−グルメ堪能の下関ぴろ散歩の1日目−
山行概要
2019年11月30日(土) | |
下関市街 | |
快晴 | |
C、私 | |
赤間神宮=0:05=亀山八幡宮=0:50=大歳神社=0:15=厳島神社=0:05=高杉晋作療養の地=0:05=高杉晋作終焉の地=0:15=JR下関駅【1:35】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
「ふく」を目指して、下関遠征を敢行! 早朝に京都駅を出発し、小倉までオーバーランし、引き返して、下関へ。下関駅に降り立つのは、何と28年振りである。
早起きした理由は、「おかもと鮮魚店」の始業である11時に間に合わせるためであった(笑)
魚屋と一体化した店舗で、魚屋を経由して店に入るようになっており、圧倒的な魚の品揃えを見せつけられてからの入店となるのだ(笑)
トラフグの湯引きでスタート。これで800円だった…
ベーコン、サエズリ、百ヒロ(小腸)、オバイケ(鯨の身と尾の間の部位肉)がセットになったクジラセット2500円!
続いて、カキグラタン800円!
そして、関サバ1500円! 安っ!(笑)
アニサキス症を防ぐため、マイナス100度のガスで冷却処理してるらしい…
我慢できず、板ウニをゲット! これで1500円(笑)
大満足で店を後にし、タクシーで赤間神宮へ。
赤間神宮と言えば、何と言っても水天門がシンボル的存在である。色鮮やかな朱色が青空に良く映える。「波の底にも都の候ぞ」と慰められて入水した幼い安徳天皇のために、竜宮城をイメージして造られた珍しい様式である。
昭和33年(1958年)の再建で、昨年に国登録有形文化財に指定された。
赤間神宮は、貞観元年(859年)に阿弥陀寺として創建され、文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀るため、建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、安徳帝の母である建礼門院(平清盛の娘)縁の尼を奉仕させた。以後、勅願寺として崇敬を受ける。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中から、この安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)、「擬陵」として公式に治定された。その後、明治8年(1875年)に、赤間宮へ、昭和15年(1940年)、官幣大社に昇格し赤間神宮に改称し、現在に至る。
社殿は戦災で焼失したが、昭和40年(1965年)に再建された。
赤間神宮から西へ、少し進むと唐戸市場で、市場は明日行くことにし、市場向かいの亀山八幡宮へ。
亀山八幡宮は、享保年間(1716−36年)の「防長社寺由来」によれば、貞観元年(859年)、行教が宇佐から石清水へ八幡神を勧請する途中、当時は島だった亀山に泊まった。その時、「この山は清浄な地であるので、しばらく祀ってから先へ進んでほしい」と神託があったため、亀山に行宮が設けられたという。
関門海峡を間近に望む境内。大鳥居は昭和8年(1933年)の再建。
亀山八幡宮は、関門海峡鎮護の神社として歴代領主の大内氏・毛利氏らの崇敬を受け、下関の総鎮守、長門国三宮とされた。
亀山八幡宮のすぐ西には、旧下関英国領事館が建つ。
旧下関英国領事館は、領事館用途で建設された日本における現存最古の建築物である。竣工は明治39年(1906年)で、国指定重要文化財である。
昭和16年(1941年)まで英国領事館として使用された後、昭和29年(1954年)に下関市の所有となり、以降、昭和43年(1968年)まで下関警察署唐戸派出所として、昭和61年(1986年)までは下関市考古館として使用された。
平成20年(2008年)からは、保存修理のため休館し、平成26年(2014年)7月の再オープン後は、記念館・市民ギャラリー等として利用されている。
旧下関英国領事館からJR下関駅方面に進み、大歳神社に参拝してから、韓国系のお店が多い、「グリーンモール」という商店街を抜け、JRの山陰本線を渡ると、厳島神社が建つ。
社伝によると、源平合戦の時代、平家の守護神として安芸国嚴島神社の御分霊を安徳天皇の御座船に祀っていたが、壇ノ浦の戦い後、磯辺に放棄されていたところ、後に里人に「吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と神託があり、磯辺に御鏡太刀様の物を発見、文治元年(1185年)、社殿が建立され、更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し、今日に至る。
高杉晋作が、慶応2年(1866年)の四境戦争に挑むに当たり、本神社において戦勝祈願を行ったといわれている。
小倉口の戦いでは、長州軍は奇兵隊・報国隊の2隊を先鋒として攻め入り、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走する中、攻め入った長州軍は余燼の中から、太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った嚴島神社に大御神へのお礼にと奉納したとされ、この太鼓は現在も当社に現存している。
厳島神社から北へ。山陰本線をトンネルでくぐると、すぐに高杉晋作療養の地の碑が立つ。
高杉晋作は四境戦争小倉口の戦線で、長州軍を指揮して幕府軍(小倉藩)と戦ったが、この戦いで持病の結核が悪化し、この地に小さな家を建てて、愛人「おうの」こと、野村望東尼(もとに)の看病による療養生活を送ったという。
療養の地から南へ引き返すと、妙蓮寺という寺の前に、今度は終焉の地の碑が立っている。
病をおして小倉口の戦いを指揮した高杉晋作が、慶応3年(1867年)4月、27歳8箇月の短くも激しい生涯を閉じた場所である。
辞世の「おもしろきこともなき世をおもしろく…」は、あまりに有名である。
この日の探索はこれにて終了。宿にチェックインし、温泉に入ったり、朝早かったので、昼寝して過ごす…。
19時になり、予約していた「三枡」さんに突撃! 頼んでおいた、ふく刺しからスタート! 下関では大阪のように「てっさ」とは言わないようです…
続いて、小えび唐揚げ! 香ばしい!
きのこバター焼き(前)に、あじせごし! せごし(骨ごとぶった切った刺身)の食感が絶妙!
大満足で下関1日目が終わった…
2日目の長府・小倉市街散策へ。
参考タイム
11/30 | 赤間神宮 13:25 ⇒ 13:30 亀山八幡宮 13:45 ⇒ 14:35 大歳神社 14:40 ⇒ 14:55 厳島神社 15:00 ⇒ 15:05 高杉晋助療養の地 15:05 ⇒ 15:10 高杉晋作終焉の地 15:10 ⇒ 15:25 JR下関駅 |
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