東海道その2(川崎〜戸塚)

−東海道プロジェクトの2日目。横浜市をひたすら横断する−

   

山行概要

日 程
2019年1月14日(祝)
山 域
東海道
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR川崎駅=1:00=京急鶴見駅=0:15=總持寺=0:50=京急新子安駅=0:55=神奈川宿本陣跡=0:15=京急神奈川駅=0:55=相鉄天王町駅=0:15=JR保土ヶ谷駅=0:10=保土ヶ谷本陣跡=0:05=旅籠本金子屋跡(「千歳庵」)=0:45=境木地蔵堂=1:00=戸塚宿江戸方見付跡=0:20=JR戸塚駅【6:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 日本橋からの東海道の旅1日目に続く2日目。
 5時半に起床。6時前にカプセルを抜け出し、大森駅前のすき家で朝から牛あいがけカレーをがっつり喰ってから(笑)、川崎へ。

川崎を出発! 6:36

 JR川崎を6時半に出発。街道筋に戻り、まだ夜も明けきらぬ中、南東方向に進む。
 場所柄、夜通し飲んでいた連中が大勢歩いており、気が萎える…
 京急の八丁畷駅で京急線を渡り、すぐ先で横浜市に入る。

横浜熊野神社 7:04

 熊野神社は、紀州熊野別当尊慶が弘仁年間(810−824年)に勧請、以降、この辺りで何度か遷座した後、天保年間(1831−1845年)には、JR東海道線の踏み切り付近に位置していたが、明治3年(1870年)の秋、新橋〜横浜間に日本で初めての鉄道敷設が決まったため、現地に遷座した。

市場一里塚跡 7:08

 この辺りは市場と言う地名であり、横浜熊野神社から100mほど先には、市場一里塚跡があり、横浜市指定の史跡である。
 江戸時代初期に東海道など五街道が整備された時に築かれた一里塚であり、日本橋から東海道で5番目の一里塚である。と言う訳で、日本橋からまだ20キロ弱しか歩いていないのか…
 鶴見川を渡ると賑やかな街並みになって来る。

鶴見神社 7:25

 県道14号線を渡ると右手に鶴見神社が見えるので、寄ってみる。
 鶴見神社の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられ、横浜・川崎間の最古の神社とされている。
 昭和37年(1962年)、境内の古木が倒れた際にその根元から弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る祭祀遺跡が発見され、創建伝承以前から祭祀の場となっていたことが確認された。
 平成20年(2008年)の調査では、境内に貝塚(鶴見神社境内貝塚として横浜市指定史跡に指定)が発見されており、古墳時代前期の竪穴式住居跡が確認されているなど、古代人の生活の場であったことが明らかになっている。
 神紋は有職鶴(ゆうそくづる)で、賽銭箱の正面にも鮮やかな朱色でペイントされていた。

總持寺百陂L下 7:49

 JRと京急が並び立つ鶴見駅前に出たが、近くに曹洞宗の巨刹、總持寺があるので、東海道本線を横断し、駅西口から山を上がり広大な境内へ。
 總持寺は、石川県輪島市にあった真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が前身である。
 元亨元年(1321年)、当時の「諸嶽観音堂」住職であった定賢は、曹洞宗4世の瑩山紹瑾に入院を要請するとともに、堂自体の寄進を受け、寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院となった。元亨2年(1322年)には後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称するようになる。明治31年(1898年)、火災で焼失したのを機に、明治44年(1911年)には、石川県から当地へと移転し、旧地は總持寺祖院と改称された。
 通称「百間廊下」を渡る。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下で、長さ164メートル。修行中の僧が雑巾がけをしていた… 大変そう…

總持寺大祖堂 7:52

 行く手に巨大すぎるお堂が… これが大祖堂である。
 大祖堂は、一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿で、七堂伽藍の中枢であり、本山の最重要なお堂である。
 太祖瑩山(けいざん)禅師と高祖道元(どうげん)禅師、二祖・峨山(がさん)禅師をはじめとして、歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌をも奉祀する靈場である。
 昭和40年(1965年)竣工、高さ36m、間口54.5m、奥行き47mの鉄骨鉄筋作りで、日本一の威容を誇る本堂で総持寺最大の建物である。

總持寺仏殿 7:56

 仏殿は七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、禅宗の本尊である釈迦牟尼如来を祀っており、大正4年(1915年)の竣工。
 山を降り、京急鶴見駅に戻り、南下を再開。下野谷町入口の交差点でR15を横断すると、京急国道駅。

JR国道駅 8:13

 JR鶴見線の国道駅は、高架下が異様なムードを醸し出す駅として有名で、何度もドラマの舞台にもなっている。
 確かに昭和5年(1930年)竣工の駅構内は、建設当初から全く改築されていないとのことで、戦前の雰囲気が漂う。
 駅名は、現在のR15(第一京浜国道)の前身である当時のR1と鶴見線との交点になることから付けられた。
 駅から少し進むと、魚屋が次々と現れ、「生麦魚河岸通り」とのこと。江戸時代、生麦は、幕府に新鮮な海産物を献上する御菜八ヶ浦のひとつであったらしい。
 しかし、廃業してそうな店も多く、だいぶ廃れてきているようだ。

生麦事件発生現場の碑 8:25

 通りを進んでいくと、余りに有名な文久2年(1862年)8月21日に起こった生麦事件発生現場の碑が立つ。
 さすが、東海道は「道じゅう博物館」ですね〜
 キリンビール横浜工場を過ぎると旧道はR15に吸収され、味気ない大通りを西へ進み、新子安、子安駅と順に通り過ぎる。
 R15から1本北の細道に入り、幕末の開港当時、オランダ領事館に充てられた長延寺が建っていた神奈川通東公園に着く。
 ここに宿場町の入口である桝形があったので、ここが神奈川宿の東の入口に当たる。

良泉寺 9:11

 公園から、京急神奈川新町駅を過ぎると良泉寺。
 良泉寺は、本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉が創建し(年代不詳)、江戸初期の第4代住職良念の代に、幕府より境内地の施入を受け、この地に移転したとのこと。
 横浜開港後、神奈川宿内の寺が諸外国の領事館に充てられたが、それを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であると口実を付け、幕府の命令を断ったらしい。骨ありますね〜 しかし、大丈夫だったんだろうか…

笠のぎ稲荷神社 9:13

 良泉寺の西端を北に入り、京急線のガード下をくぐると笠のぎ稲荷神社がある。
 笠?稲荷神社は、天慶年間(938−947年)に、勧福寿寺という今は廃寺になった寺の僧侶が近くの稲荷山の山腹に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、以降、同寺の守護神及び附近一帯の産土神として崇敬を集める。
 文永11年(1274年)、元寇の折りには、北条時宗が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、国家の安泰を祈願している。
 戦国期には衰微したが復興し、元禄2年(1689年)には稲荷山の中腹から山麓に遷座したところ、社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちたことから、「笠脱稲荷大明神」と称されるようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が笠脱の一字を訂正し、禾に皇を添えて「笠?稲荷大明神」と改称したという。
 明治2年(1869年)に、京浜間の鉄道敷設用地に接収されたため現地に移転、空襲で全焼したが、すぐに復興し、現在に至っている。

金蔵院 9:24

 西へ進むが、すぐに京急仲木戸駅。神奈川新町駅と500mしか離れていない。仲木戸駅のすぐ北にはJRの東神奈川駅が隣接しており、ややこしいので、2020年3月に京急東神奈川駅に改称されるらしい。仲木戸駅のすぐ西が金蔵院。
 金蔵院は、醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり寛治元年(1087年)の創建。慶長4年(1599年)には家康から寺領10石を拝領している。かつて堂前には家康の「御手折梅」と称された梅の古木があり、毎年1月に住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。

熊野神社 9:28

 金蔵院の南には熊野神社が建つ。
 熊野神社は、勝覚僧正が金蔵院と同年に、この近くの権現山山頂に創建したと伝えられている。もろ神仏混淆ですね…
 正徳2年(1712年)に金蔵院境内に遷座したが、明治初年の神仏分離令により金蔵院から分かれた。

外国宣教師宿舎跡碑 9:36

 金蔵院と熊野神社の間の街道筋を西に進むと、復原された高札場があり、さらに西には成仏寺。本堂は修理中だった。
 成仏寺は、永仁年間(1293−1298年)、心地覚心が現在の横浜市港北区に開基した。寛永7年(1630年)、家光の上洛の際の宿泊所「神奈川御殿」が境内に造営されることになったため、代替地として与えられた現在地に移転、塔頭6坊を持つ大寺となり栄えたという。
 幕末の横浜開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成したヘボンは本堂に、聖書や賛美歌の翻訳に尽力したブラウンは庫裏に住んだという。

神奈川宿本陣跡 9:45

 成仏寺の西で滝の川に突き当り、しばらく左岸沿いに進むと、本陣跡の看板が立つ。やっと3次目だ…
 往時は川を挟んで江戸側に神奈川(石井)本陣、反対側には青木本陣があったが、いまでは面影は全くない… 宿場から海を見下ろす眺望は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や歌川広重の浮世絵にも紹介され、また、神奈川沖の海は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」で一番有名だと思われる「神奈川沖浪裏」にも描かれたほどの名所だったのだが…

浄瀧寺 9:47

 本陣跡から、滝の川の右岸沿いに引き返すと、すぐに浄瀧寺がある。
 浄瀧寺は、文応元年(1260年)の創立。開山は妙湖尼。日蓮が安房から鎌倉へ向かう途中、妙湖尼が帰依し弟子となり、その庵室を寺に改めたと伝えられる。
 江戸時代初期に、青木本陣鈴木家から土地の寄進を受け現地へ移転した。
 横浜が開港した際、境内にイギリス領事館が置かれた。横浜大空襲で本堂等を焼失したが、昭和30年(1955年)に再建された。

権現山から北側の眺望 9:54

 西の山手に登って行くと、幸ヶ谷公園があり、権現山と呼ばれている。
 かつては神奈川湊の目印になる高い山だったらしいが、万延元年(1860年)に完成した神奈川台場の埋め立て用土砂を採取するため、山が削り取られてしまったらしい。
 その後も山の北側に鉄道が敷設されることになり、さらに山が削られ、今では、山のすぐ北側にJR東海道線、横浜線、京急本線が走っており、ほとんど山の体をなしていない。
 京急神奈川駅に出て、青木橋を渡ると、旧街道筋が残っている。

神奈川台の関門跡 10:11

 旧街道筋をゆるやかに登って行くと、「割烹 田中家」が南側に建っている。この辺りは、昔から神奈川台町と呼ばれ、海沿いの景勝地として広く知られており、安藤広重の「東海道五十三次」の「神奈川 台之景」もここから描かれている。
 そして、何と田中家の前身の旅籠「さくらや」は、文久3年(1863年)創業で、高杉晋作やハリスなども訪れ、また、坂本竜馬の妻「おりょう」が働いたことでも知られているのだが、「神奈川・台之景」にもしっかりと描かれているのだ。「神奈川 台之景」では、「さくらや」のすぐ南は海になっており、現状は、このすぐ南には巨大なJR横浜駅があるのだが、とても信じられない…
 田中家から、さらに坂道を登って行くと、神奈川台の関門跡を示す碑が立つ。
 開国当初、外国人殺傷事件が相次ぎ、各国の領事が警護を要求したため、安政6年(1859年)に、鶴見橋関門と対をなす形で、神奈川宿の西側の関門として幕府が設置したものである。

浅間神社 10:30

 西から南に方向を変えながら坂を下っていくと浅間下交差点の少し右手に小高い山があり、この上に浅間神社があるので、立ち寄ってみる。
 浅間神社は、承暦4年(1080年)、源頼朝が浅間神社を勧請して造営したと伝えられる。横穴古墳が密集する袖すり山と呼ばれる高みに立地している。
 本殿は当然ながら浅間造り。戦災で社殿は焼失し、現在の社殿は昭和戦後の再建である。

賑やかな洪福寺松原商店街 10:45

 東海道に戻り、歩きやすい脇道(神奈川宿〜保土ヶ谷宿の間は、けっこう旧街道筋が残っている)を南に進んでいく。
 芝生(しぼう)追分という、東海道と八王子道の辻を過ぎると、賑やかな商店街の一角に突入する。
 これが「ハマのアメ横」との異名もある、洪福寺松原商店街で、200m四方に約100店舗が並ぶ巨大商店街であり、桂歌丸師匠で有名な横浜橋通商店街、旧綱島街道白楽の六角橋商店街と並ぶ「横浜の三大商店街」とも言われている。
 歩行者天国になっており、休日には25000人余りも訪れるらしい。私もなかなか前に進めなくなった(笑)

橘樹神社 10:52

 R16を横断し、商店街は終了。さらに進むと、橘樹神社(たちばなじんじゃ)が街道右手に建つ。
 橘樹神社は、文治2年(1186年)、頼朝の天下を賀し国中の大小の神?に奉幣するため、京都の祇園社の御分霊を勧請奉祀し、創建された。
 もともと社名は祇園社だったが、いつしか天王宮に変った。この辺りの地名の天王町は、旧社名に由来するもの。大正10年(1921年)に現社名となった。
 橘樹神社のすぐ南が相鉄天王町駅で、腹が減って来たので、この辺りで何か補給しようかと思ったが、適当な店が無く、近くの保土ヶ谷駅前に期待して先を急ぐ。
 駅南側の天王町駅前公園には、帷子(かたびら)橋が架けられており、広重の「東海道五十三次」の「保土ヶ谷 新町橋」の風景が描かれたところである。

保土ヶ谷宿本陣跡 11:20

 すぐにJR保土ヶ谷駅に着くが、目ぼしい店を発見できず、駅前を空しく通過… そうしているうちに街道筋は直角に右折し、そのすぐ先に本陣跡を示す案内板が立っていた。これで4次目〜
 保土ヶ谷本陣の主は、後北条氏の家臣を務めていた苅部氏で、幕府によって子孫である初代苅部清兵衛が、慶長6年(1601年)に先祖の領地であった保土ヶ谷に戻され、保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を拝命し、明治3年(1870年)に本陣が廃止となるまでの約270年11代にわたり三役を務め、歴代当主が苅部清兵衛を名乗ってきた。
 10代当主・苅部清兵衛悦甫は初代横浜総年寄を任命され町の行政を担い、横浜港開港、横浜道の開発に大きな役割を果たし、維新後、「苅部」から「軽部」に改称、子孫は現在も同地に居住しているとのこと。

「千歳庵」で昼食にありつく@ 11:36

 しかし、空腹が限界に達してきた… 旅籠本金子屋跡の碑の近くに古びた(失礼)そば屋を発見したので、たまらず飛び込む。
 とりあえず、おでんを注文。土鍋でアツアツ!

「千歳庵」で昼食にありつくA 11:40

 続いて、かつ煮! 要はかつ丼のご飯抜きです(笑)

「千歳庵」で昼食にありつくB 12:15

 炭水化物を抜くはずが… すっかり酔っ払い、抑えが利かなくなり、気が付けば、たぬきうどんをオーダーしていた…
 しかし、完全にエネルギーを補給し、歩行を再開。すぐに保土ヶ谷宿上方見附跡があり、宿場町を抜ける。
 保土ヶ谷二丁目交差点でR1を離れ、右手の旧街道筋に入る。

樹源寺庭園の池 12:45

 旧街道筋をすぐに右手に急な石段が現れる。これが樹源寺。
 当山は鎌倉時代末期まで、東方山医王寺という真言宗の巨刹であったが、相次ぐ戦乱で、薬師如来を安置した薬師堂のみを残して一時期廃寺同然となっていた。
 その後、寛永年間(1624−44年)になり、保土ヶ谷宿本陣刈部吉次の妻が、日蓮宗に深く帰依し、妙秀尼(みょうしゅうに)と号し、焼け残った薬師堂の大欅の傍らに庵を結び、師の善領院日了上人を招いて総本山身延山久遠寺の末寺として開山したという。
 旧東海道のすぐ脇に位置していながら、少し高みにあるためか、俗世間から隔絶された雰囲気が漂う、静かなお寺でした。

権太坂を登る 12:54

 樹源寺から、しばらく西に進むと、左に直角に曲がり、R1に合流する手前で、右の脇道に入る。ここからしばらく坂が続く。
 この坂は、権太坂と言い、旧東海道を東京から西へ向かう際、最初に現れる急坂である。
 坂を登り切ったところは、武蔵と相模の国境で、境木地蔵堂が建っている。

境木地蔵堂 13:15

 境木(さかいぎ)地蔵堂は、伝承によれば、鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を漁師が浜に祀ったところ大雨で流出してしまい、数年後腰越に流れ着いた。夢で地蔵から「江戸の方へ行きたい、途中で止まってしまったらそこに放置して構わない。」と告げられた漁師は、像を牛車に乗せて運んだが、当地で車が動かなくなってしまいそこに放置した。漁師から地蔵像を託された村民は、「どんな粗末なものでも構わないからお堂をつくってくれ、そうすればこの村を賑やかにしよう」との夢のお告げにより、万治2年(1659年)、この地に地蔵堂を作り安置したところ、地蔵への参拝客が集まり、有名なぼた餅屋ができるなどで村が繁盛したという。

品濃一里塚跡 13:23

 武相国境から、今度は焼餅を売る茶店があったことから名が付いたとされる焼餅坂を下っていく。下り切ると再び坂道でこれは谷宿坂と呼ぶらしい。
 アップダウンに翻弄されながら登り切ると、路傍に品濃一里塚跡を示す碑が立っていた。
 品濃一里塚は、日本橋から9番目の一里塚で、旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、道の両側の一里塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内ではここだけとのこと。
 しばらく高台を進み、品濃坂の標識が立つところからすぐ先に、右手のR1を渡る歩道橋があり、環状2号線を渡る。渡った先から品濃坂の下りが始まり、下り切ると東戸塚駅入口交差点でR1を渡り、次の赤関橋の先で、ついに街道筋はR1に吸収される。

戸塚宿江戸方見付跡 14:15

 ひたすら歩くと、戸塚宿江戸方見付跡にようやく到着。
 江戸から見て戸塚宿の入口であることを示す標識「見付」があった場所で、ここから先、約3.5キロメートルの町並みが東海道戸塚宿として整備されていた。
 ようやくたどり着いた。次の藤沢宿まで8km弱あるので、この日は戸塚で止めることに… 何ともひ弱な私である…
 柏尾川を吉田大橋で渡る。この橋は、広重によって、「東海道五十三次」の「戸塚 元町別道」で描かれた橋のようだが、当然ながら原型は全くとどめていない…

何と藁が主体の善了寺本堂 14:28

 JR戸塚駅の手前に、大変お洒落なお寺が… 善了寺というお寺で、調べてみると、浄土真宗本願寺派で約400年の歴史あるお寺だが、神奈川県初のお寺のデイサービスの運営や、地域の活性化事業に積極的に取り組むなど、なかなか今風なお寺さんであった。
 そして、この本堂だが、平成28年(2016年)10月の落慶で、何とストローベイル(直方体に圧縮した藁のブロック)を積んで壁をつくり、土を塗った建築物である、ストローベイル・ハウスであり、19世紀後半に森林の少ない北米ネブラスカ州に移住した入植者が、不足する材木の代わりに最も身近な素材である麦藁や干草をブロックにして家を建てたのが始まりだという。
 藁と土でできた厚い壁には高い断熱性と蓄熱性があり、冬は暖かく、夏は涼しいので、エアコンへの依存が減る。また、調湿性に優れ、合板もボードも使わない壁が湿気調節をするので、除湿機も不要とのこと。有害な化学物質を使わないので身体にも良く、さらに、遮音性も高いという、スーパーな建物なのである。
 いやあ、良いもの見させていただきました〜

蒲田に寄り道 15:25

 JR戸塚駅に無事到着。今日はここまで。電車で大森に引き返すが、何故か蒲田でいったん下車。ホームには「蒲田行進曲」のテーマが…
 目的は、黒湯の温泉、「ゆーシティー蒲田」さんに入浴するためである。
 駅から5分ほどの便利な立地に、真っ黒な天然温泉が湧いており、何と460円(サウナ付きで730円)で入浴できるのだ!
 何でもこの辺りは大昔、海だったと考えられ、海草植物の化石(泥炭など)が地下深くで水に溶け込んで黒くなったとのこと。成分は主に重炭酸ソーダとメタケイ酸などで、色は黒褐色。微弱塩味で弱アルカリ性の泉質は、体がよく温まり、肌をツルツルにし、病気や怪我に効くなどの効能があるらしい。
 相当人気が高いのか、脱衣所の空きスペースを探すのにも一苦労したが、黒湯はさすがのインパクトでした。

今宵は「魚蔵 ねむろ 蒲田駅前店」さんで!@ 17:00

 さっぱりして、急いでお店を探索し、駅近くの「魚蔵 ねむろ 蒲田駅前店」さんを見つけた。16時から営業しており、17時前に入ったのだが、何とか最後のカウンター席を確保する。
 いくらの付き出しでスタート!

今宵は「魚蔵 ねむろ 蒲田駅前店」さんで!A 17:03

 ニシン(左)とサメカレイ(右)の刺身! この店は北海道から空輸された魚がウリらしい。確かになかなか食べられない魚である。

今宵は「魚蔵 ねむろ 蒲田駅前店」さんで!B 17:10

 北海道と言えば、やはり鶏ザンギ! これでフィニッシュ。満足して、大森のカプセルサウナに戻った。
 なかなか行程がはかどらないが、とにもかくにも東海道の旅の2日目が終わった…
 翌日の区間(戸塚〜平塚)へ。





参考タイム

1/14JR川崎駅 6:307:30 京急鶴見駅 7:307:45 總持寺 8:008:50 京急新子安駅 8:509:45 神奈川宿本陣跡 9:4510:00 京急神奈川駅 10:0010:55 相鉄天王町駅 10:5511:10 JR保土ヶ谷駅 11:1011:20 保土ヶ谷本陣跡 11:2011:25 旅籠本金子屋跡(「千歳庵」) 12:3013:15 境木地蔵堂 13:1514:15 戸塚宿江戸方見付跡 14:1514:35 JR戸塚駅

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