−キャラ設定がおかしい(笑)が、湘南地域を横断…−
山行概要
2019年1月15日(火) | |
東海道 | |
快晴 | |
単独 | |
JR戸塚駅=0:45=戸塚浅間神社=1:00=遊行寺=0:05=藤沢宿蒔田本陣跡=0:20=白旗神社=0:05=小田急藤沢本町駅=1:30=海前寺=0:20=JR茅ヶ崎駅(「サイゼリア茅ヶ崎店」)=1:35=平塚八幡宮=0:15=JR平塚駅【5:55】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
昨日(川崎〜戸塚)に続く2日目。
この日は5時に起床。すぐに大森駅に向かい、戸塚駅に戻る。戸塚駅構内で朝マックしてから、スタート!
駅からR1を進んでいくと、戸塚宿澤邊本陣跡の碑が立つ。これでやっと5次目。
元々、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、日本橋から当時の旅程だとちょうど一泊目に当たる場所(私は2日かかりました… 昔の人は凄いですね)にあることから、この戸倉の地に徐々に旅籠が増え始め、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、慶長9年(1604年)、ついに幕府公認の宿場町となった。往時には、旅籠の数は小田原宿に次ぐ規模であったと言われている。
戸塚は、「ヨットスクール」しか印象がありませんでした(笑)が、いろいろ歴史があるんですね…
戸倉宿の本陣は、この澤邊家と内田家の2軒あった。澤邉本陣跡には屋敷神であった羽黒神社が南隣に現存している。内田本陣跡はここから北の戸塚郵便局になっている。ちなみに澤邊家は碑の裏手に今もお住まいとのこと。
R1が大きく西に曲がる箇所の北側の高みに富塚八幡宮が建つ。
社殿では、源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命(とつぎひこのみこと:相模国造の二世孫)の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、延久4年(1072年)、富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。
境内の裏山(富塚八幡緑地)に富属彦命の墓と伝えられる古墳があり、これを「富塚」と呼んだことが「戸塚」の由来とされている。
上方見附跡を過ぎ戸塚宿を抜ける。R1は、南へ方向を変えながらゆるやかに坂道を登り、高台のようなところを進んでいく。
単調な国道歩きの途中に、お軽勘平戸塚山中道行の場の碑が立つ。
お軽勘平は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に登場する人物で、勘平のモデルは浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂に伝えた使者の一人菅野三平という(そういえば西国街道沿いにこの人の旧家跡があったな…)。
「仮名手本忠臣蔵」では、浅野内匠頭がモデルの塩冶判官が殿中で刃傷事件を起こした時、お軽と勘平はそれと知らず密会していたため、ひとまずお軽の故郷に立ち去ることになり、その舞台がこの辺りだったとされている。
富士も見えるし、絵になる情景なんでしょうね…
戸塚浅間神社は、延宝2年(1674年)の創建と伝えられ、戸塚宿字宮ヶ谷の総鎮守だったとのこと。
富士も良く見えるし、この地に建てられたのでしょうか?
道中ホンマに単調なので、小社でも寄ってしまう(失礼)。と言う訳で、影取諏訪神社にも立ち寄る。
影取諏訪神社の創建年代は不詳。かつて位置していた場所周辺が「鉄砲宿」と呼ばれ、鉄砲の教練場であったことから、武神の諏訪神社を勧請してきたと伝わる。
明治40年(1907年)に現地に移転してきたらしい。
藤沢バイパス出口で、R1を離れ県道30号線を進む。交通量は大幅に減った。そして、藤沢市に入る。
遊行寺坂を下っていくと、広大な境内を持つ遊行寺(ゆぎょうじ)が右手に現れる。
遊行寺は通称で、正式名は清浄光寺、時宗の総本山である。
後北条氏と敵対したため、一時焼失した時代もあったが、後に復興し、江戸時代初期には、幕府から時宗274寺の総本山と認められた。藤沢は東海道五十三次整備以前から遊行寺の門前町として栄え、歌川広重の「東海道五十三次」の「藤沢 遊行寺」にもこの寺が描かれている。
国宝の一遍上人絵伝や、重文の後醍醐天皇御像などの美術品が有名だが、この本堂も国登録有形文化財である。
境内を後に遊行寺橋を渡ると、宿場町に入って来る。
やっと6次目… 幕末には70軒以上の旅籠があったと言われている。この蒔田(まいた)本陣は延享2年(1745年)以降に新たに本陣になったところで、それまでは堀内本陣が担っていた。
街道南側の常光寺に寄ってみる。
常光寺は、元亀3年(1572年)、光明寺二十七世の明蓮社光誉が、光明寺の末寺として創立したのに始まる。
境内の木々が立派だなと思っていたら、「かながわ名木100選」に選定されたカヤの大木を中心に、藤沢宿の名残を残す森として、森全体が、藤沢市の天然記念物に指定されていた。
続いて、街道北向の明善寺へ。
明善寺は、日蓮宗に属し、永正元年(1504年)に日純が創立した。天明年間(1781−1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年(1842年)に日扇が再建した。
日蓮が、佐渡島へ遠島の刑となり、越後へ送られる途中に、休息した寺であると言われている。
交番の手前の細い路地を入ると源義経首洗井戸。
奥州平泉で討ち取られた義経の首が頼朝のもとへ届けられ、和田義盛と梶原景時により首実検が行われた。しかし、実検後、無残にも首は片瀬浜に捨てられてしまうが、境川をさかのぼってたどり着いた首を拾い、この井戸で洗い清めたとの伝説がある。
白旗交差点でいったん街道筋を離れ、北へ。白旗神社に立ち寄る。
白旗神社の創立年代は不詳。当初は相模国一宮の寒川神社の祭神を祀り寒川神社と称していた。この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承から、宝治3年(1249年)に源義経を合祀したとされる。
宝暦2年(1752年)の社殿再建の際に、白旗神社と称するようになった。
街道筋に戻り、小田急の藤沢本町駅前を通り、県道43号線を西に進んでいく。すぐ南には首都圏有数の公立進学校である湘南高校があるみたいだ。引地川を渡ってすぐの北側に養命寺が建つ。
養命寺の創建は天正年間(1573−1592年)に暁堂が開山した。本尊の木造薬師如来坐像は、建久8年(1197年)の銘があり、国指定の重要文化財だが、残念ながらお堂の扉は固く閉ざされており、姿を拝むことはできなかった…
四ツ谷と言う交差点でR1に合流し、単調な国道歩きが続く。いつしか茅ヶ崎市に入ったようだ。山ヤの私がド湘南の茅ヶ崎を歩く時が来ようとは…
本日快晴。少しでも見通しが利くポイントに来ると、富士がばっちり拝める。
この辺り、松並木が断続的に現れる。特に茅ヶ崎高校の南側周辺は、立派な黒松が多い。ほとんどが幹回り2m以上のものらしい。
茅ヶ崎高校のすぐ先の路地を北に入ってみると海前寺が建つ。
海前寺は、天正19年(1591年)の創建で、茅ヶ崎村領主で旗本の丸毛氏の菩提寺であったらしい。
茅ヶ崎一里塚跡のすぐ南がJR茅ヶ崎駅。腹が減ってきたが11時から開いてる適当な店がなく、サイゼリアに吸い込まれてしまう(笑)…
辛味チキン299円とエスカルゴのオーブン焼き399円! しかし、すごいコスパだ(笑)
シーフードグラタン499円に赤ワインを… ちなみにワインデキャンタ500mlは399円!(笑)
と言う訳で、すっかりへべれけに…
何とか歩行を再開。少し西に進んだ辺りで、境内にだるまがたくさん転がっている「映える」(笑)景色が目に入る。
これが第六天神社で、創建時期は不詳だが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、元弘3年(1332年)に新田義貞が鎌倉攻めを行った際にその兵火にあったと伝わっていることから、鎌倉時代には既に創建されていたらしい。
神奈川県では、年末にだるまを購入してお正月飾りとして神棚に飾る風習があり、年の瀬になると県内各地で「だるま市」が開かれる。茅ヶ崎市の「だるま市」は、毎年12月27日にここ第六天神社で開催されることから、だるまが転がっていたようだ…
淡々と進んで行くと、小出川を渡る手前に「旧馬入川(相模川)橋脚」の碑が立っている。
さして、興味も無かったが、説明文を見て驚愕する。何とこれは、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災による液状化現象によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡だったのだ。
そして、調査の結果、鎌倉時代の建久9年(1198年)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926年)に国の史跡に指定された。
さらに、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認されたことから、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、平成24年には、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定も受けることになった。液状化現象としては全国初の国指定である。
このように、旧相模川橋脚は、歴史遺産としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す天然記念物としての面も併せ持つとても貴重な文化自然資源である。
相模川の手前で平塚市に入り、馬入橋で相模川を渡る。
橋上からは大山を始めとする丹沢連峰が一望。東京からだいぶ離れてきたことを実感する。
相模川を渡ると平塚は近い。
今遠征での東海道歩きはJR平塚駅で終わることにするが、平塚八幡宮に寄り道することに。
平塚八幡宮の創建は、社伝によると仁徳天皇68年(380年)、この地方を襲った大地震に際し、仁徳天皇の勅願により応神天皇を祭神として創建されたとのこと。
また、江戸期に書かれた「相模国大中郡鶴峯山八幡宮之記」によれば、石清水八幡宮より130年以上も前の神亀年間(724−729年)に宇佐神宮から勧請を受け、これにより当地が八幡庄と呼ばれるようになったのだと言うのだから、相当古い社である。
建久3年(1192年)、源頼朝が妻の懐妊祝いに神馬を奉納したとあるほか、弘治2年(1566年)には、北条氏康がここに陣所を置いたため武田信玄によって焼かれてしまい、慶長年間(1596−1615年)に家康によって再建された。
明治になって、一時、八幡神社と名乗っていたが、昭和53年(1978年)8月に現在の社名である旧称の平塚八幡宮へ戻している。
現在の社殿は、関東大震災で倒壊後、昭和3年の再建である。
JR平塚駅に到着。駅前に「湘南ひらつか太古の湯グリーンサウナ」というスーパー銭湯があったので、ここで沈没、そしてマッサージも受けてリフレッシュする。
JRで3泊目となる大森に戻り、すっかり酒も抜けたので(笑)、大森の誇る呑み屋の名店「大衆酒場 富士川」さんに何とか潜り込むことに成功する。
アジなめろう580円でスタート。サイゼリアを超えるコスパの良さである(笑)
イワシ刺し380円(笑) 安すぎ〜
牛もつ煮込み580円
最後は、焼き鳥盛り合わせでフィニッシュ!
何とか〆のラーメンは思い止まり、低糖質に抑えた(笑)
明日は霞ヶ関出張だ。とりあえず出張前の大仕事が終わった(笑)…
参考タイム
1/15 | JR戸塚駅 6:35 ⇒ 7:20 戸塚浅間神社 7:20 ⇒ 8:20 遊行寺 8:30 ⇒ 8:35 藤沢宿蒔田本陣跡 8:35 ⇒ 8:55 白旗神社 9:00 ⇒ 9:05 小田急藤沢本町駅 9:05 ⇒ 10:35 海前寺 10:40 ⇒ 11:00 JR茅ヶ崎駅(「サイゼリア茅ヶ崎店」) 12:35 ⇒ 14:10 平塚八幡宮 14:20 ⇒ 14:35 JR平塚駅 |
山行データへ
諸国名山探訪
Copyright(C) Hiroshi Fujita All right reserved