−昨年の善光寺街道歩きに続き、今度は西街道を狙う1日目、難関、猿ヶ馬場峠越えに挑む−
山行概要
2023年5月3日(水・祝) | |
善光寺西街道 | |
快晴 | |
単独 | |
JR篠ノ井駅=0:40=篠ノ井追分=1:10=稲荷山宿跡(本陣跡)=0:40=桑原宿跡(本陣跡)=1:30=猿ヶ馬場峠・聖湖=1:15=麻績宿跡(中橋本陣跡)=1:10=青柳宿跡(本陣跡)=1:00=JR西条駅【7:25】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
昨年の善光寺街道歩きに味を占めて、今年のGWは西街道を狙う。5月3日からの5連休は、当初、壊滅的な天気予報だったが、近づくにつれ良化していき、最初の3日間の好天が約束された。だいたい総延長70kmくらいで、3日行程が順当なので、天候具合ともぴったり一致した。
連休初めの方がより天気が良さげだったので、山間部を先に通過する、南下ルートを取ることにした。
前日は2時間休を取得、早退し、早めに寝て翌日に備える。
2時起床、2時半発で、一路信州へ。5連休初日だが、こんな時間に渋滞する訳もなく、120km/h巡行を続け、松本には5時過ぎのスピード到着。
今日のスタート地点のJR篠ノ井駅や、ゴール地点に予定する西条駅まで、さらに車で北上することも考えたが、GW中の松本市内のコインパーキング事情を考慮し、先に安価な駐車場確保を優先。R143と女鳥羽川の交差ポイントに近い、三井のリパーク松本中央3丁目駐車場に車を止めた。ここでこれから車中泊を3日連続で行うこととなる(笑)… この駐車場、JR松本駅まで約1kmほど離れてはいるが、24時間MAX500円で止められるのは、周辺ではここだけだと思われる。
荷造りを済まし、松本駅へ向かう。篠ノ井線の始発は6時18分発。時間があるので、駅前の「松屋」で朝食を取ることに。
最近、ネットで話題になっているが、「松屋」の食券自販機の使い勝手が悪いと評判(笑)で、自販機前に長蛇の列ができていてゲンナリ… 「松屋」さん、改善お願いしま〜す!
「松屋」さんの「ネギたっぷり旨辛ネギたま牛めし」でパワーチャージ! 5:33
何とか牛丼にありつき、松本駅へ。
駅の西口からは、常念と大天井岳がくっきりと… やっぱり5月の信州は最高です。早く歩きたくてウズウズする…
ようやく来た始発電車に乗り込み、アルプスの車窓や、姨捨駅でのスイッチバックや、善光寺平の眺望を楽しみながら、電車は一気に下り始め、篠ノ井駅に無事到着。
駅の東口から、真っすぐ東に延びる通りを早速歩き出し、善光寺街道に当たると右折し、昨年とは逆の方向で進んで行く。
しばらく南へ住宅街を進んで行くと、幣川(みことがわ)神社が右手に現れる。昨年も見ているはずだが、全く記憶が無い(笑)…
幣川神社の創建は、慶長年間(1596−1615年)で、水田開墾中に出土した八幡宮と刻まれた黄金御幣を祀ったのが始まりである。
正徳年間(1711−16年)に、黄金御幣は盗賊に略奪されたため、新たな幣を模造して神霊にしたと伝わっている。
幣川神社のすぐ先の五差路の北西側に、歯瘡医殿(しそういでん)が建つ。
歯槽膿漏に苦しんだ事から、同じ苦しみをする人がいなくなるようにと願をかけ、即身仏となった行者を祀った石祠がある。
寛政9年(1797年)に創建されたとのこと。
五差路からすぐ右手に宝昌寺が建つ。
本尊の甲冑薬師如来像は、謡曲紅葉狩の平惟茂(これもち)が、戸隠山の鬼女を退治した後、残党の復讐を恐れる里人の為に、自分に模した薬師如来像を与えたものと伝わる。
ここだけは本堂入口に施された、蟹の紋で覚えていた。松代藩の家老であった鎌原氏が本堂の再建に貢献したことから、鎌原氏の家紋である蟹が使われているらしい…
さらに南へ進み、見六橋を渡ってすぐに右折し、西に方向を変える。
北陸新幹線の高架をくぐり、しなの鉄道線も踏切で横断すると、すぐに石碑の立つ辻に到着。ここが善光寺街道と善光寺西街道の追分だ。
石碑は、篠ノ井追分宿碑で、篠ノ井追分宿は、矢代宿と丹波島宿の間の宿として整備され、矢代の渡しを控え、また善光寺西街道の追分もあったことから相当賑わったという。
左手から来る道が、信濃追分、小諸、上田からやって来る善光寺街道で、右手の道が、これから辿る善光寺西街道。
2つの街道が交わるポイントに石碑が立っている。ここから善光寺街道を辿れば、最終的には江戸に通じ、西街道を辿れば、伊勢や京に通じる。
篠ノ井駅からここまで40分ほどかかった。けっこうかかったな… いよいよこれからが未踏のルートである。追分から西へ進んで行く。
塩崎という名の集落を進む。郵便局を過ぎてすぐに塩崎の一里塚跡の標識が立っていた。洗馬から16里の所らしい。1里=3.9kmとして、62.4kmか… 長い…
さらに進むと、この地方では特に良く見る、火の見櫓が現れ、その横に鳥居が建っていた。姫宮神社である。
境内に二鶏二猿を陽刻した家形の庚申塔と、二十三夜塔が立っていた。
ちなみに、二十三夜塔とは、民間信仰の一つで、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、飲食や、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事を行い、その記念や供養の証として建てられたもので、月待塔とも呼ばれる。
街道は徐々に西南方向に進路を変え、長野自動車道の高架をくぐり、聖徳橋で聖川を渡ると、山崎集落に入る。街道右手に山崎公民館が建つが、その横のスペースに、火の見櫓とその足元に秋葉社が祀られていた。
街道は、完全に南向きとなり、さらに進む。街道右手に大きなお堂が見えたので、境内へ100mほど寄り道する。ここが康楽寺だ。境内の少し西にはJR稲荷山駅がある。
なかなか巨大な本堂が建っており、豪壮だ。
寺の看板資料によると、康楽寺を開基した西仏坊(別名、海野幸長・通広、浄寛・最乗坊信救・木曾大夫房覚明)は、清和天皇の後裔、海野小太郎信濃守幸親の子として、天養元年(1144年)、海野庄(現上田市大屋)に生まれ、南都に学び、興福寺の文章博士となる。名文家で知られ、「平家物語」の作者、信濃前司行長はこの人とする説が有力である。
また、青年期は才智に富んだ軍師として、木曾義仲の挙兵に従軍、知謀を発揮し、平家の軍を打ち破ったという。まさに文武両道ですな。
義仲の戦没後は、比叡山に登って天台宗に帰依し、ここで親鸞の知己を得、揃って法然の弟子となる。親鸞が越後流罪になった際も西仏坊は同行し、赦免後、親鸞が東国布教に向かった際も同行する。その途上、信州角間峠にて、法然上人の往生を知らせる使者に出会った一行は、近くの西仏坊の生地、海野庄に一庵を結び、報恩院と命名した。これが康楽寺の始まりで、時に建暦2年(1212年)のことであった。
その後、当山は周辺諸国の真宗布教の中枢として寺勢高まり、江戸期には門徒数3600余、寺中8ヶ寺を数えて「信濃門跡」と尊ばれた。海野庄から塩崎長谷の地、更に現地へと移転を重ねつつ、創建以来700有余年の法灯を連綿として受け継いでいる。
街道に戻り、少し先で、立派な門と土蔵を持つ旧家が左手に現れる。
清水家住宅で、清水家は旗本松平家知行地の大庄屋を代々務めた家である。
享保15年(1730年)、信州上田藩2代目藩主の松平忠愛(ただざね)は、弟の忠容(ただやす)に更級郡内の飛領地1万石のうち、塩崎村をはじめ4箇村、5千石を分知した。
これにより忠容は幕府の旗本寄合席となり、安永3年(1774年)、陣屋が設置され、明治まで継続した。
住宅のすぐ東側にある塩崎小学校が陣屋跡である。
清水家住宅からすぐ南、右手に天用寺があるので、立ち寄る。なかなか進まない(笑)…
天用寺は、かつては、長谷(篠ノ井塩崎)の地にあったが、火災焼失。天正2年(1574年)、当時の領主、赤沢修理大夫信重が現地に再建した。
その後、寛政10年(1798年)に、領主松平氏が位牌安置所と定める。弘化4年(1847年)の善光寺地震で倒壊したが、嘉永6年(1863年)に再建された。
平成18年(2006年)には、本尊の阿弥陀如来像内部から、胎内仏・銘文が発見されている。
天用寺からすぐ南の「上町南分岐」という交差点で街道は直角に右折し、すぐ2つ先の辻で左折、また南に進む。枡形のようだ。
ここで街道筋は住宅地を抜け、しばらく耕作地の中を進む。これから向かう先の光景が開ける。昨年登った、冠着山(左)と聖山が正面だ。
これから越える、標高約960mの猿ヶ馬場峠は、だいたい両山の中間に位置している。まだまだ遠く、高い…
再び宅地に入り、Y字路を右折、すぐに「稲荷山荒町」交差点があり、直進する。2つめのT字路を左折すると、一気にタイムスリップしたように、古い町並みが広がる。稲荷山宿に入ってきた。この辺り「千曲市稲荷山地区」として、平成26年(2014年)12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
この辺り、町並みの間から、冠着山がちょうど見渡せる。
稲荷山宿は、次第に商家町としての性格を持つようになり、大いに賑わい、善光寺西街道で最大の宿場町に発展した。
弘化4年(1847年)の善光寺地震とその火災により、町は大きな被害を受けたが、この件を教訓に建て替えられたのが今に残る防火・耐火に優れた土蔵の町である。
復興後、稲荷山の町は、明治から大正時代にかけて、生糸や繊維製品が集まる、北信濃随一の商都として繁栄した。
その後、鉄道敷設を拒否し、現在のJR稲荷山駅が離れた場所に設置されたこともあって衰退し、昭和恐慌により商業地としては完全に没落したが、それ故に現在も往時の面影が色濃く残っている。
街道右手にひと際目立つ屋敷が現れる。稲荷山宿蔵し館だ。
蔵し館は、幕末から明治期にかけて「商いに国境なし」という「稲荷山魂」を説き、生糸輸出の先駆者となった「カネヤマ松源製糸」の松林源之助・松林源九郎が築いた「松林邸」を修復・再生したもので、資料館やコミュニティホールとして活用されているが、現在は耐震工事のため、休館中だった…
蔵し館西に隣接して、長雲寺がある。
長雲寺は、寿永3年(1184年)、稲荷山宿の西に聳える篠山の中腹に開山された古刹で、その後、山火事で焼失し、天正17年(1589年)に現地に再建された。
正徳5年(1715年)、上田藩家老久松定賢により伽藍が再興され、同時に京都仁和寺の直末寺となった。本尊の五大明王と愛染明王(国重文)は、京都醍醐寺から拝領している。
江戸期には、稲荷山宿の豊かな経済力が格式ある寺を支え、祈願寺として多いに賑わったが、善光寺地震で焼失してしまい、本堂は明治20年(1887年)頃の再建。
当寺は、がん封じ祈願寺としても有名で、秋になると藤袴が咲き誇るらしい。
街道筋に戻り、すぐ南に立派な蔵を持つ商家が目に入る。
これが旧呉服商山丹が営業していた建物で、明治10年(1877年)頃の建造で、切妻平入瓦葺き建築の町内随一の立派な耐火耐震建物で、往時の姿を今に残し現在も居宅となっている。
蔵が一号から八号まで完全な形で残されているなど、長野県下屈指の呉服反物商として繁栄した往時を偲ばせる。
真下の水路は中町と荒町との境で稲荷山城の堀跡といわれている。
さらに南へ。稲荷山郵便局前の十字路は飯山に至る谷街道の起点で、谷街道は左折、善光寺西街道は右折だが、ここはいったん真っすぐに進む。
すると、すぐ先に、稲荷山宿本陣跡の立派な漆黒の冠木門が見えてくる。元の門は稲荷山城本丸の裏門を移築したものだったが、稲荷山宿の他の建築物の例に漏れず、善光寺地震による火災で焼失した。
稲荷山宿本陣は、松木家が代々勤め、問屋も兼ねていた。当本陣には、文化11年(1814年)、幕府御用測量方だった伊能忠敬が宿泊した記録が残っている。
本陣跡から、さらに直進し、最初の交差点を左折すると、稲荷山城址を示す碑が立っている。
稲荷山城は、天正10年(1582年)、荒砥城(JR戸倉駅の3kmほど南西の山裾にある城)の守将屋代氏が徳川方へ裏切るのを懸念した上杉景勝により築城された。この際に、稲荷山の町割も始ったとされる。
稲荷山城の縄張りをしている最中に、白い狐が現れ、近くの山に姿を消したことが地名の由来と伝わる。
元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。
稲荷山城址から西へ街道筋に合流し、再び街道を南下、「稲荷山」交差点を横断し、さらに南へ進むと、極楽寺が左手にある。
参道入口には、「蛇枕石(じゃまくらいし)」という平べったい岩があり、信濃の民話によると篠山の雨池で大蛇が昼寝の時に枕にしていた石だという。
極楽寺は、稲荷山城の鬼門除けの寺で、旧環境庁の「日本の巨樹・巨木林 甲信越・北陸版」に掲載された、樹齢300年以上とされるケヤキの巨木がある。
極楽寺鐘楼は二間四方の美しい姿を残しており、天正11年(1583年)建立の棟札が残されており、稲荷山最古の建造物である。
鐘は、昭和18年(1943年)、戦争で供出したが、昭和39年(1964年)に再調された。
街道に戻り、南下。「右西京街道 左八幡宮道」と刻まれた道標が立っている「治田町」交差点を右斜めの西京街道方向に進み、稲荷山の宿場町を離れる。
何で「西京街道」なのかと不思議だったが、後でネットで調べると、中山道の洗馬から分かれて善光寺へ向かう時は善光寺街道と呼ぶが、この道を逆方向の京・伊勢へ向かう時は西京街道と呼んだらしい。
しばらく南西に進むと、高架のR403に当たるので、集合住宅の前で左の脇道に入り、国道ガードをくぐって、佐野川沿いの県道390号線に合流し、しばらく道なりに進む。「是より桑原宿」の標柱があり、桑原宿に入ったことを知る。
街道右手に朱塗りの治田神社上宮一之鳥居が現れる。
治田神社は、天文年間(1532−55年)に諏訪大社を勧請し創建された。延喜式神名帳にも記載された古社で更級郡の総社だ。
街道筋から300mほど離れていたので、今回はパスした。
「佐野川温泉 竹林の湯」という日帰り入浴施設の入口からすぐ先の街道右手に、桑原宿本陣跡を示す表示板が立っていた。
桑原宿は、善光寺西街道で最大の難所とされる猿ヶ馬場峠の山麓にあり、古くから交通の要衝、軍事的拠点として重要視されていた地域で、物資の集積地として地域経済の中心となり発展していたものの、次第に隣接する稲荷山宿の勢いに押され、稲荷山宿が正式な宿場町、桑原宿は間宿という立場に逆転した。
ただ、稲荷山宿が上田藩領の為、松代藩は松代藩領の桑原宿を宿場町として扱い、宿場内には番所が設けられ、人物改めや荷物改めなどが厳しく行われた。
本陣は柳澤家が代々世襲し、松代藩主が京都へ登る際などは、桑原宿本陣で宿泊している。往時の本陣は330坪の敷地に主屋を中心に表門、土蔵、物置、裏門がある壮大な屋敷であったが、残念ながら、平成13年(2001年)に取り壊された。
江戸後期から、明治にかけて、桑原宿では養蚕が盛んになり、現在も街道沿いには、養蚕の飼育場、作業場に採光、通風を行う越屋根を載せた町屋が点在している。
街道が枡形となっている所に、天満宮が鎮座している。
かつて、この辺りは、桑原宿西の入口で、長福寺という寺があり、天満宮はその境内の一角に有ったが、長福寺は長谷寺に併合され、廃寺となり、天満宮も無くなった。
その後、住民の熱意で現在の場所に再建し、菅原道真公を祀り、今では合格祈願をはじめ、新年のお参り等、住民から篤く祀られている。
天満宮前で左折し、県道を離れ、旧道に入る。そしてすぐに右折して枡形を抜ける。この辺りにかつて番所があったらしい。
徐々にではあるが、高度を上げてきた。振り返ると善光寺平が見下ろせるようになってきた。
また県道に合流し、しばらく進むと左手に長野銘醸が見えてきた。
長野銘醸は、創業元禄2年(1689年)、銘酒「姨捨正宗」の老舗蔵元だ。蔵元の和田家は松代藩から名字帯刀を許された名家で、屋敷前庭の七曲の松は、嘉永2年(1849年)に刊行された「善光寺道名所図会」(著者:豊田庸園、図版:小田切春江)に描かれている名木である。
長野銘醸の先で、また県道を離れ、旧道へ。JR篠ノ井線を踏切で渡ると、左手に開眼寺がある。
一段上の本堂が立つ前に2本の巨木が立っている。スギ、サワラで、樹齢約350年で千曲市の保存樹木に指定されている。
開眼寺は、慶安4年(1651年)、長野銘醸当主の和田家の先祖、和田正廣の発願で、龍天宗登(松本藩主・水野忠職の弟とされる)を招いて開創した。本堂の北向大悲閣は、万治3年(1660年)に信濃和田氏の末裔が堂宇を立て、元禄4年(1691年)、2世祖英和尚が現地に移築、文化12年(1829年)に改修された。
本尊の聖観世音菩薩と脇侍の阿弥陀如来と地蔵菩薩はいずれも一木造りの全身金色像で、江戸時代に京の仏師が制作した。本尊は秘仏で「日不見の観音」と呼ばれ、毎年元旦と8月3日に開帳されている。
開眼寺の先にY字路があり、左へ。
ここが猿ケ番場峠北口で、この分岐には善光寺道案内標識「猿ケ番場峠 3.6km・のぞき 1.8km」が立っていた。
登って行くと、一本杉が立っており、ここにも道標「右山みち 左いせみち」が立っていた。
一本杉のすぐ先に「中原無人墓地」の標識が立っている。
文政11年(1828年)、岩見國の住人弥七が善光寺詣での途中、この地で行き倒れになり、開眼寺の住職と中原の人々が弥七の亡骸をここに手厚く葬ったとのこと。
右手からの舗装路に合流し、さらに登る。いよいよ完全に山中に入ってきた。新緑が鮮やかだ。
やがて、車の通行不可なコンクリ舗装の細道となり、さらに山奥に分け入って行く。
右手に木立越しに梨窪池を見ながら進んで行くと、池のすぐ先に廻國供養塔が立っていた。
寛政9年(1797年)の建立で、「天下泰平国土安全」と刻まれている。
まだ傾斜は緩やかだが登りが続く。
さらに進むと、「くつ打ち場」の標識があるポイントに来た。くつ打ち場碑も立っている。
ここから本格的な登りになるため、馬の草鞋を履き替えさせたらしい。
かつては岩上に文久2年(1862年)銘の馬頭観音が安置されていたが、持ち去られてしまったという。
くつ打ち場からは、ヘアピンカーブも現れるなど、傾斜が強まる。一人では心細くなるほどの山深さを感じる、と思っていたら、後ろからマウンテンバイクの10人ほどの集団がワイワイと登って来た(笑)… アシスト付きのタイプに乗ってる人もいて、スイスイ登って行く…
何とか登り続けると、平坦な広場に飛び出す。「のぞき」の解説板が立っており、かつて、この場所には大井の茶屋があり、遠眼鏡を据え付け、銭を取って旅人に善光寺本堂を覗かせたという。
今さらながらクマ注意の看板が気持ち悪い…
ここで舗装路を離れ、ショートカットの地道に入る。すぐに舗装路に合流するが、舗装路を横断し、向かいの地道へ。
登って行くと、火打石の一里塚が現れた。
かつては街道の両側にあったらしいが、東塚のみが現存し、西塚は林道敷設の際に取り払われましたとのこと。
洗馬より14里目。篠ノ井追分のすぐ先にあった塩崎の一里塚跡から、まだ2里(約7.8km)しか来ていない…
一里塚のすぐ先で舗装路に再合流、しばらく道なりに進む。
松崎茶屋跡を示す標識が現れる。
松代藩は、猿ケ番場峠が難所であることから、この地に扶持として1千坪の土地を与え、茶屋を設置させたとのこと。
明治になっても茶屋は続き、結局、大正10年(1921年)まで営業が続いた。石垣や、井戸跡が残っている。
ゆるやかに進んで行くと、左手に山道が分岐する。姨捨への近道を示す標識が立っていた。入口付近の踏み跡は明瞭で、今でも生きているルートのようだった。
分岐のすぐ先に、火打石茶屋跡を示す標識が右手に立っており、東屋も建つ小平地になっている。
最盛期にはこの地に茶屋が9軒もあり、中でも「名月屋寅蔵」は六文銭を掲げ、茶屋本陣を勤めたという。
また、「火打石茶屋」は、座敷内に火打石を取り込み、旅人は小石で叩き火花に打ち興じたというが、何が楽しいのやら(笑)…
左手に猿飛池を見ながら進んで行くと、右にカーブした先に馬塚跡碑がある。
昔、麻績村と八幡村との境界争いがあった際、水不足に悩んでいた麻績村は、一夜にして馬塚を築き、聖湖の領有を主張したという。
この馬塚は、林道敷設の際に取り壊された。
馬塚跡碑のすぐ先で、右手の山道に入る。以降、猿ヶ馬場峠の手前まで山道が続く。
しばらく急登に耐えると、念仏石が現れる。
案内板によると、「南無阿弥陀佛」の六字名号が刻まれていたが磨滅したとのこと。
夜になると、鉦の音と念仏を唱える読経が辺りから聞えたという。
だいぶ頭上が明るくなってきた。峠の頂上は近い。
峠手前の歩道は泥濘が酷く、木板の置かれている箇所も多い。今回運動靴なので、飛び歩きながら、泥濘を回避する。
舗装路に無事合流、目の前が開け、聖湖が望める。ようやく猿ヶ馬場峠に到着。青柳宿から、丸々1時間半もかかった… けっこう疲れました…
聖湖は、湧水でできた自然湖で、観光客向けの足漕ぎボートなどもあったが、観光客と言うよりは、釣り人の方が多かった。ヘラブナ釣りのメッカらしい。
GWでも観光客は疎らで、穴場ですね…
腹が減ってきた。湖畔に「聖レイクサイド館」さんがあったので、飛び込む。
やっぱりビールでしょう! 聖湖を眺めながらの至福のひととき… まだ、けっこう歩かないといけないんですが、我慢できる訳ありません。
やっぱり、松本に車を置いてきて大正解でした!
天ぷら蕎麦と、瓶ビール×2で、すっかり良い調子だ(笑)…
1時間もまったりしてしまった(笑)…
まだ15kmほど歩かねばならぬ…
聖湖からR403を南へ下っていく。
しばらく進むと、「史跡お仙の茶屋跡入口」を示す案内板が立っており、車道から地道の旧道が分岐しているので、そちらを下る。
幅広の良く踏まれた道が続く。
路傍には句碑が点在している。
のんびり下って行くと、お仙の茶屋跡に到着。茶屋跡には六字名号碑、馬頭観音像の他、一杯清水とも呼ばれる弘法清水があり、清水の傍らに芭蕉句碑「さざれ蟹足這いのぼる清水哉」も立っている。
昔、この茶屋にはお仙という美しい娘がいて評判で、このお仙にまつわる伝説が残っており、お仙はある時、峠で行き倒れになった若侍を助け、介抱しているうちにいつしか二人は恋仲になった。元気になった若侍は「必ず戻る」といい残して再び旅に出たが、木曽山中で山賊に殺され、亡霊となってお仙にその事を告げて去った。お仙はこの亡霊の後を追い、翌朝、峠道でお仙の遺体が見つかったという… 怖…
お仙の茶屋跡から少し下ると国道に出る。弘法清水バス停があるところだ。
車道を横断し、山道を下って行く。
途中、前方が開け、去年登った四阿屋山が見渡せた。
もう一度、国道と交差しながら、下って行くと、また国道に出るが、200mほど国道を進んで、左に分岐する旧道に入る。
少し下ると舗装路に出て、市野川という集落内を進むようになる。この辺り、分岐の都度、善光寺街道の道標が立っているので、迷うことは無い。
市野川神社の木造鳥居を右手に見ながら、集落内を進んで行き、集乳所バス停のすぐ先で、左手の細道に入り、国道に並行しながら細い舗装路を進んで行く。
筑北中学校の周りを反時計回りに進んでいると、学校向かいの畑にヤギがいました(笑)…
中学校から南に進むとT字路に突き当たり、右手に進む。
麻績番所跡標柱を右に見ながら、西に進み、「本町」交差点でR403を横断する。
旧宿場町らしい雰囲気の町並みが広がる。ようやく麻績宿に入ってきました。
造り酒屋だった旧大和屋さんの屋敷。今でも展示会や研修会場等に活用されているようだ。
麻績(おみ)宿は、古くは東山道時代から麻績駅として記録に残り、地名は麻績に由来し、古代に麻績(麻を細く裂いてより合わせた麻糸)を作ることを職掌とする麻績部氏が居住していたことからだと考えられている。
慶長年間(1596−1615年)に善光寺西街道が整備された際、臼井家を本陣とした正式な宿場町として成立し、以後は街道一の難所、猿ヶ馬場峠に至る直前の宿場として賑わう事になり、慶長18年(1613年)に僅か57軒だった家屋も、江戸末期の嘉永3年(1850年)には240軒にまで増えた。
宿駅制度が廃止されると、長野市と松本市を結ぶ幹線道路が犀川沿い(R19)に移り、麻績宿を含む山越えの道(R403)は急速に廃れた。
麻績宿には、それほど大きくない宿場にもかかわらず、本陣が2軒ある。安政7年(1860年)から、本陣をめぐる紛争が生じたようで、結局、双方譲らず、2軒とも本陣を称するようになった(笑)…
本陣を称した宿の一つが中橋本陣で、宿場案内図の少し先にある。
立派な屋敷で、見越しの松が凄い迫力だ。
中橋本陣は、代々臼井忠兵衛が勤め、一時松本藩麻績組の大庄屋を兼ねていた。
中橋本陣の少し先に、もう一つの本陣、瀬戸屋本陣跡がある。こちらも立派なお屋敷だ。
瀬戸屋の方は、代々臼井孫右衛門を世襲していた。
街道筋が南に方向を変える辺りが、麻績宿の南口で、ここで宿場町を離れる。
200mほど進むと、斜め左に下って行く細道に入る。一口坂と言うらしい。
分岐からすぐに、「ガッタリ」案内板と「ガッタリ」標柱が立っている。木曽義仲の愛馬が長旅の疲れから、ここでガッタリと膝を折ったといいます。
ガックリじゃなく、ガッタリなんですね(笑)…
ガッタリ標柱のすぐ向かいに、姨捨山冠着宮遥拝所碑も立っており、ここからは山頂に冠着宮が鎮座している、冠着(姥捨)山が一望だ。
古今和歌集に「我が心慰めかねつ更科や姥捨山に照る月を見て」と詠まれたように、月の名所で知られた。
口減らしの為、老婆を背負って冠着山への山道を登ると、道すがら小枝を折っている、問うと「お前が帰るときに迷わないように」と答えた。息子は母心に打たれ連れ戻ったという、あまりに有名な伝説が残っていることでも有名だ。
一口坂を下ると、麻績神社の参道口があったので、左手に少し寄り道し、参拝する。
ネットで調べたが、同じく麻績村にある麻績神明宮や、飯田市座光寺にある麻績神社の方が有名なようで、この神社の詳しい情報を得ることが出来なかった…
街道に戻り、さらに進んで行くと、路傍に平べったい岩が横たわっている。
駒ヶ石と言い、勝利を重ね、士気が極めてかった木曽義仲軍の軍馬が通り過ぎた後、路上の石には蹄の跡が残ったという。
この辺り、R403のすぐ北西隣を並走しているのだが、緑が濃い。山奥にいるようだ。新緑が心地良い。
一口坂を下り切ると、R403に合流。しばらく道なりに進む。
途中、200mほど、国道北側の旧道を歩く箇所があり、二十三夜塔と嫁の泣石がある。
嫁の泣石は、嫁入り行列がこの地に来ると嫁入りを嫌がる娘がこの石にしがみ付き泣き続け、ついに息絶えたという伝説があり、以降、嫁入り行列はここを通らず、農道を迂回したという。
いったん国道に合流するも、すぐに再び右手の旧道へ。この区間は100m弱で、すぐに国道に再合流し、しばらく道なりに進む。
500mほど進んだ所に道標(右ハさくは道 左ハいせ道)があり、左折し、旧道に入る。
突き当りを右折すると、JR篠ノ井線の第4西街道踏切があるので、線路を横断する。すぐに麻績大橋が現れ、麻績川を渡る。
耕作地の中を南へ進んで行く。徐々に登りとなり、大きく右にカーブしながら登って行くと、長野自動車道に突き当たり、ガードでくぐり抜ける。
ガードを通過すると、巨大な岩塊の間を抜けていく箇所が現れる。
これが小切通しで、天正8年(1580年)、当時の領主、青柳頼長により開削され、文化6年(1809年)の改修で一尺(約30cm)、切り下げられたとのこと。
続いて、小切通しより、やや大きい切通しが現れる。大切通しだ。
大切通しは、小切通しと同様、青柳頼長により天正8年(1580年)に開削され、その後、元禄11年(1698年)に、長さ十三間五尺(約25.2m)、横八尺五寸(約2.6m)、高一丈(約3m)、切り広げられ、さらに、享保元年(1716年)、明和6年(1769年、文化6年(1809年)と3回にわたって切り下げが行われた。
「善光寺道名所図会」にも「是れ依て旅人并(とも)に牛馬の往来聊(いささか)も煩はしき事なく野を越え山を越して麻績宿に至る」と記されており、大切通し、小切通しは共に善光寺街道随一の名所と謳われた。
大切通しから、左にカーブしながら下り、直角に右折すると、民家が並ぶようになる。
青柳宿に入ったようだ。左手に共同井戸であったかじまやの井戸を見ながら進み、突当りの角屋前を右折する。
すぐに立派な屋敷が左手に目に入る。
これが、青柳宿本陣跡で、この辺りの領主だった青柳氏の子孫青柳八郎右衛門が代々勤め、問屋も兼ねていた。
左後方の三角錐の山は、城山(905m)で、山頂に青柳氏の本拠、青柳城があり、大小8つの城郭と7条の空堀で構成され、難攻不落の要害と言われたが、慶長年間(1596−1615年)に廃城となった。
城門等が復元されているようなので、機会があればまた行ってみたい。
青柳宿は、戦国時代この地を支配していた青柳氏が、居館をこの地に移し、街道を直角に曲げて、その両側に青柳町を形成したのが始まりで、青柳氏没落後、松本城主の石川康長が街道を整備し、伝馬役を定め、この青柳宿を宿場に定めた。
家数は宝暦4年(1754年)には55軒、元禄11年(1698年)には85軒を数えた。旅籠は弘化3年(1846年)には11軒との記録が残っている。
青柳宿は、敷地が狭い上に、かなりの傾斜地に形成されていて、宿場町の東西ではかなりの高低差がある。麻績宿から青柳宿に入った場合、宿場内の通過は、ほぼ下りっぱなしである。
青柳宿は、標高が600m以上あるため、本日、街道からは全くお目にかかれなかったアルプスが初めて望めた。
左端が蓮華岳で、右端が爺ヶ岳と鹿島槍だ。
下り切ると、Y字路があり左に取って、青柳宿を離れる。右に行くと、すぐJR坂北駅だ。調子が悪ければ、ここで切ることも視野に入れていたが、本日まだまだ歩けそうだったので、予定通り、西条駅まで進む。
平坦になった街道を南へ進む。何とも長閑な光景だ。
第3西街道踏切でJR篠ノ井線の西側に渡り、さらに南下を続け、西条大橋で東条川を渡る。
右手に立派な屋敷が見えてきた。これが西条宿の茶屋本陣跡だ。
西条(にしじょう)は、青柳氏が支城の西条城を築城したことから始まる。江戸期になり、善光寺西街道が整備されると、西条村は間の宿となり、南に難所の中の峠、立峠を控え、賑わったという。
茶屋本陣跡の向かいには観音寺がある。
観音寺は、馬の守護神である馬頭観世音を本尊としている寺で、入口には仁王門、境内には馬と牛の像がある。
本堂内に奉納されている絵馬には、千頭の馬とその中に一頭の牛が描かれていて、この牛を見つけた人には幸せがあると伝えられている。但し、この牛の在りかを他言すると、ご利益が無くなるらしい…
昔から馬の寺として篤く信仰され、近年までは毎年百余頭が参加する草競馬が行われていたとのこと。
さらに南下し、R403に合流すると、200mほど先がJR西条駅の入口だ。
駅前にはほぼ何もない(笑)、西条駅に無事到着。足が壊れなくて良かった。
篠ノ井線の運行本数は大体1時間に1本程度だが、タイミング良く16時2分発の便に乗車できた。20分ほどで松本駅に到着。
面倒くさいが、いったん、駐車場に戻り、軽装になって、再び駅近くに繰り出す。
もう17時前なのに、松本市街は凄い人出だ。
3軒ほど断られ、ようやく「大漁」さんのカウンターに潜り込む。
何はともあれ、まずは生で! サイコー! よう歩きました。
おすすめメニューの大王岩魚刺身! 川魚とは思えないほど、脂が乗ってます!
アスパラ塩茹で! 甘い!
やはり山賊焼きは外せない!
17時前ですっかり出来上がるが、明日も長距離歩行が見込まれるので、深酒はせず、早々に切り上げて、いつもの銭湯「塩井の湯」さんで沈没!
お風呂は、インバウンドさんで大盛況! コロナが終わったことを実感しました…
フラフラと風呂上がりの体を冷ましながら歩いていたら、松本いや長野の味噌ラーメンの最高峰の呼ぶ声高い「麺匠 佐蔵」さんが3人位しか並んでいない。
これはチャンスと並び、待ち時間10分程で無事入店。事前にオーダーも取ってくれているので、席に座って3分程で着丼した。さすが人気店で客のサバきは完璧ですね。
オーダーしたのは、焦がし味噌ラーメン! マー油が効いてます。さすがのお味でした。
よろよろと車に戻り、バタンキューで爆睡した(笑) 明日も長いぞ…
参考タイム
5/3 | JR篠ノ井駅 7:15 ⇒ 7:55 篠ノ井追分 7:55 ⇒ 9:05 稲荷山宿跡(本陣跡) 9:05 ⇒ 9:45 桑原宿跡(本陣跡) 9:45 ⇒ 11:15 猿ヶ馬場峠・聖湖 12:15 ⇒ 13:30 麻績宿跡(中橋本陣跡) 13:30 ⇒ 14:40 青柳宿跡(本陣跡) 14:40 ⇒ 15:40 JR西条駅 |
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