西国街道その3(高槻〜箕面)

−西国街道歩きを連闘! 巨大古墳群から箕面へ−

   

山行概要

日 程
2018年4月9日(月)
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
阪急高槻市駅=0:20=上宮天満宮=0:10=芥川一里塚=0:30=今城塚古墳=0:25=太田茶臼山古墳=0:30=白井河原合戦跡地=0:20=郡山宿本陣=0:25=大阪モノレール豊川駅=0:30=勝尾寺大鳥居=0:30=萱野三平邸跡=0:15=牧落=0:05=牧落の高札場跡=0:10=阪急桜井駅【4:10】

記録文(写真はクリックで拡大)

 昨日の西国街道半日歩きが予想以上に面白かったので、特に予定のなかった翌日月曜日を休んでしまった…
 勢い余って6時過ぎには自宅を出発し、昨日に引き続き、阪急高槻市駅へ。
 すぐに街道を進まず、駅から北の上宮天満宮へいきなりの寄り道。高槻市の市街地中心に近いのに、そのことを感じさせない静寂で広大な境内が広がっている。

上宮天満宮 7:05

 上宮天満宮は、菅原道真を祀る天満宮としては、大宰府に次いで2番目につくられたという由緒ある神社である。
 縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993年)に大宰府に赴いた勅使が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることを知って、ここに道真を祀ったのが始まりという。
 JR高槻駅から続く参道はかつて松並木が続き、天神の馬場と呼ばれており、天正10年(1582年)の山崎合戦の際、秀吉が本陣を置いたらしい。戦勝に感謝した秀吉は、天正18年(1590年)、社地を寄進して社殿を修造したが、残念なことに平成8年(1996年)11月、放火により焼失してしまった…
 平成14年(2002年)12月、本殿は日本初の竹製の本殿として再建されたが、これは上宮天満宮が保持するおよそ2万平方メートルの孟宗竹林を整備し、活用したものである。

芥川一里塚 7:20

 天満宮から天神の馬場跡の参道を南に下がり、西国街道に合流し、西へ。次の交差点で一気に道幅が細くなり、一見して街道筋と分かる街路をさらに進むと、南に曲がった辺りで芥川一里塚が現れた。
 芥川一里塚は、かつて西国街道の宿場「芥川宿」の街道を挟んだ東西入口の両側にあったが、残っているのは東側だけである。、徳川幕府による宿場町として、参勤交代のための本陣や伝馬などのほか多くの旅籠が、ここから西側約400mにわたって設けられた。
 大阪府指定の史跡に指定されている。
 一里塚から西へ。宿場町があった痕跡は全く残っていない… 芥川橋を渡り、さらに西へ。両側の建物は全て更新されているが、はっきりとした街道筋だ。昨日歩いた区間もそうだったが、これだけはっきりと残っているとは思わなかった。
 一里塚から30分ほど歩くと、街道の少し北側に今城塚古墳があるので立ち寄ってみる。

今城塚古墳 7:50

 今城塚古墳は、墳丘の長さ190メートル、二重の濠を擁し、淀川流域では最大規模の墳墓である。
 古墳の被葬者は、規模や埴輪等の年代的特徴、古事記等の文献資料から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、中でも継体天皇とするのが学界の定説になっているが、宮内庁は認めておらず、この先にある太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。
 と言う訳で、1キロほど先に行った太田茶臼山古墳へ。

太田茶臼山古墳 8:15

 茨木市に入り、藍野大学が見えてくると、すぐ北に太田茶臼山古墳が現れる。
 墳丘長は226m、大阪府北部では最大規模で、全国でも第21位の規模を誇る巨大前方後円墳である。
 出土埴輪から古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定されており、宮内庁は第26代継体天皇の陵に治定しているが、築造年代は継体天皇の没年である継体天皇25年(531年)に合わず、所在地も史書の記述と食い違うことから、先ほど訪れた今城塚古墳とする説が有力視されている。
 街道に戻り、少し進むと、街道の南側に広大な空き地が現れ、再開発中のようだ。帰ってから調べてみると、ここは東芝の大阪工場跡で、追手門学院の他、マンション、商業施設などが整備されるらしい。

耳原の街並み 8:37

 名神の高架をくぐり、耳原の集落に入るが、この辺りは古い家並みが残っている。
 さらに進み、勝尾寺川に架かる幣久良(へくら)橋の手前に、白井河原合戦跡地の標識が立っている。
 白井河原合戦は、元亀2年(1571年)8月28日にこの辺り一帯で、室町幕府側の茨木重朝、和田惟政連合軍と、三好氏の支援を受けた荒木村重、中川清秀連合軍が激突した合戦である。
 和田惟政が討たれるなど、荒木、中川連合軍が勝利し、さらに茨木城、高槻城も攻め落としたが、最後は、織田信長の命により介入した明智光秀の調停で終息した。

郡山宿の本陣 9:05

 さらに進み、R171を渡って郡山宿跡の街並みに入ると、石畳風の舗装になったりと、さらに趣が出てくる。少し歩いて豪壮な本陣跡の建物が現れる。
 郡山宿は西国街道の3番目の宿場で、京都〜西宮間の街道にある5つの宿場のちょうど中間点にあるため、西国大名等の参勤交代等に郡山宿が利用され、この本陣を利用されていた。大政奉還直前の慶応2年(1867年)7月15日(旧暦)に皇太子時代の明治天皇が宿泊された記録が残っている。
 国の史跡に指定されているが、現在でも当主が在住する、現役の家屋である。
 御成門脇に咲く椿が有名であった事から別名「椿の本陣」とも呼ばれている。

勝尾寺大鳥居 10:00

 さらに西進。大阪モノレール豊川駅をくぐると、小野原という集落に入り、この辺りも古い街並みが残っている。
 そして、小野原集落を抜けると、勝尾寺大鳥居がR171と西国街道の間に建っている。
 今では石造りの大鳥居だが、最初に建てられた寛元3年(1245年)は、この辺りの材木を使って建てられたが、その後数回にわたって修理や再建が行われる中で、石の鳥居に変わったらしい。
 この大鳥居から勝尾寺の表参道が約4キロにわたって続いており、藤原定家の「明月記」に「有馬の湯に出かけた帰りに、この鳥居からはるか勝尾寺を拝んだ」と記されている。

萱野三平邸跡 10:30

 R171と南に並行する細街路をしばらく進むと、再び国道に合流し、萱野4の交差点のところで左折、古い街並みの中を進んでいくと、駒札の建つ建物が現れ、近づいてみると、萱野三平邸跡だった。
 萱野重実(通称:三平)は、赤穂浪士の一人で、この旧邸で誕生し、討ち入り後の元禄15年(1702年)1月14日、ここで自害したと伝わる。
 また、主君、浅野長矩が吉良義央に対して殿中刃傷に及んだ(赤穂事件)ことにより切腹となり、三平が第一報を赤穂へもたらす時、途中この実家の前を通り、母の葬儀に出会うが、涙ながらに掌を合わせて赤穂へ向かったという話も残っている。
 邸宅自体は明治期に取り壊されているが、長屋門と土塀の一部は保存されており、大阪府指定の史跡である。また、敷地内には萱野三平記念館「涓泉亭(けんせんてい)」が建てられ、西国街道の資料が展示されているようだが、本日は休館日だった…

牧落の高札場跡 12:50

 少し進んだ牧落の交差点周辺はロードサイドの飲食店が集積しており、なぜかガストに吸い込まれ、ここで昼からハイボール4杯とワインのデキャンタ500mlで昇天!
 意識混濁のまま、西へ。途中には高札場跡が… もとは牧落村の掲示板で、幕府、領主などのおふれを書いた木札を掲示したところ。また、この地は箕面街道と西国街道の交わる四ッ辻にあるため、方向の目安となる道標が今も2基現存しているが、この時は全く気付かないまま、先へ…
 最後まで意識朦朧のまま、阪急桜井駅へ。ここで強制終了(笑)
 帰りもどうやって京都に戻ったか、良く覚えていない… 何とも閉まらない西国街道歩きその3だった…

参考タイム

4/9 阪急高槻市駅 6:407:00 上宮天満宮 7:107:20 芥川一里塚 7:207:50 今城塚古墳 7:508:15 太田茶臼山古墳 8:158:45 白井河原合戦跡地 8:459:05 郡山宿本陣 9:059:30 大阪モノレール豊川駅 9:3010:00 勝尾寺大鳥居 10:0010:30 萱野三平邸跡 10:3010:45 牧落 12:4512:50 牧落の高札場跡 12:5013:00 阪急桜井駅

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