西国街道その2(大山崎〜高槻)

−西国街道を4年振りに再開! 気楽な半日ハイクを満喫−

   

山行概要

日 程
2018年4月8日(日)
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
阪急大山崎駅=0:15=水無瀬神宮=0:15=櫻井駅跡(JR島本駅)=0:30=畑山神社=0:30=磐手杜神社=0:25=阪急高槻市駅【1:55】

記録文(写真はクリックで拡大)

 4年前の正月に、京都駅〜大山崎をやって以降、熊野古道に注力していたので、それっきりになってしまっていた西国街道。半日の空きができたので、軽く続きをやってみることに。
 自宅から30分余りで大山崎駅へ。すぐ近くの離宮八幡宮で身支度をしてからスタート。ほぼJR線に沿いながら進む。予想に反して、はっきりと街道跡と分かる道が残っているのが嬉しい(西国街道はこの後もずっと市街地を行くのだが、明瞭に街道の跡が残っているので、なかなか掘り出し物である)。
 島本町に入り、第一小学校の手前で左折し、水無瀬神宮に寄り道する。

水無瀬神宮拝殿 9:10

 水無瀬神宮は、後鳥羽上皇の離宮であった水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱(承久3年(1221年))で隠岐に流されそこで死去した上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。
 その後、同じく承久の乱で敗れて配流され、その地で崩御した土御門天皇(土佐→阿波国)・順徳天皇(佐渡島)の神霊を配流地から迎えて合祀した。
 本殿や拝殿等は国登録の有形文化財に登録されている。
 また、境内に湧く「離宮の水」は、大阪府内で唯一、環境省選定の「名水100選」に選ばれている。
 街道筋に戻り、西に進むと公園状に整備された園地に出る。

櫻井駅跡 9:25

 櫻井駅跡と言っても鉄道の駅ではなく、大化の改新以降、幹線道路に30里ごとに設けられた、馬など旅に必要なものを備えていた施設のことである。
 駅跡よりも、「楠公父子訣別之所」の方が有名になっており、ここ櫻井駅跡は、建武3年(1336年)5月、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の正行を河内国に帰らせたとされる場所で、公園中央に大きく、陸軍大将乃木希典による「楠公父子訣別之所」の碑が建てられ、すぐ隣には「滅私奉公」と書かれた石像があり、揮毫は近衛文麿という、右翼垂涎の地である(笑)
 櫻井駅跡のすぐ西横がJR島本駅。駅前を通り過ぎ、再びJR線沿いを進む。途中で線路の北側に移るが、この辺り、大阪府とは思えないほどの長閑な雰囲気が漂っており、さすが島本町である(笑)

畑山神社 10:01

 いつしか高槻市に入り、徐々に住宅街になっていくが、それでも街道風情はそのままである。
 畑山神社の石柱に導かれ、境内へ。
 この地は元々、高槻最古の寺の一つ梶原寺があった場所で、そこに元亀年間(1570年代)に創建され、永福寺と号した。
 慶長年間(1596〜1615年)の火災で焼失したが、村民協議により再建され、明治元年の神仏分離令により、明治5年(1872年)、畑山神社に改めた。

磐手杜神社 10:30

 安満町の辺りで街道を離れ右折し、北へ向かう。磐手杜神社に向かうためである。檜尾川を渡るとすぐに磐手杜神社。
 磐手杜神社は、安満山の南西麓に鎮座していることから、もとは安満神社と呼ばれていた。その後、この辺り一帯が春日大社の荘園だったことから、春日神社と呼ばれるようになったが、明治44年(1911年)に、磐手の杜と呼ばれ、歌枕として名高かかった境内の森の名を取って、現在の社名に改められた。
 壮大な社殿が存在していたようだが、天正年間(1573〜1592年)に高山氏の兵火によって焼失したため、元和8年(1622年)に現在の社殿が建てられたと伝えられている。
 毎年5月5日の例祭、「神輿渡御神事(通称:馬祭)」は、稚児が乗った三頭の馬が神輿とともに神社を巡るもので、五穀豊穣と村の安寧を願う農耕儀礼であり、高槻市指定の無形民俗文化財である。

 時間の都合で、この日は30分ほど先の阪急高槻市駅で終了。
 失礼ながら、これほど街道の風情が残っているとは思ってなかった。なので、また早い機会に続きを歩もうと思う。

参考タイム

4/8 阪急大山崎駅(離宮八幡宮) 8:509:05 水無瀬神宮 9:109:25 櫻井駅跡(JR島本駅) 9:3010:00 畑山神社 10:0510:30 磐手杜神社 10:3511:00 阪急高槻市駅

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