美濃金山城跡・小牧山城跡・大垣城跡

−タイムズカーシェアの機動力を活かし、東海の続日本100名城5城を一気に攻略した旅の2日目!−

   
   

山行概要

日 程
2019年10月27日(日)
山 域
美濃金山城跡・小牧山城跡・大垣城跡
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
美濃金山城跡駐車場(出丸跡)=0:05=古城山(本丸跡)=0:05=美濃金山城跡駐車場(出丸跡)【0:10】
小牧市役所=0:10=小牧市歴史館(小牧山城跡)=0:10=小牧市役所【0:20】
JR大垣駅=0:15=大垣公園(大垣城跡)=0:10=JR大垣駅【0:25】

記録文(写真はクリックで拡大)

 東海の続日本100名城巡り旅。昨日の古宮城跡・吉田城跡巡りに続く2日目。
 この日一城目の美濃金山城跡は、なかなか不便な場所にあるので、この日もまずは、タイムズカーシェアを利用する。8時ジャストに名古屋都心の丸ノ内を出撃する。
 すぐに名古屋高速に入り、東名、中央、東海環状と、次々と渡って行き、最後は東海環状自動車道の可児御嵩ICで高速を降り、木曽川沿いを遡り、美濃金山城跡への細い林道をたどり、三ノ丸直下の出丸があった箇所に整備された駐車場に車を止める。
 三ノ丸、二ノ丸と順にたどり、本丸跡へ。途中、大手門跡の辺りは整備工事の真っ最中だった。最近、城ブームが到来し、城跡の再整備が盛んだが、特に続日本100名城に選ばれた城跡は、100名城ほど有名でなかったので、そのまま放置されてきた城跡が多かったことから、各地で競うように再整備が進められている。

美濃金山城本丸 9:06

 美濃金山城は、天文6年(1537年)、尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられた。その後、織田信長が美濃国を奪ったことに伴い、永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称したが、元亀元年(1570年)の近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も討ち死にしていたため、次男の長可が跡を継ぎ城主となった。
 関ヶ原の後、森氏が川中島藩に転封されると金山城は犬山城主、石川貞清の所有となり、廃城とされた。2重2階層塔型の天守が建っていたが、廃城に伴い取り壊された。

本丸からの展望 9:08

 美濃金山城は、標高277mの古城山に築かれており、本丸は山頂に位置するため、展望良好。
 画像は、北側の木曽川方面を見下ろしたもの。

三ノ丸への登路 9:15

 あっと言う間に駐車場へ帰還。
 もったいないが、すぐに反転し、来た道を戻る。
 名古屋市街に戻る途中で、二城目の小牧山城に立ち寄ることに。
 城跡の南側にある小牧市役所の駐車場が解放されていたので、ここに止めさせてもらう。  小牧山城は標高86mの小牧山一帯が城域であり、小牧山は園地化されており、整備された階段で山上に向かう。

小牧市歴史館 10:19

 山頂には天守と思しき建物が… 復興天主と思いきや、この建物は、昭和42年(1962年)に名古屋市に住んでいた実業家の平松茂が、自身の財産を投じて建設し、小牧市に寄贈したもので、西本願寺の国宝「飛雲閣」がモデルらしい(笑)
 現在は、小牧市歴史館として活用されている。

小牧市歴史館最上階からの展望 10:32

 4階最上階は展望室となっており、濃尾平野が一望である。
 小牧山城は、織田信長が桶狭間の戦いに勝利後、美濃侵攻の拠点とすべく、本拠地だった清州城より北方のこの地を選んで築城し、永禄6年(1563年)7月に本拠地を小牧山に移した。
 発掘調査の結果、城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であり、多数の曲輪と重臣の館から成り、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成されていたことが判明している。
 しかしながら、永禄10年(1567年)8月、稲葉山城が落城で、斎藤氏は滅亡、信長は稲葉山城に本拠を移したため、小牧山城は約4年間で廃城となった。

小牧山三角点 10:35

 歴史観の裏手(北側)に、ポツンと三角点が埋め込まれていた…
 廃城となっていた小牧山城が再び脚光を浴びたのが天正12年(1584年)で、小牧・長久手の戦いが勃発し、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。
 この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれ、秀吉の大軍も容易に手が出せない状況になった。
 このため、焦った秀吉旗下の池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出し、壊滅させられる事態となった。この急造「小牧山城」は、徳川勝利の大きな要因となり、その後、小牧山城は、頼山陽の「日本外史」で「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された。
 江戸期になると、この地は家康「御勝利御開運の御陣跡」として、尾張徳川家の領地として管理され、一般の入山は禁止された。
 明治維新後、尾張徳川家の当主徳川義親によって国に寄付され、国の史跡に指定された。

「海老どて食堂」さんの特大海老ふりゃ〜 11:48

 車を返却し、JR名古屋駅に向かい、駅地下のエスカにある「海老どて食堂」さんで、名物の超巨大海老ふらいを堪能する。
 ハイボールが進んでしまい、昼からベロベロ。昨日のデジャブ(笑)
 JRで大垣に向かい、本日三城目の大垣城へ。駅前からメインストリートを南に進んでいくと、西側に大垣公園があり、その中に天守閣が建っている。

大垣城跡へ 13:49

 東門から城内へ。東門は、昭和34年(1959年)に天守が復興された際に、七口之門(大垣城外郭に南大手門など大小7つの門が置かれていた)の1つであった柳口門がここに移築されたらしい。
 大垣城は16世紀頃には既に存在したとされ、その後、大垣の地が要衝のため、目まぐるしく支配権が移ったが、秀吉が大垣の支配権を獲得すると天正11年(1583年)に配下の池田恒興が15万石で城主となった。その後、池田氏、一柳氏、伊藤氏と目まぐるしく城主が変わり、関ヶ原の戦いの際には、当時の城主、伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となったが、西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城した。
 江戸期になると、譜代大名の石川康通が城主になり、その後、寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。

大垣城天守 13:51

 本丸には北西隅に4重4階の複合式層塔型天守が建っていた。明治の廃城令により廃城となった後も、破却を免れ、国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲で焼失した。
 天守は昭和34年(1959年)、郡上八幡城を参考に外観復元された。

養老鉄道で桑名へ 14:19

 大垣駅には養老鉄道も乗り入れており、桑名まで行くことができる。帰阪は近鉄特急で帰ることにし、桑名までこの赤いボディの養老鉄道でのんびり進む。
 今年が全線開通100周年らしい。
 養老鉄道は、大垣〜桑名の43kmを約70分ほどかけて、のんびり進んで行く。運賃は830円だった。
 そして、桑名からは、近鉄特急を乗り継ぎ、大阪へ。続日本100名城の旅が終わった…

参考タイム

10/27美濃金山城跡駐車場(出丸跡) 9:009:05 古城山(本丸跡) 9:109:15 美濃金山城跡駐車場(出丸跡)
小牧市役所 10:1010:20 小牧市歴史館(小牧山城跡) 10:3513:45 小牧市役所
JR大垣駅 13:3513:50 大垣公園(大垣城跡) 14:0014:10 JR大垣駅

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