黒井城跡・柏原・丹波篠山市街散策

−続日本100名城の黒井城跡から、柏原・篠山の古い町並み散策で、丹波を満喫!−

   
  

山行概要

日 程
2020年2月22日(土)
山 域
黒井城跡・柏原・丹波篠山市街
天 気
曇り後晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR黒井駅=0:15=興禅寺=0:05=黒井城登城口=0:15=石踏の段=0:10=本丸跡=0:10=太鼓の段跡=0:15=黒井城登城口=0:10=兵主神社=0:10=JR黒井駅【1:30】
JR柏原駅=0:10=柏原八幡宮=0:05=太鼓やぐら=0:05=柏原陣屋跡・旧氷上高等小学校校舎=0:10=JR柏原駅【0:30】
篠山観光案内所=0:05=篠山城跡=0:10=安間家武家屋敷跡=0:20=春日神社=0:10=篠山観光案内所【0:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 新型コロナウィルス感染症が猛威を振るう中、また、超繁忙期という状況で、この間の土日は出勤が続いていたが、ついに我慢できず、車を使っての山行なら大丈夫だろうと、不要不急の外出を試みる(笑)
 続日本100名城に選ばれている黒井城跡に向かうことにし、枚方を6時に発進する。長岡京市から洛西NTを抜け、R9、R372、R173、県道300、県道97、県道69を3時間近くドライブし、ようやくJR黒井駅に到着。
 駅前の市営駐車場に車を止め、散策開始。

興禅寺の背後には黒井城跡が… 8:12

 駅から北に進み、まずは興禅寺に向かう。
 興禅寺は、戦国時代の山城黒井城の下館で、明智光秀の丹波制圧後に家臣斎藤利三が居住した館の跡に創建された。

堂々たる興禅寺楼門 8:15

 宮津市にある智源寺からの移築門で、創建年代は不明だが、元禄年間改修の記録が残る。
 柱間が3つで中央が出入口になっている、三間一戸の二階建ての門で、両脇に二天を祀り、二階には高欄(建物の縁にある手すり)を付けた回り縁をめぐらしている。
 二階には観音像を安置し、天井には竜が描かれるなど、典型的な禅宗様式の門である。

興禅寺本堂 8:15

 興禅寺の前身は「杖林山誓願寺」といい、今の位置から150m下った場所にあった。八木城主内藤宗勝が黒井城を攻城した時に誓願寺も戦火にあい焼失してしまった。当時の誓願寺があった場所は「寺屋敷」と呼ばれ9つの寺が立ち並んでいて、黒井城の寺町を形成していたという。
 この時、寺の復興に努力したのが黒井城主だった荻野直正(赤井直正)で、堂宇を建立などして再建に努めたと言われている。
 現在の場所に移転したのは、黒井城の落城50年後の寛永3年(1626年)のことで、下館跡に本堂等を移転し、山号を「杖林山」から「大梅山」、宗派を真言宗から曹洞宗に、寺号を「誓願寺」から「興禅寺」に、開基を荻野直正とした。

興禅寺の七間堀と野面積みの石垣 8:18

 
 黒井城の下館であった興禅寺は、現在も楼門前に水を湛えた七間堀と高い野面積みの石垣と白ねり塀が聳えるという城砦然とした戦国時代の構えをとどめており、山上の黒井城とともに「黒井城跡」として国の史跡に指定されている。
 斎藤利三が黒井城と下館を中心にこの地を治めた、天正7年(1579年)から天正9年(1581年)の3年の間に、娘のお福が生まれたが、彼女が後の徳川家光の乳母であり大奥の礎を築き統括した春日局であり、ここ下館が生誕の地ではないかと推定されている。

黒井城登城口 8:20

 興禅寺から七間壕沿いに西に進み、黒井小学校に突き当たると、右折し北にゆるやかに登っていくと、何箇所か駐車場が現れ、やがて車道が尽きるところで、駐車場と広場があり、ここが登城口である。
 ここから、登城ルート2本が山頂に位置する本城部に向かって伸びている。

「なだらかコース」を登る 8:35

 ルートは「なだらかコース」と「急坂コース」の2本であり、迷わず「なだらかコース」をチョイス(笑)
 獣除けのフェンスを通過し、大きく折り返しながら、ゆるやかに登っていく。

「石踏の段」に到着 8:40

 ひとしきり登ると、7合目辺りの位置に小平地が現れる。ここが山麓曲輪の一つで最大の規模である「石踏の段」と呼ばれる曲輪跡である。「急坂コース」がここで合流する。
 山城は、一般的には、敵方が下から上に登ってくることを想定し、曲輪も上下に配している「連郭式」が主であるが、この黒井城は山頂部分から同心円状に曲輪を配す「輪郭式」へと時代に連れて変化したとされており、このことで、曲輪同士の連携が可能になり横方向の防御能力が向上する仕組みとなっている。
 これは鉄砲の出現と関係しており、これまでの拠点防御から面での防御に変化していく戦国末期の山城の特色をよくあらわしているといわれている。

「東曲輪跡」に到着 8:50

 「石踏の段」から急坂を一気に登ると眺望が開け、山頂部分の本城部の一角に到達。虎口を抜けると、まずは「東曲輪跡」に到着。
 自然石をそのまま使った野面積の石垣が荒々しい。

「三の丸跡」に到着 8:51

 「東曲輪跡」から接続している「三の丸跡」へ。
 そもそも黒井城は、南北朝時代の建武2年(1335年)、この辺りを支配していた赤松貞範が山頂に砦を築いたことから歴史が始まり、数代の城主の変遷の後、約200年後の戦国時代さ中の天文23年(1554年)に、赤井直正が城主だった荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取った後、その勢力の拡大とともに、大改修を加えたのが、現在残っている黒井城の原型と言われている。
 その後、丹波平定を命じられた明智光秀の大軍を一度は退けたが、勇猛を誇った赤井直正が天正6年(1578年)3月に病死してしまい、ついに天正7年(1579年)8月、黒井城は落城した。

「二の丸跡」に到着 8:52

 「三の丸跡」から一段上がって、「二の丸跡」へ。
 黒井城が落城した後は、光秀の家臣の斎藤利三が城主となり、さらに改修が加えられた。
 本城部の石垣は、野面積みと、隅部は算木積み(長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増した積み方で、安土桃山時代以降の技術である)で築かれていることから、斎藤利三と次の城主である堀尾義治の頃の、天正年間に整備された可能性が高い。

ついに「本丸跡」に到着 8:55

 空堀を渡り、さらに一段上がって「本丸跡」へ。標高357mの城山山頂にあり、城内最高所かつ最大の曲輪でもある(48m×22m)。
 黒井城跡は、戦国時代から織豊時代にかけての様子が良く保存されていることから、平成元年(1989年)、国の史跡に指定されている。

「本丸跡」からの眺望 8:55

 「本丸跡」からの眺望は思いのまま。画像は黒井駅方面を見下ろしたものだが、これだけ見晴らしが良ければ敵軍の動きは手に取るように分かるだろう。
 「本丸跡」・「二の丸跡」の南北は「帯曲輪跡」に、本丸の西側も「西曲輪跡」に囲まれ、鉄壁の構えで、明智光秀が苦労したのも頷けるところである。
 満足して下山開始。下りは「急坂コース」で一気に下る。途中、山麓曲輪の一つ「太鼓の段跡」にも立ち寄ったが、急坂を一気に下り、登城口に無事下山。
 街並みを西に進んで、兵主神社に向かうことに。

兵主神社へ 9:35

 長い参道を経て、兵主神社の鳥居前へ。
 病気平癒、交通安全、商売繁盛、福徳開運の神を祀り、戦国時代からは特に疱瘡の守り神として有名で、宮家をはじめ、公卿や領主、一般住民の信頼も厚く、流行時には参詣の人がひきもきらず列を作ったと言われている。
 特に、関白近衛家とゆかりが深く、数々の献上物が宝物として保存されており、この鳥居の額もその一つで、文化11年(1814年)、時の内大臣、近衛基前が自ら揮毫して寄進したもので、畳約一畳の大きさもある。

兵主神社拝殿 9:37

 兵主神社は、由緒ある延喜式内神社で、天平18年(746年)、武を司る「兵庫」の守護神として創建され、全国に19社ある兵主神社の丹波國の一社である。
 境内には古墳があり、古い聖地に造営された神社と見え、鉄鏃や馬具が出土するなど、武神を祀る神社に相応しい。

オガタマノキの巨木 9:39

 社殿の奥には伐採を厳に戒めて護り続けた鎮守の森が広がっており、社殿裏の高さ34mのオガタマノキをはじめ、ムクノキやスギなどの巨木のほかコジイ群落があり、「兵主神社社叢」として、環境緑地保全地域及び丹波市指定天然記念物に指定されている。

影向石 9:41

 鎮守の森には、巨石が祀られており、古来から「影向石」と称されていたらしい。
 かつては、大きい欅の根がこの大石を取り巻いていたらしいが、欅は明治中期に枯れてしまった言う。欅は疱瘡の神であった。
 黒井駅に戻り、近くにある、本州一低い分水界である「水分(みわか)れ公園」に向かうことにし、公園のある丹波市の石生(いそう)地区へ車を走らせる。
 R176を飛ばし過ぎたか… 19km/hオーバーで捕まってしまった(涙)…

水分れ公園 10:24

 走行を再開し、石生地区へ。一番標高の低いポイントは公園から少し西の石生交差点辺りで、標高95mしかない。今まで色んな分水嶺を見てきたが、こんなに低いとは… 衝撃である。
 「水分れ公園」には、高谷川と用水路の分岐点が設けられ、画像の通り、左側の用水路は分水界の北側へ導かれ、ここを起点に黒井川、竹田川、土師川、由良川を経て約70km先の日本海に注ぐのだ。また、右側の高谷川本流は加古川を経て同じく約70km先の瀬戸内海へ流れていく。等距離というのも面白い。
 公園内にある丹波市の「水分れ資料館」は、残念ながら改装中であったが、この奇妙な分水嶺を見れたことに満足し、次は、織田信長の実弟、織田信包(のぶかね)を藩祖とする、柏原藩の城下町歩きをするため、JR柏原駅に向かう。

 柏原駅前にも、丹波市営の駐車場があり、車を止めて、いざ城下町歩きをスタート!
 まずは太鼓やぐらを目指して、地図を片手に歩き出すが、一筋間違えて、だいぶ西に逸れてしまい、大幅にオーバーランしてしまったので、先に柏原八幡神社に向かう。
 柏原八幡神社は、予想外にけっこうな山の上にあり、息せき切って到着。

神仏習合の柏原八幡神社 11:06

 柏原八幡神社は、万寿元年(1024年)、石清水八幡宮を勧請し、柏原別宮として創建された。その後、2度の焼失を経て羽柴秀吉が3年の工期を経て、天正13年(1585年)に再建したのが現在の社殿で、本殿と拝殿が接続した複合社殿は国の重要文化財に指定されている。
 境内には文化10年(1813年)に再建された三重塔がある。典型的な神仏習合の形だが、神社境内に現在も塔が建っているのは全国で18例のみらしい。そう言えば、塩の道で歩いた、信濃大町の若一王子神社も同じだったなと思いだした。

木の根橋 11:11

 柏原八幡宮から山を降り、南へ少し進むと、丹波市役所柏原支所の隣に木の根橋がある。
 欅の木で、幹径6m、樹高22mで推定樹齢は千年。その根の1本が幅8mの奥村川をまたいで、自然の橋を形成しているのだ。
 柏原地域のシンボルの一つとして住民に親しまれており、兵庫県指定の天然記念物である。

太鼓やぐら 11:15

 続いて、近くの太鼓やぐらへ。
 藩政時代は大手門の付近にあったもので、内部は三層になっており、最上層の楼上には「つつじ太鼓」という大太鼓が吊るしてある。
 当時は時報や警報に用い、火事には3点打・山火事と出水には2点打であった。藩主が江戸より帰藩する時の合図にも用いたという。   小学校ができてからは、児童の登校合図にも用いられていた。建立の時期は定かでないが、藩邸の造営が正徳4年(1714年)なので、それに近い時代に建てられたと考えられる。明治の初頭に現地に移されたらしい。

柏原陣屋跡長屋門 11:22

 再び東へ進んで、柏原藩陣屋跡へ。
 柏原藩は、慶長3年(1598年)、織田信長の弟信包が3万6千石で入り、3代続くが慶安3年(1650年)、嗣子なく断絶した。以降天領になったが、45年後の元禄8年(1695年)、信長の次男信雄の孫の宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され、2万石で移封された、19年後の正徳3年(1713年)、幕府より陣屋を築く事が許され、以後10代にわたり織田氏が治め、明治に至った。
 長屋門は陣屋の表門で、内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫である。文政元年(1818年)、御殿が焼失した時も延焼を免れた、創建時から残る唯一のものである。

柏原陣屋跡御殿 11:33

 御殿は正徳4年(1714年)、信休により築かれたものであったが、文政元年(1818年)の火災で焼失し、2年後に再建されたものである。再建されたものの明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎないが、長屋門と合わせ、国指定の史跡である。

旧氷上高等小学校校舎 11:33

 柏原陣屋跡の北隣には、旧氷上高等小学校は、明治18年(1885年)に竣工した木造2階建て下見板張りの校舎建築で、明治前期の貴重な洋風建造物である。玄関部に特徴があり、2階バルコニーの下支えに6本の円柱が据えられ、扉上部の飾り窓にはステンドグラスがはめ込まれている。
 この旧氷上高等小学校は、丹波市における“近代教育の発祥地”であり、卒業生の中には、日本女子大学の校長となり、今日の男女共同参画社会の生みの母となった井上秀や、女流俳人の第一人者であった細見綾子などを輩出している。
 兵庫県指定の文化財であるが、創建当時の姿を尊重した改修工事や耐震工事を終え、平成27年(2015年)4月、レストランやライブラリーカフェなどを備えた施設「たんば黎明館」としてリニューアルオープンした。

 柏原の街歩き終了。まだ12時前ということで、猪肉の買い物も兼ねて、丹波篠山へ向かうことに。
 観光案内所の隣の駐車場に車を止め、まずは篠山城跡に向かう。

篠山城跡へ 12:20

 駐車場等になっている三の丸から、内堀を渡って廊下門跡から、二の丸へ。往時は内張りを渡った所にある櫓門まで廊下状の門が続いていた。
 篠山城は、慶長14年(1609年)、常陸国笠間城から丹波国八上城に移封された松平康重(康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある。生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま康親に嫁いだとされる)が、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことで、豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするため、家康から新城の築城を命じられたのに始まる。
 篠山盆地中心部の丘陵である笹山が築城地と定められ、築城の名人、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15箇国、20の大名の助役による天下普請により、僅か6箇月で完成した。

二の丸の防御 12:21

 画像は、二の丸への最後の防御門である、くろがね門跡から中門跡を振り返ったところ。これに最初の門である櫓門を加え、二重の枡形を形成しており、非常に強固な防御網を形成している。

復元された大書院 12:25

 二の丸内には、城内最大の建物であった大書院が復元されている。
 大書院は、慶長14年(1609年)の篠山城築城とほぼ同時に建てられたと考えられ、篠山藩の公式行事などに使用された。明治6年(1873年)の廃城令で城の大半が取り壊されたが、城建物の中ではただ1つ残される事となりました。しかし、昭和19年(1944年)、失火により焼失してしまった。
 その後、篠山市民の熱い願いと尊い寄付によって、平成12年(2000年)3月に再建された。

埋門跡 12:25

 二の丸の南に裏門があり、左右の石垣に架けた渡櫓の下に埋門(うずみもん:隠れた門という意味で外から見えない門)になっており、門を隠すために、その外には隅櫓があり、三の丸の南廊下門へと続いていた。
 埋門はまた、非常の時、内から多数の石を投げ入れ、門を埋めて敵の侵入を防ぐ施設でもあった。

天守台 12:27

 篠山城は輪郭式と梯郭式の二種類の縄張の併用によって設計されており、天守台(殿守丸)と 本丸と二の丸を梯郭式で階段状に配置し、これを取り囲むように(輪郭式)三の丸が配置されている。
 本丸の東南隅に天守台がある。築城当初より天守台はあったが、結局、天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。
 また、いよいよ天守築造という段階になって幕府へ伺いに行った使者に対し、家康が「天守は人目に立って敵方の狙いとなるだけで、この城には無用のものである。それよりも優れた城主をおく方が肝要である」と述べたとも伝えられている。

天守台からの眺め 12:28

 天守台に登ってみると、さすがに展望は素晴らしい。
 木造校舎群が残る、丹波篠山市立篠山小学校が印象的だ。

青山神社 12:31

 本丸跡には、青山神社が建っている。
 篠山藩は、松井松平家・藤井松平家・形原松平家の松平3家8代、そして青山家6代が入って城主を務めた。
 明治時代に入り、篠山城は廃城となるが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望し、青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として明治15年(1882年)5月に青山神社が創建された。

安間家武家屋敷跡 12:45

 城外へ。三の丸西側にある、国の重要伝統的建造物群保存地区の「御徒士町武家屋敷群」に回ってみる。
 その一つに安間家住宅が建っている。安間家は、篠山藩主青山家の家臣で、「高12石3人扶持」の禄を得る下級武士の一家であり、この住宅は天保元年(1830年)以降に建築された標準的な徒士住宅で、 茅葺で曲屋形式の母屋と瓦葺の土蔵が残っており、丹波篠山市指定の文化財である。
 ここには文化庁に勤務していた3年前に業務で訪れているので、今回はスルー。

小林家長屋門 12:49

 「御徒士町武家屋敷群」の南外れに、小林家長屋門がある。
 茅葺入母屋造りで文化年間(1804−18年)頃、篠山藩主青山忠祐(ただやす)が老女小林千衛のために改築した長屋門である。城の西堀に面して、風光を展望し得る物見の間に、見晴らし窓を設け南に曲り家を取りつけた住宅兼用の独特な長屋門形式が創建当初の姿を残しており、兵庫県指定文化財である。

春日神社 13:07

 篠山城跡をぐるっと反時計回りに一周し、城跡北側の春日神社へ。
 春日神社は、平安時代初期の貞観18年(876年)、当時、日置荘(丹波篠山市日置)を領していた藤原基経、藤原時平父子により藤原氏の氏神である春日大社から分祀し、現在篠山城跡のある小山に勧請し、祀り氏神としたのが起源とされる。
 慶長14年(1609年)、篠山城築城の際に現在の地に遷された。
 秋の祭礼に使われる4柱の神霊を移した金神興や、9台のちんちき山と呼ばれる山鉾は、祇園祭の山鉾を模し造られており、絢爛豪華である。

春日神社能舞台 13:11

 境内には能舞台がある。能楽愛好家として知られた篠山藩13代藩主青山忠良によって江戸時代末期の文久元年(1861年)に建てられた能舞台で、当時箱根以西において最も立派なものであると称えられた。
 床板を踏む音を反響させるため、床下には大甕が伏せられているが、その完璧さは全国の能舞台中でも屈指といわれ、国の重要文化財に指定されている。
 毎年、元日には、「翁奉納」が、桜の咲く時期の4月上旬には「篠山春日能」が催される。

「鳥幸」さんの上猪肉! 16:53

 本来目的である二階町の「鳥幸」さんで、上猪肉300g(1500円/g)と味噌を調達し、帰阪する。
 夜は、ぼたん鍋フィーバーとなった。

参考タイム

2/22 JR黒井駅 8:008:15 興禅寺 8:208:25 黒井城登城口 8:258:40 石踏の段 8:458:55 本丸跡 9:009:10 太鼓の段跡 9:109:25 黒井城登城口 9:259:35 兵主神社 9:459:55 JR黒井駅
JR柏原駅 10:5011:00 柏原八幡宮 11:1011:15 太鼓やぐら 11:1511:20 柏原藩陣屋跡 11:3511:45 JR柏原駅
篠山観光案内所 12:1512:20 篠山城跡 12:3512:45 安間家武家屋敷跡 12:4513:05 春日神社 13:1513:20 篠山観光案内所

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