−伊勢街道2日目。津の町並みを抜けていく−
山行概要
2020年11月22日(日) | |
伊勢街道 | |
晴れ | |
単独 | |
近鉄白子駅=0:30=子安観音寺=1:10=近鉄千里駅=0:30=光勝寺=0:20=痔神社=0:30=逆川神社=0:15=巡礼道分岐=0:15=江戸橋=0:25=四天王寺=0:15=津観音=0:30=市杵島姫神社・閻魔堂=0:40=近鉄南が丘駅【5:20】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
4時半頃に目が覚める。昨晩8時過ぎには寝ていたので,もう寝られない(笑)
コンビニで朝食を取ってから,昨日のゴール地点の近鉄白子駅に戻り、付近のコインパーキングに車を止める。
夜明け前に白子駅を発進。駅東出口から南東に伸びる道を進み、伊勢街道に合流、南西に進んでいく。
夜明け前の白子のまちなみがなかなかに幻想的だ。
釜屋川を渡った辺りで右折し、子安観音寺に寄り道していく。
子安観音寺は、聖武天皇の勅により、藤原不比等が建立したとされ、天平勝宝3年(751年)、道證上人が開山した。
寺伝によると、本尊の白衣観世音菩薩が、当寺の東側にある鼓ヶ浦の海中より、鼓に乗って現れたといわれ、安産、子孫長久を守り、子安観音として、人々の信仰を集めている。
仁王門は、三間一戸の楼門で、入母屋造り、本瓦葺で、金剛力士像を両脇に配する。元禄16年(1703年)の建立で、元禄期楼門形式の堂々たる構えで、三重県指定の有形文化財である。
街道に復帰し、南西に進むと、堀切川に突き当たるので、左岸を遡り、R23に合流。堀切橋で右岸に渡り、川沿いの土手道を進もうとしたが、工事で通行止め…
仕方がないので、しばらくR23を進み、「磯山四」の交差点を右折し、伊勢街道に復帰。
磯山の集落を抜け、R23を渡り、住宅地を進んでいくと、千里駅前に出た。再びR23を横断し、今度は上野の集落を進んでいく。
上野集落の南外れに光勝寺があるので、街道を離れ、少し寄り道。
光勝寺の創建は慶長6年(1601年)とあり、伊勢上野藩の初代藩主である分部光嘉が、嫡子光勝の菩提のために、創建した寺である。
街道に戻り、さらに南西に進む。再びR23を横断し、街道は国道の南側の河芸の集落を進んでいく。
「中瀬」の交差点でR23に再合流するが、いったん東に街道を離れ、痔神社へ寄り道。
痔神社は、古来「痔病に霊験あり」と言われ遠くからも参拝者が訪れる。
明治40年(1907年)頃は45cm位の小さな祠であったらしいが、大正末に一身田の女人が「痔疾が治癒したお礼に」と大きい祠を奉納した。その後、改築が繰り返され現在にいたっている。
この社の起源は不明で、由来についても様々な口伝があり、真実は不明。ご神体は海から渡ってきた白蛇であると言われている。
土地の神である「地神」から「痔神」へと呼び名が変わったとの説もある。
私は痔主ではありませんが、一応、祈っておきました。
痔神社から、しばらくR23を進み、「栗真」という地名の辺りの地下道でR23を横断し、国道の北側を進んでいく。
権現山観音堂に寄り道したりしながら、栗真集落を南に進んでいくと、近鉄名古屋線を渡ったところに逆川神社が建つ。
逆川神社は、第68代、後一条天皇の御代(寛弘5年(1008年)−長元9年(1036年))に創建されたとされ、境内は桜の名所らしい。
逆川神社の先でまたしてもR23を横断し、国道の南側を進んでいく。
しばらく進んでいくと、名残松と常夜燈が建つ三差路があり、ここで巡礼道が合流する。画像は三差路を振り返ったところ。右側が巡礼道で、左が歩んできた伊勢街道である。
巡礼道は千草で伊勢街道から分かれ、伊勢街道の東側を並行して進む旧街道で、下街道・浜街道とも呼ばれる古伊勢街道である。いつかこの街道も歩いてみたい。
少し先でR23に合流し、しばらく国道を進む。
志登茂川を江戸橋で渡る。橋の架橋年代は不明だが、江戸時代には架橋されており、津藩主・藤堂氏の参勤交代時に橋の傍まで見送りに来たことが橋の名の由来とされる。
現在の橋は昭和32年(1957年)に架け替えられた。橋脚はコンクリート製、上路部アスファルト舗装、欄干は木製である。
橋を渡り、ゆるやかに下り、津市の市街地に入る。
昔の舗装がそのまま残っている町中に入ると、古い町家が街道の両側に点在している。
その中でも、ひときわ豪華な商家が建っており、これが阿部家住宅で、典型的な商家建築である。江戸時代はお酒も造られていたようですが、いまは醤油の製造をされている。津市の有形文化財である。
津市中心部へ。三重県県庁の前を通過する。
県庁の隣に四天王寺が建つ。
四天王寺は、推古天皇の勅願により、聖徳太子が建立したと伝えられている。戦火で荒廃と復興を繰り返していたが、安濃津城主だった織田信包が再建し、織田信長、信包の母でもある土田御前の墓がある。その他、藤堂高虎夫人、富田知信(秀吉の側近で、安濃津城主)の子千代丸、斎藤拙堂(津藩士。古文に通じた人物として藩校有造館の創設に加わり、文政7年(1824年)、藩主藤堂高猷の侍講となった)など津にゆかりのある人物の墓がある。
さらに町中を抜け、津観音へ。
津観音の正式な寺号は恵日山観音寺大宝院(えにちざんかんのんじだいほういん)であり、宗派は真言宗醍醐派。本尊は聖観音菩薩。浅草観音、大須観音と並んで日本三大観音の一つとされる。
大門地区は、同寺の門前町から繁華街として発展した。三重県では専修寺に次いで2番目に参拝者数の多い寺院である。
本尊の他に崇敬を集めてきたのが「国府 阿弥陀如来」と呼ばれる三尊像である。秘仏であるが、毎月18日などに開帳される。江戸時代に江戸へ運んで出開帳を行ったことから広く知られるようになった。伊勢神宮の往復に立ち寄る参拝者が増え、「阿弥陀に詣らねば片参宮」と言われるようになった。寺でこの阿弥陀を天照大神の本地仏と位置付けていたように、神仏習合を伝統としている。
津観音からさらに南へ進む。大門地区はシャッター通りとなっており、寂れ具合が凄い。
岩田橋で岩田川を渡り、しばらくR23沿いに進み、「岩田」交差点のすぐ先で左折し、街道を歩む。
すると、市杵島姫神社と閻魔堂が目の前に。
市杵島姫神社は、建武・延元の頃(1334−1340年、北畠顕家公は市杵島姫命を常々崇敬していたことから、顕家公戦没の後、弟の顕能公は伊勢に移り初代伊勢国司となる際、多気の城内に市杵島姫命を鎮祭して北畠家代々の守り神とした。しかしながら、天正4年12月、大宮武蔵野守、井上丹後守の両名を使者とする北畠家からの依頼により、岩田清長院がご神体を預かることになった。そこで社殿を新築して安置した。
多気城主が崇敬した神ということで人々から格別の信仰が寄せられたといわれている。その後、藤堂藩による城下町づくりが進められる中、万治、寛文の頃(1660−1662年)に現在地に遷座された。
隣の閻魔堂(真教寺)は、閻魔王座像や円空作十一面観音立像などがあり、寛永9年(1632年)、八幡宮が建立された。
しばらく古い町並みが続く。伊勢鉄道の踏切を渡り、垂水集落に入る。成就寺の前で、伊勢街道は南に続くが、本日は西に曲がり、近鉄南が丘駅を目指す。
新興住宅街を抜けると、南が丘駅に到着。伊勢神宮まで残り2日行程まで来た。次はいつ行けるかな…
参考タイム
11/22 | 近鉄白子駅 5:45 ⇒ 6:15 子安観音寺 6:20 ⇒ 7:30 近鉄千里駅 7:30 ⇒ 8:00 光勝寺 8:00 ⇒ 8:20 痔神社 8:20 ⇒ 8:50 逆川神社 8:55 ⇒ 9:10 巡礼道分岐 9:10 ⇒ 9:25 江戸橋 9:25 ⇒ 9:50 四天王寺 9:50 ⇒ 10:05 津観音 10:10 ⇒ 10:40 市杵島姫神社・閻魔堂 10:45 ⇒ 11:25 近鉄南が丘駅 |
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