−守口からの高野街道を南下−
山行概要
2018年11月17日(土) | |
中高野街道 | |
曇り後晴れ | |
単独 | |
京阪守口市駅=0:05=守口宿=0:10=高瀬神社=0:55=放出大橋=0:15=阿遅速雄神社=0:10=諏訪神社=0:35=近鉄布施駅・足代安産地蔵尊=0:10=大阪メトロ小路駅=0:40=巽神社=0:20=杭全神社=0:10=JR平野駅【3:30】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
この日は、長年の宿願となっていた、熊野古道大雲取・小雲取越えの10時間オーバーのロングコースを前夜発日帰りという無謀に近い計画を立てていたのだが、天気予報がずっと微妙だったのと、同行予定のI.ヒロシ氏に業務が入ってしまい、やむなく中止となっていた…
「もう何週間振りに、この週末は家で過ごすか」と思っていたが、何と雨だった天気予報が曇りに変わっているではないか! こうなると、いつもの強迫観念から、どこかに出かけないと、収まりがつかなくなってきた…
と言う訳で、土曜日の早朝に出動! 高野街道の完全コンプに乗り出す。
京・大阪から河内長野へ向かう4本の高野街道は、既に東、西を歩んできたが、中高野街道をチョイス。大阪の守口から平野を経由し、狭山で西高野街道に合流して、河内長野に至る約36キロの行程である。
守口から平野までは、時代によっては「放出(はなてん)街道」と呼ばれ、中熊野街道の起点を大阪市の平野の杭全神社とする説もあるが、ここは、「広義の」中高野街道として、京街道の守口宿から分岐するフルコースを歩むことにした。
京阪守口市駅から、いったん逆方向の北西に進み、文禄堤上の京街道に合流。京街道(大津〜天満橋)は今年の2月に集中歩行をしたばかり。やはりここから歩かねば…
文禄堤は、文禄5年(1596年)に、秀吉が、毛利輝元らに命じて、淀川左岸に京都と大坂を最短で結ぶ陸路を整備させたもので、京街道の一部となっている堤防道である。この文禄堤の長さは約27Kmもあったらしいが、淀川の改修等でその多くは姿を消しており、ここ守口にのみ面影を残しているという。
ここから、あらためて、「十三夜坂」と呼ばれる坂で堤を下り、中高野街道歩きのスタート! 京阪のガード下をくぐり、住宅地の中を進んでいく。
街路が車道に合流する箇所に高瀬神社が建つ。
社伝では聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座したものとされ、延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて作成された延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社である。
何度も戦火に巻き込まれ、荒廃していたが、江戸時代中期に再興され、現在の社殿はこの時のものとされる。江戸時代には、神殿その他すべて備わった大社で八幡宮とも呼ばれていたらしい。
高瀬神社から南下し、R163を横断する。左手に物凄く立派な寺院が見えたが、金剛寺と言う念法眞教の総本山で、一般立入禁止になっていた…
鶴見緑地の西端の縁を進む。
鶴見市営住宅の中を通り抜け、放出大橋で寝屋川を渡り、放出の一角に入る。
街道筋っぽい街路を進む。途中、正因寺の前には中高野街道の石柱が建っていた。
JR放出駅の手前に阿遅速雄神社が建つ。
起源は、668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件の際、新羅の僧・道行が草薙剣を持って船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ、神罰と恐れをなして、途中の河口に剣を放り投げたところ、その後、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのが創始と伝わる。そして、草薙剣は無事に熱田神宮に返還されたとのこと。その縁から、現在も例祭日には熱田神宮より宮司か神職が参拝、熱田神宮の例祭日には、当社の宮司などが参列する慣習が続いている。
明治時代に浪速鉄道(現:片町線)建設の折に現在地に遷座した。
そして、鳥居の横にはお陰灯篭が建っている。
慶応4年(1868年)にお陰参りの結縁として建てられ、大阪市内では唯一現存するお陰灯篭で、大阪市指定の有形民俗文化財である。
JR放出駅前で第二寝屋川を渡り、放出南商店街を通り抜けていく。途中に諏訪神社がある。
諏訪神社の創建は不明。境内にある石灯籠に承和3年(836年)4月寄進と刻まれており、平安時代前期にはあったとされ、菅原道真が大宰府に左遷される道中で当社を参拝したとの伝説もある。
また、天正18年(1590年)、秀吉が小田原攻めの前に大坂城の天守閣から外を眺めた際、森の様に木が生い茂っていた当社が目に留まり、参拝したところ、戦に勝利したという逸話が残っている。その際、秀吉は神社の霊験を得たとして、雄と雌の一対の獅子を奉納したとされ、雄は明治18年(1885年)の大水害で流失したが、雌獅子は現存し、雄のレプリカも残っている。この獅子縁の獅子舞が毎年秋祭りに行われており、大阪市の無形民俗文化財に指定されている。
さらに南下し、阪神高速の高架をくぐり、そして府道24号線で生駒の暗峠を越えていく伊勢街道と交差する。
府道に面して「ブランドーリ ふせ」というアーケード商店街の起点になっており、そこを南下すると、すぐに近鉄布施駅に出る。
駅前すぐ南のアーケード内に足代安産地蔵菩薩がポツンと建つ。
この石仏は少し北のにあった聖源寺(明治5年(1872年)に廃寺)境内やその付近の辻などに祀られ、古くから安産地蔵の名で広く親しまれ、深い信仰を集めてきたらしいが、昭和5年(1930年)5月に現地に祠堂が建立され、堂内に丁重に安置された。
石仏には、永禄5年(1562年)の刻印があるほか、「河内国渋川郡足代庄衆生」とも印刻されており、東大阪市の有形文化財(彫刻)に指定されている。
アーケードが尽きたところで、直角に右折し、西へ進む。
四条通西商店街を進み、大阪メトロの小路駅のある内環状線を渡った少し先で、左折し、再び南下を開始。
巽の街並みに入ってくると、巽小学校の向かいに、昭和30年4月に大阪市に合併され生野区の一部になった、旧巽町の役場跡を示す案内板が建っていた。
この少し先で内環状線を再び渡った先に巽神社が建つ。
巽神社は、もともと巽村内にあった八幡神社に、村内の他の5社を合祀し、村名を取って巽神社と改称したものである。
応神天皇を主祭神とし、印色入日子命・伊弉册尊・天常立尊・天照大神・天児屋根命・菅原道真を配祀している。
巽神社の正面から南に伸びる街道筋をひたすら南下すると、平野川沿いに進むようになり、ついに関西本線の線路を渡って、杭全神社の境内へ。
この春に平野のまち歩きをした際にも訪れた、杭全神社を再訪。
神社のゆるキャラらしい「くまたん」が登場していた…
ここを中高野街道の起点とする記載も多いが、とにもかくにも、とりあえず本日は終了!
JR平野駅から僅か2駅先の天王寺へ移動し、恒例の昼呑みへ。
ルシアスの地下にある「海鮮が安いだけの店」で有名な、「スタンドふじ 本店」さんへ。これまで何度か入店をチャレンジしたのだが、いずれも満席で断念していたのだが、ついに始業の10分前に並んで、入店することができた。
始業と同時に満員(笑)の店内で、生しらすでスタート!
クエ刺し!
バイ貝刺し!
最後はタコ天でフィニッシュ!
気が付けば近所の串かつ屋さんに吸い込まれていた!(笑)
〆は肉吸い!
大満足で、となりにある「湯処 あべの橋」でいつものルーティン(笑)
良き休日でした。
参考タイム
11/17 | 京阪守口市駅 6:45 ⇒ 6:50 守口宿 6:50 ⇒ 7:00 高瀬神社 7:05 ⇒ 8:00 放出大橋 8:00 ⇒ 8:15 阿遅速雄神社 8:15 ⇒ 8:25 諏訪神社 8:25 ⇒ 9:00 近鉄布施駅・足代安産地蔵尊 9:00 ⇒ 9:10 大阪メトロ小路駅 9:10 ⇒ 9:50 巽神社 9:50 ⇒ 10:10 杭全神社 10:15 ⇒ 10:25 JR平野駅 |
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