−あらためて大阪城を何十年振りに見学。さすがの名城でした…−
山行概要
2019年1月19日(土) | |
大阪城跡 | |
快晴 | |
A、私 | |
京阪天満橋駅=0:15=大手門=0:15=豊圀神社=0:05=天守閣=0:30=京阪京橋駅【1:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
最近の城巡りが嵩じて、大坂城にあらためて行きたくなったので、連れを連行することに。
天満橋駅に集合し、いざ大手門を目指す。
千貫櫓(左)、多聞櫓(中央)と大手門(右)が近づいてくる。
大手門は、高麗門形式(正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱との間にも屋根を乗せる形式)で、寛永5年(1628年)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに建設された。嘉永元年(1848年)に修復されており、そのまま現存している。国指定の重要文化財である。
一の門をくぐると巨大な桝形になっており、その奥に多聞櫓が立ちはだかる。
多聞櫓は、下に鉄板張りの大門を備える渡櫓、南に折れ曲がって伸びる続櫓からなり、大手門と合わせ、巨大な桝形門を形成している。
大阪城には他にも桝形門があったようだが、現存しているのは大手門のみで、この多聞櫓も国指定重要文化財である。
大手門から二ノ丸に侵入すると、すぐ「石山本願寺推定地」の碑がある。
石山本願寺は、明応5年(1496年)に、本願寺坊舎として建設が始まり、天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となった。
寺内町が次第に形成・発展し、また、元々要害の地にあったものをさらに強固にし、武装を固め防備力を増していき、いつしか「摂州第一の名城」と言われるほどになったのだ。
元亀元年(1570年)から始まった信長との石山合戦で、10年も持ちこたえたのだから、凄い。
東に進んで行くと豊圀神社。
豊圀神社は、明治元年(1868年)、明治天皇が大阪行幸の際、国家の為に大勲労のあった秀吉を、大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたのを受け、明治6年(1873年)に、京都の阿弥院峯墓前を本社として、中之島の現在中央公会堂が建つ場所に社殿が造営された。
御祭神と歴史についてのご紹介画像03
大正元年(1912年)、中央公会堂建設の為、府立図書館の西方の公園内に移転したが、戦後、昭和31年(1956年)に市役所増築のため、現地に移転している。
陸軍第4師団司令部だったこの建物は、戦後、大阪府警本部の庁舎を経て、昭和35年(1960年)からは大阪市立博物館として利用されたが、平成14年(2001年)3月末に大阪歴史博物館の開業をもって閉館となり、その後、未利用となっていた。
そして、平成29年(2017年)10月に、飲食・物販の複合施設「ミライザ大阪城」として、新生オープンしたのである。
桜門から本丸に侵入し、天守へ向かう。インバウンドだらけだ…
昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号であり、第7代大阪市長の關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により昭和6年(1931年)11月7日に竣工した。
建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、「大坂夏の陣図屏風」を基に豊臣大坂城時代の天守が復興された。鉄骨鉄筋コンクリート構造で、5層8階で高さは54.8m。
何度か改修がなされ、美装のだけでなく、現在では阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えうるほどの耐震化がなされている。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも短期間で焼失したのに比べ、この昭和の天守は最も長命の天守になった。平成9年(1997年)には国の登録有形文化財に登録された。
天守内部は博物館となっており、秀吉の詳細な生涯など、見応え抜群で、最上階にたどり着くのに1時間近くもかかってしまった。
ハルカスの高さが圧倒的な天王寺方面を見渡す。金ピカの鯱も素晴らしい!
帰路は北側の極楽橋から本丸を出る。遊覧船が運行している。
京橋駅へ向かい、駅前の立ち呑みの名店「まつい」さんに突入!
おでんでスタート!
串盛り!
だし巻き!
呑み足りず、京橋界隈を彷徨う…
「風の街 京橋飛騨店」さんに飛び込み、看板メニューの「飛騨玉」(要は全部乗せ)をオーダー!
銭湯でまったりした後は、「丸一屋」さんで呑み直し!(笑)
ヒラメ刺し、ぎんなん、フキの煮付けという渋いチョイス(笑)
キンピラごぼうと鯛の子煮付けという、さらに渋いチョイス(笑)
こうして京橋の夜は更けていった…
参考タイム
1/19 | 京阪天満橋駅 9:00 ⇒ 9:15 大手門 9:15 ⇒ 9:30 豊圀神社 9:35 ⇒ 9:40 天守閣 10:55 ⇒ 11:25 京阪京橋駅 |
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