−熊野古道リスタート第二弾! 市街地を牛歩戦術…−
山行概要
2015年1月17日(土) | |
熊野古道紀伊路 | |
晴れ時々曇り | |
単独 | |
南海堺東駅=0:10=方違神社=0:25=仁徳天皇陵=0:30=南宋寺=0:20=石津神社=0:30=大鳥大社=0:25=等乃伎神社=0:35=聖神社一之鳥居=0:10=聖神社=0:10=篠田王子跡=0:10=平松王子跡=0:25=泉井上神社=0:05=JR和泉府中駅【3:55】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
熊野古道リスタート第一弾(天満橋〜堺)を元旦早々決行したが、業務が繁忙期に入っており、すでに2週間以上経過してしまい、いきなり停滞気味… 何とか半日の隙間を確保し、朝一の京阪特急で大阪へ。
堺東駅に降り立つ。寒過ぎる。思わず駅構内のロッテリアに駆け込み、ホットコーヒーで暖を取る。
何とか体制を立て直し、出発。記憶も新しい方違神社へ、長尾街道の三国の坂をゆるやかに登る。この街道は、堺の五つの旧街道の一つで、堺と奈良の交易ルートとして利用されたとのこと。
2週間前は、初詣客でごった返していた境内は、早朝のこの日は無人。参拝だけを済まして通過。
境内を南へ通り抜けた先で「てくてくロード」と記された散策コースに入り、反正天皇陵の脇を南下、方違神社の祭祀用水に使われたという「閼伽井(あかい)跡」を過ぎると、突き当りとなり、右折する。
さらに左折するが、ここが竹内街道と西高野街道の交差点。竹内街道は日本最古の官道であまりにも有名。一方、西高野街道は、堺から高野山への参詣道。江戸時代には、大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道として大いに賑わったらしい。
歩道橋を渡った先に山と見紛う緑の塊が。これが大仙陵古墳。昔は仁徳天皇稜って習ったんですが、なかなか特定できないようですね。
陵墓に沿って、南下。気持ちの良い散策路が続いているが、ラブホテルがすぐ陵墓の隣に建てられてしまっているのはちょっと…
陵墓の南端に出ると、右折し、御陵通りを西へ向かう。味気ない大通りを黙々と歩き続け、阪神高速を潜り抜けると、右前方に緑地帯が見えてくる。
南宋寺は、三好長慶が父・元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557)に大林宗套に開山を依頼して創建した。市街地のど真ん中にあるのに、土塀に囲まれ、多くの塔頭にも囲まれているので、境内は静寂そのもの。別世界だ。
写真は、重要文化財の甘露門(山門)。正保4年(1647年)に第十三世住職により造営された、禅宗様式と和様式が折衷した建物。
寺のすぐ南の山之口橋を渡り、ここで馴染みの石碑が現れ、熊野街道に戻ったことを知る。
阪神高速の高架に沿いながら、市街地の中を淡々と進むと、石津神社へ。
八重事代主神(戎神)が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。孝昭天皇7年(BC469年)8月10日、勅願により創建され、垂仁天皇(BC29−70年)の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。
八重事代主神降臨の地として、「日本最古の戎宮」を称している。戎神は一般的に耳が遠いとされており、石津神社では、本殿横に木槌で叩いて願い事を唱える板が設置されている。
さらに南へ。仕方がないが、この辺りは何の変哲もない市街地歩行ばかり。阪和線を目指してひたすら歩き続けると、森が近づいてきた。
和泉国の一宮、大鳥造の本殿は古代神社建築の一つ。
日本武尊が、死後白鳥となって最後に留まったのが大鳥の地で、周辺の人々が白鳥をお祭りするために建てたと言われている。
境内のすぐ南に阪和線が通っており、踏切を渡り、JR鳳駅の脇を抜け、鳳本通り商店街のアーケードに突入。いかにも大阪の下町と言ったコテコテの商店街を抜け、大通りと合流し、しばし進むと、「等乃伎神社へ」という看板が現れ、住宅地へ寄り道。
孝謙天皇天平勝宝4年5月(752年)、殿来(とのぎ)連が祖神の霊を枚岡神社より迎えて奉斎したという。この年、太政大臣藤原武智麿がこの地に住んだので「殿来」と称したという。
「よそでは手に入りにくい御守 ‐等乃伎神社‐」という看板が掲げられ、物凄い種類の御札が並べられていた。なかなか商魂たくましいお宮のようだ。
大通りに戻り、畳屋のところで左折、クリーンセンターへの幅広い搬入路をしばらく進み、適当なところで、右手の集落に分け入ると、いかにも旧街道と言った感じの細街路が現れ、久しぶりの街道っぽい街並み歩きを楽しめる。
堺泉北有料道路をくぐり、さらに南下すると、大きな鳥居が現れる。聖神社一之鳥居である。ここで少し東に寄り道し、聖神社へ。
聖神社へは、団地の建ち並ぶ斜面をけっこう登っていく。だいぶ歩いてきたので、バテ気味だ。やや汗ばみながらの到着。
聖神社は、和泉五社の一つで和泉国三宮。現在の社殿は豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したもの。満足して鳥居へ戻る。
一之鳥居のすぐ南の露地を東に分け入った所に篠田王子跡がある。久しぶりの王子跡である。
後鳥羽上皇の熊野詣に同行した藤原定家が記した「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月6日条によると、一行は、篠田王子で禊の後、信太明神に参拝したとある。
明治42年(1909年)、葛葉稲荷に合祀されたとのこと。
ゆっくり趣を味わいたかったが、最近不審者がこの辺りに何度も現れたとのことで、監視カメラや赤色警告灯が自動運転しており、めっちゃ気い悪い。早々に退散。
すぐ南の八坂神社に五叉路があるが、左斜めへ「明坂」と呼ばれる坂道をゆるやかに登っていく。団地を間を通り抜け、放光池公園が現れると、交差点の一角に平松王子跡の碑がポツンと建っていたが、趣全くなし。
同じく定家の「熊野道之間愚記」によると、この王子近くに設けられた行宮(平松御所)で上皇一行が宿泊されており、上皇は「平松はまた雲深くたちにけり、あけ行く鐘はなにはわたりか」の一首を残している。
さらに南へ進み、陸上自衛隊信太山駐屯地の前で、右斜め方向の旧道に入る。街道筋の面影を色濃く残す街並みをのんびりと抜けると、泉井上神社の境内にたどり着く。
泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)は、和泉の総社(大鳥・穴師・聖・積川・日根の五社合祀)が勧請されて国司以下宮人の崇敬を集める。この総社本殿は慶長10年(1605年)、豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されている。
本殿脇に井戸があり、仲哀天皇9年(200年)に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、この地を行啓した際に突如として泉が湧き出、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったという。この霊泉は「和泉清水」と呼ばれ、和泉国の国名の起源とされる。そして、この社を中心に和泉国の国府が置かれたらしい。
気が付けば和泉市に入っていた。だいぶ歩いてきたなあ。神社から駅前商店街を通り抜け、JR和泉府中駅へ到着。今日の歩みはここまで。
参考タイム
1/17 | 南海堺東駅 7:55 ⇒ 8:05 方違神社 8:05 ⇒ 8:30 大仙陵古墳 8:30 ⇒ 9:00 南宋寺 9:15 ⇒ 9:35 石津神社 9:40 ⇒ 10:10 大鳥大社 10:15 ⇒ 10:40 等乃伎神社 10:45 ⇒ 11:20 聖神社一之鳥居 11:20 ⇒ 11:30 聖神社 11:35⇒ 11:45 篠田王子跡 11:45 ⇒ 11:55 平松王子跡11:55 ⇒ 12:20 泉井上神社 12:20 ⇒ 12:25 JR和泉府中駅 |
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