−春めく好天のもと、ついに伊勢街道をコンプリート!−
山行概要
2020年2月7日(日) | |
伊勢街道 | |
晴れ | |
単独 | |
近鉄松阪駅=0:25=神戸神社=0:20=JR徳和駅=0:15=八柱神社=0:25=櫛田の渡し跡=0:25=祓川=0:25=斎宮跡=0:10=竹神社=0:20=安養寺=0:50=へんばや商店本店=0:25=離宮院跡=0:15=宮川橋=0:30=筋向橋=0:10=外宮=0:15=近鉄宇治山田駅【5:10】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
5時に起床し、夜明け前にホテルを発進。松阪駅から南西に新町通を進み、日野町交差点で、伊勢街道に再合流。
交差点の南側に大きな道標があり、「左 さんぐう道 右 わかやま道」と刻まれている。ここは伊勢街道と和歌山街道が交わる場所で、付近には宿屋など多くの商店が軒を連ね、賑わっていたらしい。
愛宕町を抜けていくと、道幅は狭まり、街道の風情が出てくる。暗闇の中、ひたすら南に突き進むと、神戸(かんべ)神社。
神戸神社の創始は不明だが、鎮座地については往古より変更されることなく現地にある。祭神は香具土神(火の神)であり、もとは神戸神社と言わず、香具土神社と称していた。そのため現在でも地元の人々より通称「荒神さん」と呼ばれ信仰されている。
南東に方向を変え、さらに進むと、JR徳和駅の北側で、紀勢本線をまたぐ。
さらに東寄りに方向を変えながら進んで行くと、八柱神社。だいぶ明るくなってきた。
八柱神社の創建由緒等も不明。ご祭神はいわゆる五男三女神(八王子神)のことで、天照大神とスサノオ神の誓約(うけひ)により生まれた神々。三重県に数多く見られる宇氣比神社と同類の社と思われる。
八柱神社の鎮座する上川町は、昔ながらの街並みが残る。どの町家も玄関に「笑門」と記した注連縄が飾ってある。
さらに東に進んで行くと、櫛田川に突き当たる。土手に上がる箇所に文政2年(1819年)3月と刻まれた道標が建つ。
土手に上がるとかつて櫛田の渡しがあった場所に出る。冬・春の渇水期には仮橋が架けられ、夏・秋の増水期には舟で参宮客を渡し、それぞれ橋銭、舟銭を徴収していたという。
櫛田橋で川を渡り、少し北に進んで、街道筋に復帰。東進し、祓川を渡る。
祓川は、聖なる神領の入口に流れる川。斎王が、京から斎宮に赴任する際、この川で最後の禊を行って斎宮に赴任したという。
ちなみに斎王とは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武2年(674年)、壬申の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。
祓川の先の交差点で左折し、街道を離れ、北上し、「斎宮の森公園」の一画に入る。右折し、だだっ広い芝生の中を東に進んで行くと、斎宮跡に到着。
ここは斎王の宮殿と斎宮寮と呼ばれた役所の跡で、斎宮での斎王の暮らしは、神への祈りをささげる日々を送るとともに都さながらの雅やかな生活を送っていたという。
斎宮跡の南側には、「いつきのみや歴史体験館」があり、北側の芝生には1/10スケールの斎宮模型が展示されていた。
街道に復帰すると、すぐ東に竹神社が建つ。
竹神社は、明治44年(1911年)、旧斎宮村にあった25社の神を合祀して誕生した神社。元は祓川の畔に建っていたが、後に現地に遷座した。周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱建物の跡が発掘されたため、斎王の御殿があった場所ではないかと推定されている。
また、観世流の謡曲「絵馬」にちなんだ絵馬殿にあった絵馬が、この神社に保管されている。
竹神社の少し東にコンビニがある。そう言えば、今日は何も食べてなかった。暖かいので、駐車場でカップ麺を頬張る。高校生みたいだ(笑)…
歩行を再開すると、すぐに安養寺。
安養寺は、臨済宗東福寺派に属する寺院で、東福寺の九世で伊勢出身という癡兀大慧(ちこつだいえ)によって永仁5年(1297年)に建立された。最盛期には、「百間四方の境内の周りに堀が巡らされ、多くの堂塔が立ち並ぶ大寺院であった」といい、京の五山に準ずる格式の寺だったらしい。
本堂の裏側には、「明星水の井戸」がある。江戸時代、安養寺では参宮客に茶湯を振舞ったが、この茶を喫すると、たとえ不浄の者でもたちまち内外清掃によるという言い伝えが広がり、「安養寺の茶湯」と称し伊勢街道の名物になっていた。この接待に使った井戸は明星水と呼ばれ、明けの明星、宵の明星が降臨すると伝えられる日本三大霊水の一つと称されたという。
街道はひたすら東南東方向へ進み、いつしか伊勢市に入った。近鉄明野駅の近くで、右折し、南に方向を変える。相生川を渡る手前に「名物 へんば餅」の暖簾を掲げる「へんばや商店」の本店が建つ。
へんば餅は、安永4年(1775年)に九代前の主人が宮川のほとりに茶店を設け餅を商い初め、参宮する人達がこの店で休憩し、ここから馬を返し参宮したため、何時しかへんば(返馬)餅と名づけられ今日に至っている。
相生川を渡ると街道筋には、県道を離れ、右手の細道に入る。
この辺り小俣町といい、この地域特有の妻入りの家並みが残っている。
高札場跡の碑が建つ交差点があり、街道は左折するが、直進し、JR参宮線を渡るとすぐに離宮院跡がある。
離宮院は、斎王宮の離宮で、かつて斎王が年3回神宮へ向かう途中に立ち寄って宿泊した場所である。
斎宮が神宮まで遠いという理由から、離宮院そのものが斎宮となっていた時期もあったという。その後、斎宮の廃絶とともに離宮院も廃れた。
現在は「離宮院公園」となり、芝生広場が広がっている。
街道に戻り、東に進むと、宮川に突き当たり、渡し場跡がある。明治中期までは宮川には橋が無く、舟に乗り換えて宮川を渡った。この渡し場を明治期以降は、ここが桜の名所であり、約1000本ものソメイヨシノが川沿いに咲き誇る姿を見られたことから「桜の渡し」と呼ばれていた。また、この上流に熊野古道・伊勢参宮本街道の渡し場があったため、「下の渡し」とも呼ばれていた。
この熊野古道・伊勢参宮本街道の渡し場は、「柳の渡し」又は「上の渡し」と呼ばれていた。
そして、宮川橋で宮川を渡る。いよいよ神宮が迫ってきたと思うと感慨深い。
街中に入ってくると、筋向橋。ここは、伊勢街道、伊勢参宮本街道・熊野古道が合流する要衝で、ここが世俗の境になっていたという。往時の旅人は、ここでもう一度心を引き締めて、神宮を目ざしたという。現在は、暗渠になっており、欄干だけが残されている。
5年前に熊野古道伊勢路を始めた際は、ここから熊野を目指したのだ…
参拝の前に、どうしても我慢できず、「喫茶お食事処 外苑」さんで伊勢うどんを味わう。
そして、ついに外宮に参拝! 四日市から約80kmを踏破しました。現在、大阪から神宮までの伊勢参宮本街道もやっているので、内宮はその時に参拝することにし、今回は割愛し、近鉄宇治山田駅から、車の待つ松阪に戻った。
参考タイム
2/7 | 近鉄松阪駅 5:35 ⇒ 6:00 神戸神社 6:00 ⇒ 6:20 JR徳和駅 6:20 ⇒ 6:35 八柱神社 6:35 ⇒ 7:00 櫛田の渡し跡 7:00 ⇒ 7:25 祓川 7:25 ⇒ 7:50 斎宮跡 7:50 ⇒ 8:00 竹神社 8:00 ⇒ 8:15 ファミリーマート 明和斎宮店 8:35 ⇒ 8:40 安養寺 8:40 ⇒ 9:30 へんばや商店本店 9:30 ⇒ 9:55 離宮院跡 10:00 ⇒ 10:15 宮川橋 10:15 ⇒ 10:45 筋向橋 10:45 ⇒ 10:55 外宮 11:20 ⇒ 11:35 近鉄宇治山田駅 |
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