東高野街道その2(四條畷〜柏原)

−東高野街道を連闘。けっこうタルい河内の車道歩き−

   

山行概要

日 程
2018年3月4日(日)
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
JR四条畷駅=0:20=野崎観音=0:10=メノコ橋の欄干石=0:50=石切劔箭神社=0:20=枚岡神社一ノ鳥居=0:10=近鉄瓢箪山駅=0:05=瓢箪山稲荷神社=1:15=恩智神社石鳥居=0:25=鐸比古鐸比賣神社一の鳥居=0:15=近鉄安堂駅【3:50】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日(八幡〜四條畷)に続く、東高野街道歩きの2日目。枚方の実家を6時前に出て、出屋敷バス停6時5分発の始発に乗り込み、昨日の帰路と逆ルートで、JR長尾駅、四条畷駅へと向かう。
 早朝の四条畷駅を出発。しばらくはR170の味気ない歩み。北条交番の少し先で左の街道筋に入り、落ち着いた街道歩きとなる。排気ガスから解放され、早朝の空気が清々しい。
 大東市の野崎まいり公園のすぐ先の交差点が、野崎観音への参道となっており、左折すると、長大な石段が山上に伸びており、朝一からヒーヒー言いながら登る。

野崎観音 7:03

 野崎観音は、天平勝宝年間(749年−757年)にインドから来朝した婆羅門僧正が、行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられ、5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのものに対し、感謝の読経を捧げる行事」で、通称「野崎詣り」は余りに有名である。
 平安時代、遊女・江口の君(江口の長者)が、難病治癒の報恩を感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力したという。
 中世以後は戦乱により衰微し、特に永禄8年(1565年)には三好義興・松永久秀の戦禍(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼した。元和2年(1616年)に青厳によって再興され、天和2年(1682年)に「野崎詣り」が始まる。以降、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。

メノコ橋の欄干石 7:15

 東高野街道に戻り、さらに南下。大東消防署の東分署のフェンスの前に、無造作に橋の欄干が2つ横に置かれている。
 手前の欄干には「メノコ橋」、後ろの欄干には「明治三十七年八月築架」と刻まれており、横に立っている案内板には、「空海が修業中この橋の欄干を枕に休息したことで寝床(ネドコ)と呼ばれ、それが訛ってネノコ橋となり、いつの頃からかメノコ橋と呼ばれるようになったという」が、それがどうした?っていう感じ…(失礼)
 南下を継続。阪奈道路を渡ってすぐのところで、R170に吸収される。甲子園の強豪、大阪桐蔭中高が左手に見える。場所がここだとは迂闊にも初めて知った。またもや味気ない車道歩きが続く。この辺りR170は複線になっていて(西にもう1本ある)、なかなか珍しい状態だが、この東高野街道に沿った方は、道幅がギリギリ2車線といった感じで、歩道のない箇所も多く、歩行者はなかなかに怖い。「都市型酷道」とも呼ばれているらしい(笑)
 そしてこの辺りの地名は、「日下」と「孔舎衙」が使い分けされている。元々「孔舎衙」だったのを簡易な「日下」を充てたと思われる。「孔舎衙」の由来は、「神武天皇が東征の際に長髄彦(生駒山の豪族らしい)と戦った孔舎衛坂」から来ているようだが、いつしか「孔舎衛」(くさえ)が、いつしか「孔舎衙」に変わったようだが、ネットで調べても良く分からなかった。
 日下を抜け、石切中学のところで、やっとR170を離れ、左手の街道筋に入る。やがて石切劔箭神社の参道が左手から合流してくるので、左折し、参道を登ると、石切劔箭神社に到着。

石切劔箭神社 8:07

 石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)は、「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と入口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名で、この写真にもお百度参りの方々が大勢写っている。
 創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため不詳だが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年(紀元前659年)に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊(にぎはやひのみこと)を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。
 饒速日尊は、天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と同じ、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫であり、神々が住む高天原から降臨してきた。天照大神から「十種の瑞宝(かんだから)」を授かって、大和の国を治めるために降り立ったという。
 文献においては、日本三代実録(巻十一)に「貞観7年(865年)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とある、由緒ある神社である。

石切劔箭神社絵馬殿 8:20

 また、饒速日尊は「フツノミタマの剣」と、天孫であることを証明する「天羽々矢」を携えて降臨したとされており、絵馬殿の屋根上には「剣」と「矢」が天に向かって立っている。
 石切劔箭神社を離れ、第二阪奈道路を渡り、再び街道筋を南下。いきなり左手に大鳥居が現れる。これが枚岡神社一ノ鳥居である。

枚岡神社一ノ鳥居 8:40

 ここからが枚岡神社への参詣道となっている。東側正面には枚岡神社が当初祀られた聖地、神津嶽を遥拝することができる。
 鳥居に懸かる注連縄は、古くから地元鳥居町氏子の手により作られ、毎年1月3日に掛け替えが行われているとのこと。
 東高野街道の標識が立つところで、再びR170に合流するが、近鉄瓢箪山駅手前は商店街のアーケードになっていて、とても国道には見えない。
 駅まで線路を渡り、なおもアーケードを進むと、瓢箪山稲荷神社への道標があり、左折。

瓢箪山稲荷神社 8:55

 瓢箪山稲荷神社の境内の説明版には、日本三稲荷の一つであると記されているが、伏見稲荷は鉄板として、他にも祐徳稲荷や豊川稲荷などの有力候補が何社もあり、少し分が悪いような…(笑)
 創建は天正11年(1584年)、豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。現在の本殿は、慶応2年(1866年)の再建である。
 本殿の背後にある小山は、通称「瓢箪山古墳」と呼ばれ、古墳時代後期の6世紀末ごろに作られた双円墳で、この辺りの古墳群(山畑古墳群)の中で最大・最古のものらしい。そのヒョウタンに似た形状から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。
 また、当社は「辻占」との関係も深い。この辺りは江戸期から辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに当社の宮司が「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として宣伝し、日本全国に知られるようになった。

恩智神社石鳥居 10:15

 ここからはひたすら「酷道」R170を進む忍耐の時である。危ないし排気ガスも最悪…
 河内国二宮の恩智神社の通りが現れ、やっとここまで来たかと思うが、まだまだ先は長い。この先は、2年前に近鉄河内国分駅から高安駅まで歩いた際に、この辺りのR170を一部歩いたはずだが、あまりに単調なためか、記憶が全くない…
 引き続き、南へ。今日は20℃近く行きそうだ… 暑い。

鐸比古鐸比賣神社一の鳥居 10:40

 また鳥居が左手に現れる。今度は鐸比古鐸比賣神社(ぬでひこぬでひめじんじゃ)の一の鳥居である。この辺り街道より東側の生駒山地の丘陵側に名社が並んでいるからだ。この神社も2年前に歩いている。
 この辺り方々歩き回ったせいか、色んなところで、トレースが交差するようになってきた。
 ようやく大和川が近づいてきた。最後は堤防に向かってゆるやかに登り、堤防のすぐ横にある近鉄安堂駅に到着〜 暑さと単調さにけっこうやられました…

鶴橋の「よあけ食堂」さんで沈没@… 11:42

 いつものように電車で1本の鶴橋に出る。ラッキーにも「よあけ食堂」さんに侵入できた。
 白子ポン酢とイカとトーフ煮でスタート!

鶴橋の「よあけ食堂」さんで沈没A… 12:03

 イワシのきずし。初めて食べました。

鶴橋の「よあけ食堂」さんで沈没B… 12:35

 最後はイワシ汁でフィニッシュ! 大満足で鶴橋を後にしたのであった…

参考タイム

3/4 JR四条畷駅 6:407:00 野崎観音 7:057:15 メノコ橋の欄干石 7:158:05 石切劔箭神社 8:208:40 枚岡神社一ノ鳥居 8:408:50 近鉄瓢箪山駅 8:508:55 瓢箪山稲荷神社 9:0010:15 恩智神社石鳥居 10:1510:40 鐸比古鐸比賣神社一の鳥居 10:4010:55 近鉄安堂駅

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