行5間の大玄関・車寄せをもつ。
 36畳の大広間を有するなど、建坪は165坪を誇る。
 維新後は、入間郡役所、煙草工場、中学校校舎等に使われた時期もあった。
 本丸御殿大広間は川越城の他には高知城にしか現存せず、全国的に見ても貴重な遺構であり、埼玉県指定の有形文化財である。

 

三芳野神社 12:56

 本丸御殿の東向に三芳野神社が建つ。
 三芳野神社の創建は不詳。川越城築城以前から当地にあったようで、長禄元年(1457年)の太田道真・道灌父子による川越城築城により城内に取り込まれ、「天神曲輪」と呼ばれるようになった。
 三芳野という社名は「伊勢物語」に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であったことによる。
 現存する社殿は、寛永元年(1624年)、時の藩主、酒井忠勝が徳川家光の命を受けて造営したもので、埼玉県指定の有形文化財である。。

 

「とおりゃんせの歌」発祥の地 12:57

 童歌「とおりゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台といわれる。
 川越城内に取り込まれた結果、一般の参詣ができなくなったが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。
 お参りするには川越城の南大手門から入り、複雑な縄張りの中を進む必要があり、また、参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことを避けるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられたという。
 そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と城内の子女で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。

富士見櫓跡 13:05

 三芳野神社を後に南下し、突き当りを右折し、西に少し進むと、「富士見櫓跡」の碑が立っている。
 三の丸跡地にある川越高等学校南側の小高い丘が城内で最も高い位置に当たり、ここに三層の富士見櫓が建っていた。
 川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓等と同様に富士見櫓が天守の代わりとなっていた。名前の由来は、文字通り富士山を望めたためである。
 丘に登ってみると、浅間神社と御嶽神社が建っていた。

成田山川越別院本行院 13:19

 富士見櫓跡からさらに南へ。県道15号線を横断すると、成田山川越別院本行院がある。
 成田山川越別院本行院は、嘉永6年(1853年)、石川照温(若い時に両眼を失明し、3度の自殺を図るが果たせなかったため、これは、神仏が自分を生かそうとしているからだと思い、成田山新勝寺で修行したところ、両眼が見えるようになり、満願の頃には治癒したことから、一生を不動明王に捧げようと出家した)が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建したとされる。
 明治10年(1877年)、成田山川越別院本行院を称するようになり、成田山新勝寺最初の別院となった。

日枝神社 13:25

 さらに南へ。喜多院に行く前に東隣に建つ日枝神社へ。
 日枝神社は、円仁(慈覚大師)が天長7年(830年)に喜多院を創建した折に、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したとされている。
 本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国指定の重要文化財。
 もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。

喜多院多宝塔 13:29

 喜多院は天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号し、関東天台宗の本山とされた。
 その後、慶長4年(1599年)に、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。
 慶長18年(1613年)には徳川秀忠により関東天台総本山と定められ、幾度かの加増の末、750石・寺域48000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。川越大師の別名でも知られている。
 数多くの文化財を有し、画像の多宝塔は、総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根が乗る。江戸時代初期の多宝塔の特徴がよく表れており、埼玉県指定の重要文化財である。
 寛永16年(1639年)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立された。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910年)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築された。
 移築の際に大幅に改造されていたことから、昭和48年(1973年)に現在地に移し、解体修理を実施し復元された。

慈恵堂 13:29

 慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀る堂宇で、潮音殿とも呼ぶ。
 裄行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修している。
 川越大火の翌年、寛永16年(1639年)に、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重であり、埼玉県指定の有形文化財である。

客殿の庭 13:39

 江戸城にあった建物は川越に最も現存していると言われており、川越大火で喜多院が焼失した際、徳川家光の命で江戸城の建物が移築された。
 客殿には家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院、庫裏も移築されており、国指定の重要文化財である。

五百羅漢 13:49

 数多くの文化財が残る喜多院だが、その中でもこの五百羅漢は出色。
 日本三大羅漢の一つに数えられ、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の約50年間にわたり建立されたもの。
 十大弟子、十六羅漢をはじめ、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座している。
 笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をしており。また、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、いつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいる。
 深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っている。

仙波東照宮 13:57

 元和2年(1616年)、駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬られたが、翌年、日光山に改葬の途中、3月23日から26日までの4日間、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要が営まれた。
 これをきっかけに喜多院境内に東照宮が祀られ、寛永10年(1633年)には立派な社殿が造営された。
 川越大火で焼失したが、家光の命で直ちに再建され、寛永17年(1640年)に完成したものが現在の社殿である。
 本殿は三間社流れ造りの銅瓦葺、瑞垣は延長30間の瓦葺で中央正面には平唐門があります。拝殿は単層の入母屋造り、正面の向拝は1間、幣殿は背面が入母屋造りで、前面は拝殿の屋根に接続し、どちらも銅瓦葺である。
 国指定の重要文化財である。

 大満足で、川越探索終了〜
 都心へ戻る。明日は霞が関でお仕事〜

参考タイム

6/9西武本川越駅 9:259:35 川越熊野神社・蓮馨寺 9:459:50 小川菊 10:0010:05 時の鐘 10:0510:15 広済寺 10:1510:30 大蓮寺 10:3010:40 見立寺 10:4010:55 小川菊 11:5512:20 川越氷川神社 12:3012:45 川越城本丸御殿 12:5513:05 富士見櫓跡 13:05 ⇒ 13:25 日枝神社・喜多院・仙波東照宮 14:0014:15 西武本川越駅

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諸国名山探訪

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