−GW10連休の初日は地味(笑)に大阪市内の散策からスタート!−
山行概要
2019年4月27日(土) | |
大阪市街 | |
晴れ | |
単独 | |
京阪天満橋駅=0:20=法円坂遺跡=0:25=三光神社=0:05=善福寺=0:25=高津宮=0:20=生國魂神社=0:10=萬福寺=0:20=愛染堂(勝鬘院)=0:10=安居神社=0:15=一心寺=0:05=茶臼山古墳=0:15=JR天王寺駅【2:50】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
せっかくの10連休だが、明日28日に仕事が入っており、やむなく日帰り行程での出撃…
ほとんど呑み目的で、大阪市内に繰り出す。最終目的地を天王寺とだけ決めて、京阪天満橋駅で下車。
大阪城の横を通過し、南下する。
法円坂の交差点の北東角に、法円坂遺跡があり、復元された高床式倉庫のバックに近代的な大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の合築施設が聳えるシュールな光景が展開している(笑)
法円坂遺跡は、古墳時代中期の5世紀前半頃に営造された、古墳時代最大規模の倉庫群跡で、この辺りでは約200棟の遺構が検出されている。
法円坂遺跡の北方では王権の手による難波堀江(人工運河)開削と難波津(王権の港)設置が知られており、本遺跡もそれらで運ばれてきた物資を保管するために建てられたものだと考えられている。
難波宮遺跡の北側を東に進み、ファミマのある交差点を右折し南下すると、道端に越中井という史跡がある。
越中井とは、細川忠興の正室、細川ガラシャ(玉子)の最期の場所である。
この地は、秀吉の大坂城の三の丸に当たり、この地に細川屋敷が建設されていた。ガラシャは、明智光秀の娘であったため、本能寺の変後、屋敷にほぼ幽閉状態とされていた。
そして、秀吉の死後、徳川家康の会津征伐に従い、忠興が出征したところ、豊臣家の再興をもくろむ石田三成が決起し、三成は忠興を味方につける為、ガラシャを人質にしようと細川屋敷を取り囲んだが、彼女はこれを拒絶し、自らの命を絶ち、屋敷に火を放ったのである。
これに驚いた三成は他の大名の家族に手を出すのを控ざるを得なくなり、結果、多くの武将が家康側に付くこととなった。
細川屋敷の焼け跡には、台所の井戸だけが焼け残こり、忠興が越中守だったことから「越中井」と呼ばれた。
井戸は大正時代に一旦埋め立てられたが、地元の住民により昭和34年(1959年)に復元され、現在も地元住民により管理されている。
越中井を後に大阪女学院の横を南下、長堀通を横断し、南東方向に進むと、宰相山公園があり、その一角に三光神社が建つ。
三光神社は、反正天皇の御代(406−411年)の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える(ホンマかいな…)。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていたが、境内に中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(仙台市宮城野区)の三光宮(現青麻神社)を勧請し、こちらの方が有名となり、明治41年(1908年)、姫山神社に三光宮を合祀し、社名を「三光神社」と改めた。
三光神社の建つ宰相山は、真田山とも言われ、かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれた場所である。
大坂の陣の際、幸村が大坂城までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に跡が残っており、幸村の銅像がその横に立っている。
宰相山公園から西へ戻り、善福寺へ。
かつてこの地には鏡如庵(きょうにあん)大師堂(通称:どんどろ大師)という寺があったが、明治時代に廃寺になった。
鏡如庵大師堂のあった付近は、真田幸村が真田丸を築き、激戦となったところで、宝暦2年(1752年)に高野山の法資法道が、戦死者の霊を弔うために太子堂が創建されたと言う。
鏡如庵の廃寺後は、明治42年(1909年)1月に大阪府豊能郡豊能町(旧豊能郡東能勢村)にあった善福寺がこの地に移転し、現在に至っている。
「どんどろ大師」の語源については、江戸期の大坂城代だった古河藩主の土井利位(どいとしつら)の屋敷が鏡如庵の近くにあり、利位が鏡如庵に祀られている弘法大師に深く帰依し、参拝していたために「土井殿の大師」(どいどののだいし)の名が起こり、どんどろ大師に転訛したと言うが、正確な語源は分っていない。
太子堂から大阪明星学園に沿って登って行くと左側に心眼寺がある。この坂の名前も心眼寺坂。
心眼寺は、大坂夏の陣から7年後の元和8年(1622年)、真田家の祖先滋野氏の一族だと言われている、白牟(はくむ)和尚が真田幸村・大助父子の冥福を祈るため、真田丸の一角であるこの地に建立した。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称している。門には六文銭が付いています。
他にも、坂本龍馬を暗殺したとされる京都見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎の墓もなぜかここにある。
心眼寺坂を右折し、西へ進む。谷町筋を横断し、さらに西へ進んでから左折すると、小さな丘を登って高津宮。
高津宮は、難波高津宮に遷都した第16代天皇である仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。
貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。
天正11年(1583年)、秀吉の大坂城築城に伴い、現地に遷座した。
昭和20年(1945年)の3月13、14日の第1回大阪大空襲により神輿庫を残して社殿が全て焼失し、昭和36年(1961年)10月に再建された。
高津宮は、古典落語「高津の富」や「高倉狐」の舞台として知られるなど、古くから大坂町人の文化の中心として賑わっていた。境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられており、今でも落語の寄席や文楽などが行われている。これには五代目桂文枝一門が深く関わり、文枝最後の口演「高津の富」が演じられたのも、ここ「高津の富亭」である。
高津宮から南へ進む。千日前通を横断するため、谷町9丁目の交差点までいったん東へ進み、南へ横断後、西に戻る。
天王寺七坂の一つ、真言坂の入口があり、碑が立っており、南へ登って行く。
真言坂は、天王寺七坂の中で一番北に位置し、かつ唯一南北に通る。北側の上り口は千日前通の南(阪神高速高津入口付近)に通じ、上り口に真言坂の顕彰碑があり、正式名称は真言坂。南向きに坂を上ると生國魂神社の北の鳥居・石段の前へ至る。
坂の名の由来は、このあたりに生國魂神社の神宮寺だった法案寺をはじめとした真言宗の仏教寺院が十坊(「生玉十坊」と呼ばれた)あったことに由来する。これらの寺院は明治初頭の神仏分離により撤去され、現在はマンションやラブホテルが建ち並んでいる…
真言坂を登り切ると、生國魂神社だが、ここには昨年も来ているので素通りし、境内を横切ってから、南へ生玉公園の中を進み、最初の角を右折すると、2つ目の源聖寺坂の上に出る。
名称は坂の下にある寺院名に由来する。石畳の割と急な坂を一気に下ると、松屋町筋に出るので、左折し、人形屋が目に付く通りを南へ。
すぐに萬福寺が東側にあり、一般拝観は受け付けていないようだが、寺門の前に「新選組 大坂屯所跡」の碑が立っている。
萬福寺は、文禄3年(1594年)、前田利家の弟の前田利信と、僧の開導によって開創された。
幕末には新選組の大坂駐屯地も置かれ、大坂相撲力士との乱闘や町奉行与力内山彦次郎暗殺などの事件はその間に起こった。
元治元年(1864年)5月20日、内山は何者かによって暗殺された。犯人は新選組説が有力で、その前年、新選組が大坂出張をした際に、小野川部屋の力士らと乱闘騒ぎを起こした「大阪角力事件」で、内山の吟味が高圧的で近藤勇との間に確執が起きたための遺恨であるとの説があるが、定かではない。
南へ進み、夕陽丘学園に向かう道を左に分ける「学園坂」交差点を通り過ぎ、次の辻を左折し、細い路地を進むと、3つ目の口縄坂となる。
夕陽丘に向かって一気に登るので、傾斜が強く、一部は階段になっている。
「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることからそう呼ばれるようになったとされている。
織田作之助の文学碑が立っており、著書「木の都」の一節が刻まれている。織田作之助が七坂の内で、一番愛した坂らしい。ホンマかいな(笑)
再び夕陽丘に上がり、谷町筋の一つ西側の路地を南に進み、大坂星光学園に突き当たったところで右折すると、愛染坂があり、その降り口の北側に、愛染堂(勝鬘院)がある。
愛染堂の歴史は、推古天皇元年(593年)、聖徳太子により建立された、施薬院に始まる。
施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと建立され、社会福祉事業発祥の地とも言える。
その後、聖徳太子が勝鬘経をここ施薬院で講義したことや、勝鬘夫人の仏像が本堂に祀られたことから、やがて勝鬘院と呼ばれるようになった。
平安時代以降は、金堂に愛染明王が本尊として奉安され、愛染明王信仰の普及とともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されるようになった。
徳川秀忠再建の金堂は、府の指定文化財であり、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に再建した多宝塔は、大阪市内最古の建造物で、国の重要文化財であるが、残念ながら修理中でカバーに覆われていた…
また、毎年6月30日から7月2日にかけて行われる「愛染祭」は、天神祭、住吉祭と並んで、大阪の三大夏祭りの一つとして知られ、例年、約20万人の参拝客で賑わう。
七坂の4つ目は、愛染堂前から西に下る愛染坂。その名の通り、愛染堂から命名された。敷石が敷かれた急勾配の坂は、ギザギザの波型模様が施されている。
昔はこの付近からの夕日の眺めが美しく、坂北側の大江神社に置かれた「夕陽岡」の碑が、その素晴らしさを物語っている。
愛染坂を下り、星光学園を回り込むように南へ進むと、今度は七坂の5つ目の清水坂の登り口が現れる。
この坂も坂の上にある有栖山清水寺という寺から名前が付いた。
しかもこの清水寺も「清水の舞台」がちゃんとあり、展望が素晴らしい。本家の京都の清水寺から観音様を迎え入れた経緯もあるそうで、単なるパクリではなさそうだ(笑)…
清水寺の南端に出て、西に進むと、七坂の6つ目の天神坂がある。
天神坂のとなりにある安居神社には菅原道真公が祀られていることから、この名前がついたとのこと。
坂を下り、南隣の安居神社へ。
安居神社は、少彦名神(すくなひこなのかみ)、菅原道真を祀る古社。
社伝では、昌泰4年(901年)、道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母の覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)したところ、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらったという。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。
安居神社は、道真の死後の天慶5年(942年)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたものです。
また、安居神社は、大阪夏の陣で真田幸村(真田信繁)が討死した場所とされており、「真田幸村戦死跡史碑」が境内に立っている。
慶長20年(1615年)5月7日、子の大助を大坂城へ返し、茶臼山から出撃した幸村は、近鉄の北田辺駅付近に布陣していた家康の本陣目指して突撃したが、健闘むなしく撤退し、疲労困憊で安居神社で休憩しているところを、越前松平家の兵に発見され、討ち取られたとされている。
安居神社のすぐ南にR25が通っており、交通量が多い。
画像は、松屋町筋とR25の交差点である「公園北口」交差点にある歩道橋上からの通天閣。
同じく歩道橋上から東方向を望む。
天王寺七坂の最期の逢坂は「公園北口」交差点からのR25そのものであり、往時の面影は全くない(笑)
逢坂は天王寺七坂の最南端に位置し、名称は「逢坂関」に由来するとも、聖徳太子と物部守屋が法について討論した合法四会に由来するとも言われ、「合坂」や「相坂」とも表記された。
近代以前は馬車馬が音をあげるほど急な坂だったと伝えられ、道も狭く、事故多発地点だった。明治9年(1876年)に茶臼山観音寺の住職(静明)が寄付を集めて坂を切り崩して緩やかにする工事を行った。
また、明治42年(1909年)の大阪市電西道頓堀天王寺線の敷設に伴い、道路が拡幅されてほぼ現在の姿になった。
逢坂を登ると南側に一心寺が建つ。
一心寺は、文治元年(1185年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結んだのが始まり。
その後、文化文政時代には衰微していたが、50世真阿上人が天保年間の中頃に復興したが、大阪大空襲でほとんど焼失した。
戦後、伽藍の再建が進み、特に建築家でもある現長老(高口恭行氏)が平成9年(1997年)に完成させた鉄とコンクリートの斬新な山門と、彫刻家・神戸峰男氏による仁王像(阿形像・吽形像)が並び建つ様は圧倒的である。
一心寺を後に南の天王寺公園へ。すぐにこんもりとした高みがあり、これが茶臼山古墳である。
古来から茶臼山は古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる石棺蓋が四天王寺に伝わっているが、現在でも古墳とする決定打は見つかっておらず、大阪市内でも最大級の前方後円墳だが被葬者は不明である。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌年の夏の陣では真田幸村(信繁)の本陣となり、幸村最期の「茶臼山の戦い」の舞台となった。
明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていたが、大正14年(1925年)に住友家から大阪市に寄付され天王寺公園の一部となった。
頂上部には標高26m(笑)を示す標識が… 私の登頂リストに加えることとします。
公園内を南北に横断し、天王寺駅を目指す。
大阪市美では、おりしも「フェルメール展」が開催中。大人気で入場制限がされていた…
天王寺駅で歩行終了! アベチカに行き、10時から開いてる半田屋さんで禁断の朝呑み!(笑)
そして、いつものルーティン(笑)
ルシアスに移動し、「明石焼き たこ八」さんへ…
昼前ですっかりグダグダになり、気が付けば京橋までワープしており、「グランシャトー」のお風呂に沈んでいた(笑)…
何とも不穏な10連休のスタートとなった…
参考タイム
4/27 | 京阪天満橋駅 7:05 ⇒ 7:25 法円坂遺跡 7:25 ⇒ 7:50 三光神社 8:00 ⇒ 8:05 善福寺 8:05 ⇒ 8:35 高津宮 8:40 ⇒ 9:00 生國魂神社 9:00 ⇒ 9:10 萬福寺 9:10 ⇒ 9:30 愛染堂(勝鬘院) 9:30 ⇒ 9:40 安居神社 9:45 ⇒ 10:00 一心寺 10:00 ⇒ 10:05 茶臼山 10:05 ⇒ 10:20 JR天王寺駅 |
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