柏原史跡巡り

−足慣らし第2弾! 2週連続で柏原市の史跡巡りハイクへ−

   

山行概要

日 程
2016年4月23日(土)
山 域
生駒山麓
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
近鉄河内国分駅=0:15=国分神社=0:20=春日神社(田辺廃寺跡)=0:25=玉手山古墳=0:20=近鉄河内国分駅=0:30=三田家住宅・寺田家住宅=0:15=近鉄堅下駅【2:05】

記録文(写真はクリックで拡大)

 柏原、八尾の山麓史跡巡りの軽ハイクから1週間。ある地域を集中して訪れてしまうのが私の習性である。と言う訳で、性懲りもなく今週も河内国分駅までやってきた。
 終始、山沿いを進んだ前回と違い、今回は柏原市の中心街を辿る。
 先週と同様、奈良街道の案内板が建つ駅前の地蔵堂のところから、奈良街道(亀瀬越)を東へ進んでいく。旧街道沿いらしく、旧家も点在する中、ゆるやかに坂を登っていく。登り詰めた交差点が、奈良街道と長尾街道(奈良南部へ続く)の分岐であり、案内板がある。まずは奈良街道を直進し、坂を下って行くと、国分神社の森が現れる。

国分神社 8:08

 国分神社は、その創建は詳らかではないが、古書、口伝等によれば鎌倉時代の建立によるとある。創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の当時の新技術を伝え、その功績により、正二位の官位を得たと言う。
 参拝後、先ほどの奈良街道の案内板がある四つ辻に戻り、細い路地を南下、一度、信号でR25を横断し、さらに路地へ。阿弥陀寺のところで、右折すると、ため池(田辺池)の畔を通り、回り込むように再び南に向かうと、春日神社が現れる。

春日神社 8:30

 一見、何の変哲もない神社だが、境内の北側一帯は、田辺廃寺跡と言われている。
 田辺廃寺跡は、百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われており、金堂、三重の東西両塔、南大門などを擁する薬師寺式の大寺院である。

 春日神社から、西へ路地を下って行くと、近鉄の線路に当たり、そして、大和川の支流、原川に突き当たる。関西福祉科学大学の前を通り、桜の頃はさぞかし美しいと思われる並木道をのんびり辿ると、河内国分の駅前近くで、「玉手山古墳」の道標に従い左折し、山手へ登っていく。
 新興住宅街に登り着き、ポストのある交差点を右折し、更に登っていくと、西側の展望が開け、応神天皇陵、仲哀天皇陵、允恭天皇陵等のいわゆる古市古墳群が一望できるポイントがある。
 さらに進むと、墓地を抜け、柏原市立体育館の横の交差点には、小松山古戦場跡の碑が建っていた。かってこの辺りは小松山と呼ばれていたらしい。

小松山古戦場跡の碑 9:00

 小松山の戦いは、大坂夏の陣(1615年)の激戦の一つで、5月6日早朝から、豊臣方の後藤又兵衛隊2、800人と、徳川方23、000人が玉手山周辺で激戦をくりひろげ、又兵衛は討ち死に、遅れて到着した毛利勝永や真田幸村らの隊が、石川西岸の道明寺から誉田で戦いを展開し、夕刻に大坂へ撤退した戦いである。
 そして、翌7日には、幸村も死に、大阪城も落城するのである。
 玉手山一合墳の横を抜け下って行くと、境内の緑が鮮やかな片山薬師堂に到着。ここには「片山廃寺塔跡」があり、薬師堂前に塔心礎、四天柱礎、側柱礎石が並んでいる。
 すぐ隣の片山神社に参拝してから、坂を下り、車道を渡って、昔の旧街道のような路地を進む。

大和川右岸を歩む 9:24

 先ほど辿った原川が大和川に合流するポイントを過ぎると、近鉄を踏切で渡り、スタート地点の河内国分駅前に戻ってきた。左折し、国豊橋で大和川を渡り、しばらく大和川右岸の堤防上をR25と並行し、延々と歩く。
 暑くなってきたし、果てしなく感じる単調な歩行である。柏原市役所を過ぎ、安堂交差点で国道を渡り、大和川治水記念公園へ。
 公園から堤防を下り、住宅街へ。レンガ造りの高架が渋い、近鉄道明寺線をくぐり抜け、旧奈良街道に合流。いかにも旧街道筋だなと一目で分かる、趣のある通りを北上し、黒田神社から、さらに街道を北上すると、三田家住宅。

三田家住宅 9:50

 三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永17年(1640年)に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営んだ。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築を行い、その屋敷がそれ以後大きな改築を行われず今日まで遺されている。
 柏原船とは、大和川の洪水により荒廃した柏原村を再開発する為、寛永13年(1636年)、了意川路を航路として創業し、柏原村の青地樋から大和川の水を引き入れた了意川、竹淵川、平野川を通じ、大阪城あたりで淀川と合流した航路を運行し、物流が盛んになり、柏原村が繁栄するきっかけとなった。

 そして、寺田家住宅から、路地をぐるっと回り、平野川に沿った児童公園に、「柏原船ふなだまり跡」の碑が建っていた。
 黒田神社まで戻り、東へ。JR大和路線を渡るが、ここが昔の大和川の左岸堤防だったらしく、宝永元年(1704年)10月に付け替え工事が行われ、大和川は西に振られた。土木技術の力は凄いと唸る。小川に鯉が泳ぐ商店街を抜けると、近鉄堅下駅は近い。
 鶴橋で昼飲みし、上機嫌で帰洛した。

参考タイム

4/23近鉄河内国分駅 7:508:05 国分神社 8:108:30 春日神社 8:359:00 小松山古戦場跡の碑 9:009:20 近鉄河内国分駅 9:209:50 三田家住宅 9:5010:05 近鉄堅下駅

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