−紅葉にギリギリ間に合う。御破裂山、談山も登頂!−
山行概要
2022年12月3日(土) | |
多武峰 | |
快晴 | |
T、私 | |
談山神社第一駐車場=0:05=談山神社=0:20=御破裂山=0:05=談山=0:15=談山神社=0:05=談山神社第一駐車場【0:50】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
週明けの月曜日は、議会の常任委員会が予定されており、条例改正を20本以上提案している私は、普通なら土日とも家で答弁の勉強をしないといけない立場だが、こんな時でも出歩いてしまう。緊張感全くなし(笑)
連れを早朝に連行し、紅葉が多少でも残っていることを期待し、久し振りに談山神社へ。大和八木からタイムズカーシェアを利用し、9時過ぎに神社に到着。さすがにこの時間なので、第1駐車場に余裕で止められた。
境内へ。見どころが多数。
この東宝庫は、本殿に向って左右に位置する同形式の宝庫の一つ。校倉造りで元和5年(1619年)の造営で、国指定の重要文化財である。
本殿に参拝する。
現在の本殿は、嘉永3年(1850年)の造替。朱塗極彩色の豪華けんらんたる三間社隅木入春日造である。
本殿も国指定の重要文化財である。
談山神社のシンボルである木造十三重塔。
談山神社の名称の由来は、飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会で出会った中大兄皇子と中臣鎌足が、多武峰で蘇我家打倒の談合をしたことから、大化の改新以降、談峯・談い山・談所が森等と呼ばれるようになり、「大化改新設合の地」の伝承が残ったことによる。
天智天皇8年(669年)10月、鎌足の病が重いと知った天智天皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授け、藤原の姓を与えた。鎌足の没後、御墓は摂津国阿威山(高槻市)に造られたが、白鳳7年(678年)、唐より帰国した長男・定慧(じょうえ)和尚が鎌足の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称した。さらに、大宝元年(701年)に神殿を建て、鎌足の御神像を安置したのが談山神社の始まりである。
現存の十三重塔は享禄5年(1532年)の再建であり、現存する木造十三重塔としては世界唯一の貴重な建造物であり、国指定の重要文化財である。
権殿は、天禄元年(970年)、摂政右大臣藤原伊尹の立願によって創建され、実弟の如覚(藤原高光)が阿弥陀像を安置した元の常行堂で、現存のものは室町後期の再建で、これも国指定の重要文化財である。
当殿内では、室町時代より延年舞やお能が演じられ、「伝統と革新」の芸能を競い合ってきた。
せっかくなので、御破裂山と談山も回っていく。
御破裂山山頂には藤原鎌足の廟がある。御破裂山は、昌泰元年(898年)に初めて鳴動し、以降、国に大きな災いが起こる際にその前兆として鳴動するようになり、慶長12年(1607年)までに計35回も鳴動したという。
御破裂山と対になっている談山(かたらいやま)は、前述の通り、中大兄皇子と中臣鎌足が、多武峰で蘇我家打倒の談合をした場所だ。
境内に戻る。
総社拝殿は、寛文8年(1668年)の造営。談山神社拝殿を縮少し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風を持つ。
内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残っている。当殿も国指定の重要文化財である。
神廟拝所と十三重塔の定番ショット。
神廟拝所は、もとは妙楽寺の講堂で、塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色をもち、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている。現存の建物は総社拝殿と同様、寛文8年(1668年)の再建であり、国指定の重要文化財である。
談山神社を後に、大和八木に戻るが、途中、聖林寺に寄ってくことに。
聖林寺は小高い丘の上に建っており、桜井市街や三輪山が望める。
伝承では和銅5年(712年)に多武峰妙楽寺(現談山神社)の別院・遍照院として、妙楽寺を創建した藤原鎌足の長子・定慧が創建したという。
聖林寺と言えば、何と言っても国宝の木心乾漆十一面観音立像でしょう。久しぶりに拝観したが、収蔵庫が一新されていた。
この像は、明治時代に来日したフェノロサが激賞したことで知られるようになり、和辻哲郎も「古寺巡礼」でこの像を「天平彫刻の最高傑作」と褒め称えている。
私も大好きで、もう4、5回来てます(笑)
車を返却し、大和八木では必ず寄ってく「ウエダ」さんで昼呑み!
とん平!
ハタハタ丸干し!
厚揚げ焼きでフィニッシュ! 京都までどう帰ったか記憶が(笑)…
参考タイム
12/3 | 談山神社第一駐車場 9:15 ⇒ 9:20 談山神社 9:40 ⇒ 10:00 御破裂山 10:00 ⇒ 10:05 談山 10:05 ⇒ 10:25 談山神社 10:25 ⇒ 10:30 >談山神社第一駐車場 |
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