−京街道60余キロをめでたくコンプリート!−
山行概要
2018年2月25日(日) | |
曇り | |
単独 | |
京阪浜大津駅=0:05=札の辻=0:25=関蝉丸神社上社=0:10=逢坂の関跡=0:25=追分=0:35=大宅の一里塚=0:15=京都市営地下鉄小野駅=0:05=勧修寺=0:45=JR藤森駅=0:10=墨染寺=0:25=大手筋(大阪満マル伏見桃山店)=1:20=京阪淀駅【4:40】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
京街道も淀から天満橋が繋がり、以前に歩いた鳥羽街道(京都〜淀)と繋がったことで、京都〜大阪〜和歌山〜紀伊田辺〜熊野本宮大社〜熊野速玉大社〜紀伊長島〜伊勢神宮という長大なラインが繋がり、満足していたのだが、京街道もあと1回でコンプリートできそうなので、足がムズムズしてきた。
この土日は、土曜の方が天気は良かったのだが、残念ながら仕事が… どんよりとした曇天の下、早朝の浜大津駅に降り立つ。
駅前から南に真っすぐ伸びるR161を辿る。京町1交差点が札の辻である。
札の辻は、北国海道と東海道の分岐点で、ここに江戸幕府の法令を記した高札(こうさつ)が立てられたことからその名が付いた。ここには、大津宿の人足や伝馬を調達する人馬会所がおかれ、ここから南の八丁筋には、旅籠や本陣がたち並び、東海道の宿場で最大規模と言われた大津宿が広がっていた。
重要な分岐であることから、大津市道路元標も置かれている。
関蝉丸神社下社や、大津本陣跡の石碑を過ぎ、逢坂1の交差点でR1に合流し、逢坂峠越を目指す。
途中にはR1のすぐ真横の斜面にへばりつくように立地する関蝉丸神社上社が現れる。石段を上がるには、歩道のある車道の東側から西側に渡らなければならないが、早朝なのに交通量が半端なく、横断するのも命がけである(笑)
社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。
平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死去後に彼も上社と下社に祀られるようになった。天禄2年(971年)には円融天皇から下された綸旨により、以後、歌舞音曲の神としても信仰されるようになった。
さっきの下社もそうだったが、社殿の痛みがひどく、ブルーシートで屋根が覆われていた。地方の文化財の実情が生々しい。大津市でこうなのだから、地方はもっと悲惨なんだろうな…
逢坂の関跡を越え、京阪大谷駅へはR1を離れ細道へ。駅前からすぐに歩道橋を渡りR1に復帰し、以降、ダラダラと京都市側へ下っていく。
名神の高架をくぐると、すぐにR1を離れ左折し、旧街道っぽい細道を南へ進む。
すぐに分岐があり、ここが追分。
右が三条大橋で東海道53次の終点。左は57次と延長し、大阪へ向かう京街道であり、私は当然左へ向かう。
R1と2度交差しながら進むが、2度目の山科大塚の交差点からは、真っすぐ南に大宅地区の古い街並みを進んでいく。
大宅の一里塚を横目に名神をくぐり、さらに南下。山科署の辺りで右に折れ、小野で外環状線を渡り、さらに西へ進むと勧修寺に到着。
勧修寺(かじゅうじ)は、真言宗山階派の大本山。南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王15世長吏(勧修寺においては事実上のトップ)となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺したことから、「山階門跡」とも称されている。
「勧修寺縁起」等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐天皇の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。
本堂は、境内の隅にひっそりと佇んでいる。寛文12年(1672年)、霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったらしい。
勧修寺氷池園と呼ばれる池泉庭園をぐるっと一周する。池は氷室の池と呼ばれ、蓮で有名だが、当然ながらこの時期は枯れ果てている。凛とした空気が辺りを支配し、この時期もなかなか良いですな。
池の畔には、望楼風建築の観音堂が建つ。昭和初期の建築らしいが、庭園と良く調和している。
歩行を再開。勧修寺から西に延びる大岩街道(府道35号線)で峠を越えて伏見に向かう。
大岩街道と言えば、某K市職員としては「野焼き」の現場としてあまりに有名。この間の取組で見違えるように変わった。
峠を越え、ゆるやかに下る。京都一周トレイルの大岩神社入口の標識が立つ少し先で、右の細道へ。深草谷口町で再び府道に合流し、すぐ次の交差点で左折して旧街道へ。
深草大亀谷の集落に入るが、この辺りは本日一番と言って良いほど、旧街道の雰囲気が色濃く残る。
天理教山国大教会の前で、JR奈良線を渡るとすぐにJR藤森駅。右折し、駅前から西に延びる坂道を下っていく。2次試験実施中の京教大の前を通り、京阪墨染駅へ。
踏切を渡り、さらに西へ向かうと墨染寺だ。
墨染寺(ぼくせんじ)は、貞観16年(874年)、摂政藤原良房が建立した元号寺院の貞観寺(じょうかんじ)が前身という。良房の娘・明子の産んだ惟仁親王(清和天皇)の加護のために建立したという。
境内に咲く墨染桜(すみぞめざくら)があまりに有名。墨染桜は、平安時代に藤原基経の死を悼み、上野峯雄(かんつけのみねお)が「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだところ、なんと薄墨色の桜を咲かせたのが、名の由来である。そして寺の名前も墨染寺と呼ばれるようになった。
墨染寺から京阪電車に変更するように南へ進む。伏見区役所を過ぎ、大手筋商店街に突き当たる。
ちょうど腹も減ってきたので、誘惑に勝てず、フラフラと大阪満マル伏見桃山店に吸い込まれ、焼酎ハイボール5杯で昼から昇天!
この日も歩行続行が危ぶまれたが、何とか歩き出す。
竜馬通り商店街から寺田屋へ。今年の5月に来たときは時間が早すぎて入れなかった。この日も観光客が多すぎて、見学は断念し、先を急ぐ。
京阪中書島駅前から対岸に伏見港公園を見ながら、濠川沿いに南下する。
宇治川に合流し、堤防上をのんびり歩く。日も差し、すっかり初春の陽気で、ほろ酔い加減ということもあり、凄く気持ちよい。
京都高速、R1と順にくぐる。宇治川は大きく左に流れを変え、南に流れるようになる。建設中の京都市南部クリーンセンター第2工場が真横に見えるようになった辺りで、堤防を降り、踏切(千両松踏切)を渡る。
以降は、徐々に大きくなる京都競馬場を目標に頑張れば、京阪淀駅に到着した。
これで、京街道コンプリート!
参考タイム
2/25 | 京阪浜大津駅 7:35 ⇒ 7:40 札の辻 7:40 ⇒ 8:05 関蝉丸神社上社 8:10 ⇒ 8:20 逢坂の関跡 8:20 ⇒ 8:45 追分 8:45 ⇒ 9:20 大宅の一里塚 9:20 ⇒ 9:35 京都市営地下鉄小野駅 9:35 ⇒ 9:40 勧修寺 10:05 ⇒ 10:50 JR藤森駅 10:50 ⇒ 11:00 墨染寺 11:00 ⇒ 11:25 大手筋商店街(大阪満マル伏見桃山店) 12:50 ⇒ 14:10 京阪淀駅 |
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