西国街道その4(箕面〜西宮)

−伊丹空港のフライトを間近に眺めながら西へ−

   

山行概要

日 程
2018年4月14日(土)
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
阪急桜井駅=0:10=天児屋根命神社=0:35=亀之森住吉神社=0:15=受楽寺=0:15=軍行橋=0:25=伝和泉式部の墓=0:45=昆陽寺=0:05=師直塚=0:20=甲武橋=0:30=門戸厄神=0:10=阪急門戸厄神駅=0:15=阪急西宮北口駅【3:45】

記録文(写真はクリックで拡大)

 先週に引き続き、西国街道を歩む。できるだけ涼しいうちに先まで歩いてしまおうという魂胆だが、阪急桜井駅に降り立ってみると、既に十分に蒸し暑い…(笑)
 駅前から、顕著に道筋が残る西国街道を進む。自動車教習所の辺りで、いったん北に逸れて箕面川を渡ると行く手に鎮守の森が見える。

天児屋根命神社 7:38

 これが天児屋根命(あめのこやねのみこと:天児屋根命は、古事記には中臣連の祖となったとあることから、その子孫の藤原氏の氏神として信仰され、春日権現、春日大明神とも呼ばれる)神社は、創立年代は奈良時代以前と思われるが不詳。
 その後、平安時代末期、摂関家藤原氏の隆盛とともに春日神社と改称し、藤原鎌足の祖神を奉斎するようになった。その後王子神も勧請、王子神社と称し二座を奉斎する事となった。
 明治12年(1879年)、現社名の天児屋根命神社に改められ今日に至っているが、この辺りの地名である「瀬川神社」の通称の方が著名である。
 また、境内に「龍ヶ井」と呼ばれる井戸があり、今は水が殆んど無いが、古くは水深くして神霊が宿り井底より龍が上天したと云う伝説があり、このことから「龍之宮」という通称もある。

亀之森住吉神社 8:15

 いつしか池田市に入り、石橋駅の横を抜け、R176を渡って、静かな住宅街の中に西国街道が続いていく。途中、立派なお屋敷の「がんこ寿司」があるなぁと思って帰って調べたら、大正時代、北摂の土木建築を支え、地域に貢献した中井エンジニアリング創始者の中井梅太郎氏の邸宅を改装した店舗らしい。
 さらに進んで広めの幹線を横断すると、街中にしては広々とした境内を持つ亀之森住吉神社が現れる。
 社記によれば、光仁天皇の宝亀元年(770年)の創建で、後奈良天皇の大永6年(1526年)に社殿が造営された。正親町天皇の天正年間(1573年〜1592年)の兵火で焼失したが、麻田藩主(現在の豊中市蛍池に藩庁があった、1万石の小藩。当初から幕末まで美濃国出身の青木氏が藩主)の祈願所となり社領を寄進され、現代まで何度か修復を重ねながら、今に至っている。

受楽寺 8:30

 十二神社の横を抜け、中国道の下をくぐり、さらに古い街並みを進んでいくと、受楽寺の前に出る。
 受楽寺は、室町時代末期の天正元年(1573年)に稲津太一郎によって現在地に建立された浄土真宗本願寺派の寺院で、以来、現住職まで血脈で相続されているとのこと。
 寺の前には「春團治の碑」が建っている。これは、初代と二代目の功績を讃えるため、三代目春團治師匠が平成10年、二代目春團治と住職が懇意であったここ受楽寺に建立したもの。以降、毎年4月に行われる春團治まつりのスタートが、この碑の前での法要から始まることになっている。

伊丹空港 8:47

 受楽寺の先でR171と合流し、伊丹市に入る。しばらく大通りを進むと、軍行橋(明治44年(1911年)に猪名川をはさんで陸軍大演習が開かれた際、演習用に架けられた橋が名の由来らしい)で猪名川を渡り、橋の西詰から、しばらく右岸を進む。
 ここからは、対岸の伊丹空港の発着の様子が一望。大小の航空機が次々と離陸していくのは壮観だった。

伊丹坂 9:09

 ダイハツの工場の所で猪名川を離れ、西へ。福知山線を渡り、多田街道(ここから「源氏三神社」の1つ、川西の多田神社に向かう道)との分岐を北に分けると、北園1丁目の交差点で府道13号線を渡ると、西国街道は坂道となり続いていく。
 静かな伊丹坂を登り切ると、「和泉式部の墓」を指す道標が現れたので、左折し、さらに丘の上へ。

伝和泉式部の墓 9:10

 静かな住宅街にポツンと五輪塔の一部が残って建っていて、地中から掘り出されたものらしい。
 鎌倉時代後期の様式で、五つの部分のうち、「火輪」「地輪」を除く「塔身」「請花」「宝珠」だけが現存し、高さ約120cm。完形なら約230cmにも達する大型の立派な五輪塔だったと考えられている。平成12年(2000年)5月に伊丹市の指定文化財に指定された。
 和泉式部は平安時代の有名な歌人で、鎌倉期以後、その歌才と「恋多き女」ともいわれた奔放な生き方を語りものの材料として全国を布教して回った尼僧たちの影響からか、全国各地に墓や供養塔と称するものが残っているが、式部が川西市平井の藤原保昌に嫁していたので、この地にも墓が残されたと思われる。

大鹿交流センター 9:24

 西国街道に復帰し、再び南西方向へ進む。大鹿という集落に入る。この辺りも街道の雰囲気が良く残っている。
 有馬道との辻に、町家風に建設された、伊丹市の交流センターが建っていた。
さらに南西へ進み、伊丹市役所のすぐ南側を通り過ぎ、R171に合流すると、昆陽寺の山門が見えてくる。

昆陽寺山門 9:57

 昆陽寺(こやでら)、行基が創立した畿内49院の一つで、西国薬師四十九霊場第十九番札所。
 天平3年(731年)、行基が貧民救済を目的とした「昆陽施院」創建し、天平5年(733年)に聖武天皇の勅願寺となって伽藍が整備され、周辺を開墾、荘園化して発展した。
 天正7年(1579年)の荒木村重と織田信長の戦火で焼失したが再興され、江戸時代は9ヶ寺の塔頭を有するなど、興隆を極めていたが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で被災した。
 山門は、明暦年間(1655〜1658年)の建立で、入母屋造本瓦葺。震災で被災したが、解体修理された。兵庫県指定文化財である。

昆陽寺本堂 10:02

 昆陽寺は、街中の寺院にしては、広大な境内を有している。
 本堂は、本尊・薬師如来を祀っているが、震災で崩壊し、2年後に再建された。

師直塚 10:10

 昆陽寺からR171沿いに進むと、街中にポツンと石碑が建つ。これが足利尊氏の執事で、絶大な権勢を誇った高師直の塚で、この辺りで処刑されたと言われている。
 足利尊氏と直義の兄弟が争った「観応の擾乱」(貞和5年(1349年)〜観応3年(1352年))の摂津国打出浜の戦い(観応2年(1351年))で尊氏は直義に敗れ、高師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦したが、これまで散々やりたい放題やってきた師直兄弟への恨みは深く、摂津から京への護送中に、一族もろともこの辺りで殺されたという。

甲武橋を渡る 10:30

 さらに西へ。西昆陽の交差点で左にカーブしていく国道を離れ、直進すると、武庫川の土手に突き当たる。
 この付近には武庫川の渡しがあり、明治42年(1909年)に甲武橋がかかるまで渡しは続けられた。かつて、西昆陽村に髭の安兵衛さんの茶屋が近くにあったことから「髭の渡し」と呼ばれていたらしい。
 当然、今は私はないので、武庫川左岸沿いに500mほど南下し、甲武橋で武庫川を渡る。

門戸厄神中楼門 11:00

 甲武橋から、西国街道の標識が立ち並ぶ、甲東園の住宅街を南西に進む。道なりに進めば、阪急門戸厄神駅に出るが、ここはやはり門戸厄神に寄り道しなくては。と言う訳で、適当なところで右折し、坂を登って門戸厄神さんへ。
 門戸厄神の正式名は松泰山東光寺。日本三大厄神のうちの一つ(他の二つは、八幡の石清水八幡宮と、かつらぎ町の天野明神)である。
 あらゆる災厄を打ち払うという厄神明王(門戸厄神)が有名で、厄年にあたる年齢の人が厄払いをするほか、数えで13歳の子どもが厄除けと学業成就を願ってお参りする十三詣も有名である。

門戸厄神の厄神堂 11:05

 嵯峨天皇の41歳の厄年にあたる天長6年(829年)、弘法大師により厄除祈願が行われたが、その際嵯峨天皇は愛染明王と不動明王が一体となって厄神明王となりあらゆる厄を打ち払うという霊感を得、空海に祈願を命じた。
 このため空海は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、石清水八幡宮、天野大社、そして、門戸厄神へそれぞれ国家安泰、皇家安泰、国民安泰を願って勧請したが、現在残っているのは東光寺のもののみであるという。そしてこの厄神明王像を祀るのが、この厄神堂である。
 御朱印も頂戴し、満足して門戸厄神駅へ。ちょうど腹が減ったので、駅前のお好み焼き屋で一杯やり、一駅区間の西宮北口駅まで、ほろ酔い加減で歩いて本日終了。

参考タイム

4/14 阪急桜井駅 7:257:35 天児屋根命神社 7:408:15 亀之森住吉神社 8:158:30 受楽寺 8:308:45 軍行橋 8:459:10 伝和泉式部の墓 9:109:55 昆陽寺 10:0510:10 師直塚 10:1010:30 甲武橋 10:3011:00 門戸厄神 11:1511:25 阪急門戸厄神駅 12:4012:55 阪急西宮北口駅

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