長尾街道その1(堺〜藤井寺)

−イヴの日に、オッサンは一人寂しく街道歩きを敢行! 完全に病んでます…−

   

山行概要

日 程
2018年12月24日(振休)
山 域
長尾街道
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
南海堺東駅=0:10=方違神社・百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵)=0:15=JR堺市駅=0:25=愛染院=0:30=近鉄布忍駅=0:15=ちちかみ橋=0:05=阿保茶屋(近鉄河内松原駅前)=0:20=大塚山古墳=0:20=吉村家住宅=0:10=島泉丸山古墳(雄略天皇陵)=0:20=近鉄藤井寺駅【2:50】

記録文(写真はクリックで拡大)

 目ぼしい街道を歩いてきたが、一度やりだすと、とにかくどこも歩きたくなってくる。完全に病気である。ネットや文献を洗い、面白そうな区間を通っている街道がないか調べていると、長尾街道が引っ掛かってきた。
 長尾街道とは、堺市から東へ向かい、二上山北麓の田尻峠を越えて、葛城市の長尾神社付近に至る街道である。日本最古の「官道」である「竹内街道」も大阪から堺市に来てからは長尾神社までを結んでおり、長尾街道は竹内街道の北側をほぼ並行して通じている。
 古くは「大津道」と呼ばれていたようで、大津の名は、羽曳野市北宮にある大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道という説もある。また、起点の堺市にあった細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。てっきり終点の長尾神社から街道名になったと思っていたので、意外である。

 本来は南海堺駅から大小路を東に進むのが正しいのだろうが、竹内街道や西高野街道とカブっており、何度も歩いたので、堺東駅からズボラをかますことに。枚方を始発に近い電車で出たので、堺東駅を出発したのはジャスト7時(笑)。駅の北側から東へ、「三国の坂」と呼ばれるゆるやかな坂を登って行く。

方違神社 7:10

 熊野古道紀伊路歩きで、2度来ているが(平成27年(2015年)1月1日1月17日)、その時と比べて社殿がピカピカになっていた…
 創建2100年記念事業で、社殿を今年新しくしたらしい。

百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵) 7:10

 境内の南には、百舌鳥耳原北陵が隣接している。
 百舌鳥耳原北陵は、百舌鳥古墳群の北端に位置し、墳丘長148mで百舌鳥古墳群の中では7番目の大きさである。墳丘の形態や出土した埴輪から、5世紀中頃に造築されたと考えられている
 反正天皇の陵墓に比定されて宮内庁によって管理されているが、天皇陵に比定されている百舌鳥耳原三陵のなかで、他の2つの古墳(大仙陵古墳(仁徳天皇陵、525m)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵、365m))と比べて規模がかなり小さいことから、反正天皇陵であることを疑問視する意見も多く、宮内庁も土師ニサンザイ古墳(290m)を反正天皇の陵墓参考地にしている。

愛染堂 7:50

 どんどん東へ進み、阪和線を堺市駅の南側でまたぎ、さらに進むと街道の南側に愛染院がある。
 愛染院の本堂は、棟札(むなふだ)により慶安5年(1652年)に建築されたことが明らかで、近世寺院の様式を伝える建造物として大変貴重であり、堺市の指定文化財である。
 また、本堂に秘仏本尊として祀られている観音菩薩立像は、平安時代後期の特徴をよく表しており保存状態も良好で、長尾街道周辺に残る平安時代の仏像彫刻としてはこれがほぼ唯一の事例であることから、この仏像も市指定有形文化財である。

古びた街並みも 7:54

 地下に大阪メトロが走る、あびこ筋を渡ると、古い街並みが残っている(北花田の辺り)。
 この辺り以外はひたすら単調な市街地を東進していくと、やがて大和川の支流である西除川に当たった。

下高野街道との辻にある惣井戸 8:18

 いつしか松原市に入っており、布忍橋西詰には、惣井戸と呼ばれる古井戸が残っている。
 見覚えのある景色で、それもそのはず、ここは、1箇月前に歩いたばかりの南北に通じる下高野街道との辻なのだ。

「ちちかみ橋」の跡 8:35

 さらに東進。だんだん周囲が賑やかになってきた。松原警察署の前には「ちちかみ橋」の碑が立っている。
 ここは、今井戸川が長尾街道と交わる所で、昔「ちちかみ橋」が架かっていた。名の由来は、「遠い昔、京から来た高貴な身分の母親が愛児に乳房を含ませていたところ、急にむずかり、口に含んでいた乳房を歯でかみきってしまい、母親は愛児を抱いたまま亡くなった」という悲しい言い伝えからきているらしい。

「阿保茶屋」の跡 8:40

 近鉄河内松原駅前の辻に出る。ここも見覚えのある景色で、中高野街道との辻なのだ。
 江戸時代、この辻の北側は阿保村で、南側は松原村であり、この辻は、両村の出入口として、往来が盛んであったため、休憩する人々のために茶屋などが並んでいたらしい。ここからこの辺りの地名も阿保茶屋と呼ばれるようになったらしい。
 ちなみに、阿保茶屋の読みは、阿保は「あほ」ではなく「あお」で、さらに、「あおんちゃや」と「ん」を入れて読むらしい(笑)

雄略天皇陵 9:00

 松原駅から寺池の畔を通り、阪和自動車道をくぐると、羽曳野市に入ってきた。街道筋から少し南に寄り道したところに、巨大な大塚山古墳があるので、立ち寄ってみる。
 大塚山古墳は、墳丘長335mで、全国で第5位の大きさを誇る巨大古墳であるが、実際の被葬者は明らかでなく、宮内庁により雄略天皇が被葬候補者の陵墓参考地である。
 一応は古市古墳群の一つとされているが、百舌鳥古墳群と古市古墳群のほぼ中間地点に位置しており、学術的には古市古墳群に該当しないとする説もあるため、悲しいことに世界遺産への登録を目指している両古墳群のリストには含まれていない…

吉村家住宅 9:20

 街道筋に復帰し、しばらく東へ進むと、布忍で渡った西除川と同じく、狭山池を源流部とし、大和川の支流である東除川を渡る。渡ったすぐ先の辻を北に入ると、茅葺の渋い建物が現れる。これが吉村家住宅で、今年の1月に、藤井寺と羽曳野をブラブラした際に来たところだ。
 元和元年(1615年)の大坂夏の陣で、それまでの建物を焼失し、直後に再建されたと考えられており、その後何度も増改築をされ、原型がかなり崩されていたが、昭和26年(1951年)から28年(1953年)にわたって行われた解体復元修理で、再建当時の姿に復元されており、民家で初めて指定された重要文化財らしい。

島泉丸山古墳(雄略天皇陵) 9:30

 吉原家住宅から街道筋に戻り、また東へ。前方に島泉丸山古墳の濠が見えてくる。ここも1月に探索済みだ。
 この丸山古墳は、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定され、古市古墳群では唯一の大型円墳である。宮内庁により雄略天皇の陵に治定され、隣接する島泉平塚古墳と合わせて前方後円形に整形されているが、立地・墳形・規模の点で疑義も指摘されている。
 さらに東進し、藤井寺市に入る。突き当りで大阪の平野からやって来る古市街道に合流し、しばらく南下する。

藤井寺市小山の街並み 9:41

 小山の辺りは古い町家が多い。
 しばらく古市街道と並走した後、岡一丁目の辻で長尾街道は東に再び進路を変え、奈良県に向かって行くが、この日は藤井寺で中断することにし、そのまま古市街道を南下し、駅前北商店街のアーケードに吸い込まれ、近鉄藤井寺駅に到着し、長尾街道の前半部終了〜

「半田屋」さんで昼(朝)呑み! 10:23

 阿倍野に到着し、いつものルーティン炸裂! あべの横丁の10時からやってる「半田屋」さんで昼(朝)呑み!
 ハイボールにいわしの刺身とうざくでご満悦(笑)

「明石焼 たこ八」さんで〆 11:13

 我慢できず、やっぱり明石焼に突入…
 そして「湯処 あべの橋」に沈没し、ルーティン完成…

参考タイム

12/24南海堺東駅 7:007:10 方違神社・百舌鳥耳原北陵(反正天皇陵) 7:107:25 JR堺市駅 7:257:50 愛染院 7:508:20 近鉄布忍駅 8:208:35 ちちかみ橋 8:358:40 阿保茶屋(近鉄河内松原駅前) 8:409:00 大塚山古墳 9:009:20 吉村家住宅 9:209:30 島泉丸山古墳(雄略天皇陵) 9:309:50 近鉄藤井寺駅

山行データへ

諸国名山探訪

Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved

inserted by FC2 system