東海道その1(日本橋〜川崎)

−ついに東海道プロジェクトが始動! 何日かかるやら…−

   

山行概要

日 程
2019年1月13日(日)
山 域
東海道
天 気
曇り時々雪
メンバー
単独
コースタイム
日本橋=1:10=増上寺=0:45=泉岳寺=0:15=JR品川駅=0:35=品川宿本陣跡=0:10=京急青物横丁駅(水炊き・焼鳥 とりいちず 青物横丁店)=0:40=鈴ヶ森刑場跡=0:45=京急蒲田駅=0:25=六郷神社=0:15=新六郷橋=0:10=川崎宿(田中本陣跡)=0:15=JR川崎駅【5:25】

記録文(写真はクリックで拡大)

 この数年、街道歩きにハマっていたが、連休後の東京出張を契機として、ついに東海道に足を踏み入れる時がやって来た…
 ネットの情報だけで何とかなるだろうと、特段の準備を一切しないまま、早朝ののぞみで東京へ。
 今回の宿は何故か大森のカプセルサウナ3連泊である(笑) 出張用のスーツも持ってきているので、品川で新幹線を途中下車し、大森駅のコインロッカーに荷物を預けてから東京へ向かったため、東京駅着は9時前だった。
 まずは八重洲口から日本橋へ向かう。

日本橋 9:10

 初代の日本橋は、慶長8年(1603年)3月3日に木造の太鼓橋として架けられ、以降、現在の橋は、石造二連のアーチ橋で、明治44年(1911年)に完成し、19代目とも20代目とも言われており、国の重要文化財にも指定されている。
 しかし、ご覧のように上空は首都高に覆われ、景観台無しである。そのためか、首都高の地下移設の検討が進められているらしい。

日本国道路元標のレプリカ 9:10

 戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けており、当時の東京市は、徳川幕府が日本橋を五街道の起点と定め、全国の里程の起点としたことを踏襲し、橋の中央を「東京市道路元標」とした。その後、昭和47年(1972年)に橋の改修が行われた際、「東京市道路元標」が日本橋の北西側の袂に移設され、その撤去跡にあらためて当時の道路法に基づき「日本国道路元標」が新たに埋め込まれた。
 現行の道路法では道路元標に関する規定はないが、50cm四方のブロンズ製の日本国道路元標は、現在も橋の中央帯に埋め込まれているとのこと。
 橋の北西側にこのレプリカが展示されている。
 現在、日本橋を始点としている一般国道は、R1をはじめ7本あるとのこと。五街道を引き継ぐほか、いずれも大幹線である。
 さぁ、いよいよ京都三条大橋に向けての第1歩を刻む。何日かかるだろうか…

名水白木屋の井戸 9:17

 R1はすぐに皇居方面へ右折していくので、この辺りの東海道はR15沿いに進むことになる。
 日本橋からすぐ南の「コレド日本橋」という再開発ビルの手前で左折し、「名水白木屋の井戸跡」に寄り道する。
 この辺りの井戸水は塩分を含むため、付近の住民は苦しんでいたが、正徳元年(1711年))、白木屋(かつて日本橋にあった東急百貨店の前身ともいえる老舗百貨店)2代目当主の大村彦太郎が、私財を投じて井戸掘りに着手すると、翌年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出し、以降、付近の住民のみならず諸大名の用水にも用いられ、広く「白木名水」とうたわれてきたとのこと。
 元々は、日本橋一丁目交差点角にあったが、平成16年(2004年)に移設・再現された。

京橋記念碑 9:32

 国道沿いに進んでいくと擬宝珠欄千の親柱があり、京橋の記念碑とのこと。
 ここにはかつて京橋川があり、そこに架けられた橋もあったのだ。
 江戸時代の京橋は、幕府が架ける公儀橋であり、擬宝珠を据えられることが許された橋であった(他に擬宝珠があった橋は、日本橋と新橋のみ)。日本橋と並ぶ名橋であり、東海道で最初に渡る橋であった。
 昭和34年(1959年)に京橋川は埋め立てられ、それにともない京橋も撤去された。

銀座一丁目を行く 9:35

 京橋を過ぎると、銀座のゾーンに入って来る。まさか自分が銀座を歩くことになるとは(笑)…
 中国人ばっかりだ… 速足で通り過ぎる。

日比谷神社 9:58

 銀座をやり過ごすと新橋ゾーンへ。東新橋2丁目の交差点には日比谷神社が建つ。
 日比谷神社の創建年代は不詳。元は現在の日比谷公園内の大塚山に鎮座していたが、慶長年間(1596−1615年)の江戸城の拡張に当たり、氏子とともに東新橋に移され、その後、東海道線の敷設で新橋4丁目に遷座し、さらに今度は都市計画道路の予定地にかかったことから、平成21年(2009年)に現地に移転した。
 別名を「鯖稲荷」という。もともとは大塚山に在った頃、苦しむ旅人達に社務所を開放して無病息災を祈願を受けさせたところ霊験があったことから、「旅泊(さば)稲荷明神」と呼ばれていたが、新橋移転以降、いつしか「鯖」の字を当てた鯖稲荷となり、虫歯に苦しむ人が鯖を断って当社に祈願すると霊験があるとされ、成就すると鯖を奉納する習わしであった。

東京タワー! 10:16

 浜松町1丁目の交差点で、いったん街道を離れ右折する。東京メトロの御成門駅の上まで来ると、芝公園の一角に入り、東京タワーが間近に見えてきた。
 南に進むと巨刹、増上寺へ。

増上寺大殿(本堂)と東京タワー 10:20

 増上寺は、9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が前身で、明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖の酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。寛永寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺であり、秀忠をはじめ6人の将軍が葬られている。
 聖聡の弟子には、松平氏が開基した寺の僧侶が多く、中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かったようだが、徳川家の菩提寺となった経緯については、天正18年(1590年)、家康が江戸入府の際、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。
 「忠臣蔵」の舞台にもなっており、元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣する際に畳替えをしなければならないところ、高家(朝廷との調整窓口)の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという有名な挿話があるが、史実は不明である。

三解脱門 10:30

 増上寺は、江戸期は広大な境内を有していたが、神仏分離の影響等で、大幅に規模を縮小、境内の大部分が芝公園になった。文化財も戦前までは、台徳院(秀忠)霊廟をはじめ、多数の国宝を有していたが、戦災でほぼ消失してしまった。
 この三解脱門は、戦災をまぬがれた建物の1つであり、元和8年(1622年)建立の二重門で、国指定の重要文化財である。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪(とん:欲)、瞋(しん:怒り)、癡(ち:愚か))から解脱できるとされる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
 ちなみに本堂の大殿は、昭和49年(1974年)の再建である。
 三解脱門を出て東に向かい、復元された大門をくぐり、R15の街道筋に復帰し、南下を再開する。

「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」の碑 10:53

 芝4丁目の交差点で、方向を大きく西に替え進んでいくと、JR田町駅の手前に「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」の碑が立っていた。
 新政府軍の江戸城総攻撃は、慶応4年(1868年)3月15日に予定されており、その直前、西郷と勝の会談は2回にわたって行われ、一度目の会談は3月13日に高輪の薩摩藩邸で、二度目は翌日にこの地にあった田町薩摩蔵屋敷で行われた。
 勝は、徳川家が降伏する条件を西郷に提示し、会談の結果、西郷は総攻撃を中止、勝の案を京都に持ち帰ることとなり、4月4日には新政府側と徳川家の間で最終的な合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺を出て水戸へ出立し、江戸城は無血開城された。
 さすがに江戸は歴史舞台の宝庫ですな…

泉岳寺本堂 11:15

 JR田町駅でまた南に方向を変え、しばらく進むと都営浅草線の泉岳寺駅にやって来た。ここで再び街道を離れ、少し西にある泉岳寺へ。
 泉岳寺は、青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられ、慶長17年(1612年)に家康が外桜田の地に門庵宗関を招いて創建された。寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したが、家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。
 境内には学寮があり、後に駒澤大学に発展した。現住職も駒澤大の特別教授であるほか、今でも僧侶は境内の学寮で共同生活を行いながら駒大に通学している。

赤穂義士の墓 11:23

 境内には浅野長矩と赤穂義士の墓があり、国指定の史跡である。
 元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で吉良義央に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩と、元禄15年(1702年)12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となった赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓である。
 毎年4月初旬と12月14日には「義士祭」が催されている。

品川本陣跡 12:15

 泉岳寺を後に、街道歩きを再開。高層ビル群が近づいてくると品川である。JR品川駅を過ぎ、京急の北品川駅に来ると、宿場町があった辺りに入り、今では商店街になっている。私は何故かJRの駅構内を横断し、東側から南下したので、結果的に大きく迂回することになってしまった…
 やっと53次の1次目に到着である… 江戸時代、品川宿は東海道最初の宿場町として大いに栄えたという… 街道脇にある公園の一角に本陣跡の碑が立つ。
 品川宿には、江戸前期までは北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣があったが、中期以降は北品川宿にあったこの碑が立つところにあった1つだけになった。
 明治になり宿駅制度が廃止された後は警視庁品川病院となったが、昭和13年(1938年)に公園として整備され今に至る。明治元年(1868年)の明治天皇東幸の際に行在所となったため「聖蹟公園」という名がついている。

荏原神社 12:18

 南に進み目黒川を渡る。街道の東脇の川沿いには荏原神社(えばらじんじゃ)が建つ。
 荏原神社(えばらじんじゃ)は、和銅2年(709年)、大和国丹生川上神社から水神の勧請を受けて創建したのに始まる。
 源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬された。元々は「品川貴船社」と称していたが、明治8年(1875年)に荏原郡の名をつけて「荏原神社」に改称した。
 「南の天王」との別名もあるが、これは、宝暦元年(1751年)6月、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見されたことによる。この慶事に因み、毎年6月には天王洲沖で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」で有名な「天王祭」が行われている。

「水炊き・焼鳥 とりいちず 青物横丁店」さんで昼呑み! 12:40

 さすがに腹が減って来たので、街道筋の店を物色しながら南下を続けると、京急の青物横丁駅の近くに「水炊き・焼鳥 とりいちず 青物横丁店」さんを発見。何と昼からランチメニュー以外も普通に注文できるという昼呑み者にとってはぴったりの店であった。
 しかも角ハイが280円、焼き鳥が1本150円前後とコスパも良好で、またしても昼からヘベレケに… 今日は川崎まで歩きたいが大丈夫か?

品川寺 13:45

 何とか歩行を再開。店のすぐ南には品川寺が建つ。
 寺伝によると、空海の開山で、大同年間(806−810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)には太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。
 その後、戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。
 余談だが、明暦3年(1657年)の銘があるこの寺の梵鐘が幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)やウィーン万博(1873年)に展示され、その後所在不明となっていたが、大正8年(1919年)、当時の住職であった仲田順海は、鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原喜重郎ほか多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930年)、同市の好意によりついに鐘は品川寺に返還された。これが縁で、平成3年(1991年)、品川区とジュネーヴ市は友好都市となり、この際に、新しい梵鐘が品川区からジュネーブ市に贈られたとのこと。

鈴ヶ森刑場跡 14:20

 品川宿を抜け、浜川橋で立会川を渡り、大井競馬場の西側を南下していくと、京急大森海岸駅の手前に鈴ヶ森刑場跡の碑が立っている。
 鈴ヶ森刑場は、慶安4年(1651年)に開設され、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場(そう言えば約1年前に行ったな…)とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場である。
 慶安4年(1651年)に開設され、明治4年(1871年)に閉鎖されるまでの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われている。当時は海沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。
 小塚原とともに、江戸の入口に処刑場が設置されたのには、江戸に入る者に警告を与える意味で設置されたと考えられている。

磐井神社 14:33

 鈴ヶ森刑場跡でR15に再合流し、以降しばらく単調な国道歩きが続く。
 京急大森海岸駅のすぐ南に磐井神社が建つ。
 磐井神社の創建年代等については不詳だが、敏達天皇(572−585年)の代に創建されたと伝えられる。「日本三代実録」によれば貞観元年(859年)に「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」との記載があり、武蔵国の八幡宮の総社(総社八幡宮)に定めたといわれ、平安時代には「延喜式」にも記載されている。
 江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡)」とも称された。
 刑場名にもなったこの辺りの地名「鈴ヶ森」は、この神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされる。

六郷神社 15:45

 磐井神社を後に南下を続ける。平和島付近で国道の脇道を少し進むところがあるが、それ以外はひたすら国道を進む。
 東京都の南端が近づいてきた。この辺りの地名は六郷と言い、六郷の総鎮守であった六郷神社がある。
 六郷神社は、社伝によると天喜5年(1057年)、源頼義、義家父子が、この地の大杉の梢高くに源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡宮に武運長久を祈願したところ軍の士気が大いに高まり、前九年の役で勝利したため、凱旋後に石清水八幡宮の分霊を勧請し八幡宮を創建したとされる。
 以降、武家の信仰篤く、慶長5年(1600年)には、家康が神社の近くを流れる多摩川に架橋を命じ、その竣工を祈って願文を奉り、またこの神社の神輿によって渡初式を行ったと伝えられている。

多摩川を渡り神奈川県へ 16:00

 江戸期ここには、六郷大橋が架けられており、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。
家康が最初に橋を架けて以降、100年も経たない間に5度も洪水で流されてからは再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられていた。
 橋を渡り、ついに神奈川県に入った。橋の南詰で国道を離れ、街道跡っぽい脇道に入る。

川崎宿に入る 16:04

 すぐに川崎宿の一角に入る。丸1日歩いてようやく2次目…
 川崎宿は、東海道の成立時点では正式な宿場ではなかったが、品川宿〜神奈川宿間が五里と長く、伝馬の負担が重かったために、元和9年(1623年)に設置された。
 しかし、設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、寛永9年(1632年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった。
 そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを行い、宝永6年(1709年)、ついに六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした。
 しかし、度重なる災害や各藩の財政窮乏もあり、幕末には本陣も衰微しており、安政4年(1857年)には、タウンゼント・ハリスが田中本陣に泊まる予定であったところ、荒廃のため万年屋(多摩川を渡ったところにあった旅館兼茶屋で、川崎太師に行くのにも便利なことから、当時大繁盛していた)へ移るということが起こっている。
 夕暮れ直前になってきた。この日はここで終了、川崎駅へ向かう。

夕食は「うな串 焼鳥 う福 大森」さんで!@ 19:24

 宿のある大森駅に向かい、チェックイン後、飯を求めて駅前を彷徨っていると、うなぎの串焼きを出す珍しいスタイルの店を見つけたので、こちらに飛び込む。
 まずはうなきもからスタート!

夕食は「うな串 焼鳥 う福 大森」さんで!A 19:31

 うなぎ串の5本盛り合わせ! 短冊・白短冊・くりから(捌いた時に生じた、うなぎの切れ端部分を串に巻いて焼いたもの)・肝・かぶと焼きを堪能!
 満足して、1泊3000円のカプセルサウナに格納されました…
 翌日の区間(川崎〜戸塚)へ。





参考タイム

1/13日本橋 9:1010:20 増上寺 10:3011:15 泉岳寺 11:2511:40 JR品川駅 11:4012:15 品川宿本陣跡 12:1512:25 京急青物横丁駅(「水炊き・焼鳥 とりいちず 青物横丁店」) 13:4014:20 鈴ヶ森刑場跡 14:2014:30 磐井神社 14:3515:20 京急蒲田駅 15:2015:45 六郷神社 15:4516:00 新六郷橋 16:0016:10 川崎宿(田中本陣跡) 16:1016:25 JR川崎駅

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