熊野古道紀伊路その1(天満橋〜堺)

−今更ながら、熊野古道を大阪からリスタート−

   

山行概要

日 程
2015年1月1日(祝)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
晴れ後曇り
メンバー
単独
コースタイム
京阪天満橋駅=0:25=朝日神明社跡=0:40=四天王寺=0:40=阿部王子神社=0:25=住吉大社=0:40=南海浅香山駅=0:20=方違神社=0:05=南海堺東駅【3:15】

記録文(写真はクリックで拡大)

 熊野古道は、いつかはハイライト区間の中辺路を歩いてみたいと常々思ってはいるが、人が多そうなので、ブームが去るのをじっと待っている状況(世界遺産にも登録されてしまったし、ほとぼりが醒めるのは永久に無理かも…⇒と思っていたら、僅か1年後には熊野本宮大社に達してしまった…)。
 故に、マイナーな紀伊路を歩いてやろうと、紀伊路の中でもまだ有名な方の、海南から紀伊宮原、そして、紀伊宮原から湯浅と、しこしこと歩いてきたが、どうせなら最初からやり直そうと思い立つ。
 真面目にやろうとしたら、京を出発点にすべきだが、当時は、京都から大阪までは淀川を舟で下ったそうなので、私もそれに倣い、歩くスタート地点は、天満橋からとした。
 天満橋から和歌山市近郊までは、基本的には平野を行くので、冬季向きであるし、どうせなら切りよく元旦からスタートすることにした。今年中にどこまで熊野本宮大社に近づけるだろうか…

 長い正月休みのせいで、昼夜逆転気味になってしまっており、かなり辛かったが、何とか7時には起床し、京阪で天満橋へ。当然のように爆睡で、危うく北浜まで運ばれるところだった。
 腹が減って仕方がなかったので、駅近の吉野家で牛丼をかっ喰らう。2015年の初飯が牛丼とはなぁ…
 気を取り直し、「熊野かいどう」の石碑を背にスタート!

「熊野かいどう」の石碑 9:18

 以降、要所要所にこの石碑が現れる。街なかのルートファインディングは山より難しいので、けっこう助かりました。
 さあ、真っ直ぐ南下と思いきや、いきなり少し西へ寄り道する。

坐摩神社行宮 9:25

 ビルの谷間にひっそりと建つ坐摩神社行宮。探すのに右往左往してしまった。
 神功皇后が三韓征伐から凱旋帰国で上陸した際、ここにあった鎮座石の上で休息したと伝えられているが、わざわざ寄り道したのは、熊野詣での際に、舟を降りて最初に参詣する第一王子と呼ばれる窪津王子社が、この行宮の場所にあったとされるからである。
 王子とは、熊野権現の御子神を祀る社のことで、やはり熊野古道完歩を志すからには、ここからスタートしないと… ちなみに窪津王子社は、四天王寺西門の近くに熊野神社として祀られていたが、大正4年(1915年)に堀越神社境内に移され、熊野第一王子之宮となっている(7年後に難波大道をやった際に参拝しました)。
 満足して本来の筋に戻る。

朝日神明社跡 9:45

 北大江公園の横をゆるやかに登りながら南下、中央大通を横断すると、すぐ右手に今度は南大江公園が登場。
 道を離れ、広々とした公園の中に入り込む。何故か。この公園の西奥に朝日神明社跡があり、先ほどと同様、ここも王子の一つ、坂口王子の伝承地とされているからである。

榎大明神 9:50

 すぐ南に榎大明神が登場。第二次世界大戦の大阪大空襲の際、猛火が迫ってきたが、この榎木大明神の前でぴたりと止まり、そこより東側一帯は焼失を免れたと言う。地元ではパワースポット扱いをされているようだ。
 社の脇にある大木はてっきり榎(エノキ)かと思いきや、後で調べてみると、槐(エンジュ)の木らしい。
 ここで、左折し、東へ向く。真っ直ぐ行けば、空堀商店街で、カレー好きの私は、スパイス使いに悶絶の「旧ヤム邸」さんに心が激しく動くが、元旦の今日は営業している訳もなく、先を急ぐ。
 谷町筋を横断し、一本東の筋を再び南下。空堀商店街の東端前を通過し、どんどん南へ。目の前には、新たな大阪のランドマーク、あべのハルカスが聳える。
 「まるはちの手焼あられ」を過ぎると、四天王寺は近い。

四天王寺西大門 10:25

 西大門から参拝料を払い、中心伽藍へ進入する。
 四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つで、「日本書紀」によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始された、蘇我馬子の法興寺(現:飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。
 平安時代以降、太子信仰のメッカとなるとともに、西大門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西大門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めたという。

聖霊院 10:34

 中心伽藍の東には、聖霊院と呼ばれる一画があり、太子殿とも言い、聖徳太子を祀る。
 中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、この一画は木造建築で、主要な建物は前殿(画像右)と奥殿(正面)である。
 前殿は昭和29年(1954年)の建立で、妻入の入母屋造で、聖徳太子孝養像(十六歳像、秘仏)を祀る。
 奥殿は昭和54年(1979年)の完成で、聖徳太子摂政像(松久朋琳・宗琳作、秘仏)を祀る。ぱっと見、法隆寺の夢殿に似ているが、夢殿は八角形だが、奥殿は円形である。

四天王寺五重塔と金堂 10:35

 青空に五重塔が映える。ハルカスとの対比もなかなか素晴らしい。
 嬉しがって、五重塔の最上部まで登ってしまった。
 四天王寺は、たびたび災害に見舞われ、現存の中心伽藍は、昭和20年(1945年)3月13、14日に行われた第1回大阪大空襲と、昭和25年(1950年)9月3日のジェーン台風で、壊滅的打撃を受けた後、昭和32年(1957年)から再建にかかり、昭和38年(1963年)に完成したもので、鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現している。

 金堂は、入母屋造で屋根は上下二重となっている。中門、講堂と同様、錣葺(しころぶき:大棟から軒まで一枚の面ではなく、一段の区切りをつけて、すぐその下から軒までを葺く形式)とし、鴟尾(しび:瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種)を乗せる。
 外観は法隆寺金堂に似るが、裳階(もこし:仏堂、塔、天守等で、軒下壁面に付いた庇状構造物)を付さない点が異なっている。内部には中央に本尊の救世観音菩薩像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。

中門 10:45

 南の中門から中心伽藍を出る。中門は、門の正面左右に松久朋琳・宗琳作の金剛力士(仁王)像を安置することから「仁王門」とも呼ばれる。入母屋造単層で、金堂と同様、錣葺で、棟上に鴟尾を乗せている。
 中門の背後の真北には五重塔が建つ。四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍の前身である。

あべのハルカス 10:57

 南大門から、古道歩きを再開。すぐに雑踏の天王寺駅前。ハルカスの横を通過する。展望台へは物凄い混雑のようだ。
 しばらくアーケードのある、あべの筋を南へ。松虫通で筋を離れ、細街路に入って、少し南下すると安倍晴明の生誕地とされる地に建つ安倍晴明神社が現れ、そして、そのすぐ南が、阿部王子神社。

阿部王子神社 11:27

 大阪府内の九十九王子で唯一、旧地に現存している王子である。
 後鳥羽天皇が熊野御幸を行った平安時代には、窪津王子(大阪市中央区)、坂口王子(同)、郡戸王子(同)に次ぐ4番目の王子とされていた。
 決して広くない境内は、初詣客で大混雑していた。

阪堺電軌上町線 11:37

 阿部王子神社の少し先で、阪堺電車の走る広い道路に合流し、住吉大社手前までしばらく電車と並走。
 大阪の下町を走る路面電車の姿は、マニアにはたまらないらしく、わずかな間でも、「撮り鉄」が10人弱ほど確認できた。
 南海高野線と阪堺線が交差する辺りから、「住吉大社例祭のため、車両通り抜け禁止」の看板が現れ、大社が近いことを知る。

大賑わいの住吉大社 12:02

 住吉大社の裏門から境内へ。覚悟はしていたが、物凄い人出だ。掻い潜るように何とか参拝を済ませ、這う這うの体で境内の外へ。
 街道歩きを再開。津守王子跡とされる墨江小学校を過ぎ、適当に左折し、止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)へ寄り道する。

後鳥羽天皇行宮跡 12:20

 ここは、承久3年(1221年)に後鳥羽天皇が行宮を立てたとされる場所。
 石碑だけが境内奥の南海高野線脇にぽつんと立っていた。

大和川を渡る 12:35

 細街路を南下すると、大和川に突き当たる。川を渡るには300mほど西に行ったあべの筋の遠里小野橋を渡るしかない。
 橋の上は、物凄い烈風が吹きすさんでいた。立っているのもやっとの状態だったが、何とか川を渡り、東へ折り返し、堤防を下ると、南海高野線の浅香山駅である。

境王子跡 13:05

 駅前で線路を渡り、さらに南下すると、大阪少年鑑別所が現れ、ここを右折すると、すぐに境王子跡が現れる。
 この辺りは、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所なので、境王子の名になったらしい。そもそも「堺」の地名もそこから来ているとのこと。迂闊にも知りませんでした。
 朝方はすっきりと晴れていたが、しだいに曇り空となり、そして、今にも雪が降るような感じとなってきた。こんな日に初歩きとは物好きもいいところだが、結構楽しめているのだから、度し難いところである。
 先を急ぐ。境王子から南下し、次の大通りに突き当たると、そこが方違神社前である。

方違神社 13:12

 方違神社(ほうちがいじんじゃ)も、摂津、河内、和泉の境で、いずれにも属さない地に建っていることから、方位のない地であるとして、古くから方位や家相などの方災除けの神社として、信仰が篤かったと言う。
 堺東駅にも近い立地のせいもあるのか、この日も初詣客で大賑わいだった。
 さすがに疲れてきたし、寒くて仕方がなかったので、西へ5分ほどの堺東駅で、今日の歩みは終了。駅前の居酒屋で一人寂しい初飲みをしてから、帰洛した。
 帰りの京阪特急は爆睡で、三条駅から地上に上がると、一面白銀の世界と化しており、びっくり。おかげで家まで自転車を押して帰りました。

 その2(堺〜和泉府中)へ。

参考タイム

1/1京阪天満橋駅 9:209:25 坐摩神社行宮 9:259:45 朝日神明社跡 9:459:50 榎大明神 9:5010:25 四天王寺 10:4511:25 阿部王子神社 11:3011:55 住吉大社 12:0512:20 止止呂支比売命神社 12:2512:50 南海浅香山駅 12:5013:05 境王子跡 13:0513:10 方違神社 13:1513:20 南海堺東駅

山行データへ

諸国名山探訪

Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved

inserted by FC2 system