古宮城跡・吉田城跡

−タイムズカーシェアの機動力を活かし、東海の続日本100名城5城を一気に攻略した旅の1日目!−

   

山行概要

日 程
2019年10月26日(土)
山 域
古宮城跡・吉田城跡
天 気
曇り
メンバー
単独
コースタイム
白鳥神社=0:05=古宮城跡=0:05=白鳥神社=0:05=豊川矢作川分水点=0:05=白鳥神社【0:20】
JR豊橋駅=0:20=豊橋公園(吉田城跡)=0:10=吉田宿本陣跡周辺(「丸よ」・「きく宗」)=0:10=JR豊橋駅【0:40】

記録文(写真はクリックで拡大)

 市会も一定ひと段落したことから、脱出を企てる。ずっと激務が続いており、トレ全くできてないので、登山ではなく、安直城巡りへ… 未登の続日本100名城が集中している東海地域を目指す。
 京都を早朝ののぞみで発進し、豊橋には9時前に到着。予約しておいた駅前のタイムズカーシェアでダイハツ「ウェイク」をゲットし、まずは一城目の奥三河は新城市の旧作手(つくで)村という標高500mを超える高原地帯にある古宮城跡を目指す。
 豊橋駅前からR247、R151で北上し、杉山という集落で左折し、R301のワインディングで一気に高度を上げる。本宮山スカイラインを左に分け、ゆるやかに下っていくと、広々とした高原が広がり、作手盆地に入ってきた。道の駅を過ぎ、古宮城へは郵便局の手前の辻を右折するのだが、まずは情報収集のため、少し北に進んだ新城市の作手歴史民俗資料館に向かう。
 ここで古宮城や作手村の歴史を頭に入れ、城跡のマップをゲットしてから、反転し、郵便局の辻を左折してすぐの白鳥神社へ。神社前に数台分の駐車スペースがある。
 白鳥神社の鳥居横に古宮城の案内板が立っているが、結局、城内で唯一の案内板だった…

白鳥神社 10:31

 鳥居の少し奥には、樹高40m、幹周り6.5m、樹齢300年以上の大杉が立つ。
 旧作手村には、日本武尊に因む白鳥神社が11社も集中しているらしい。これは、湿原地帯だった作手高原はかつて白鳥の飛来地であり、白鳥の糞が肥料として古代の水田耕作に恩恵をもたらしていたこともあって、古代からこの地区には「白鳥信仰」が盛んで、後に「日本武尊の白鳥伝説」と習合したことで、白鳥神社が集中したと考えられている。
 この古宮の白鳥神社は、天和3年(1617年)の創建とのこと。
 境内の東端から、古宮城跡に登る階段が延びている。

大ヒノキ(復路時の撮影) 10:41

 古宮城は、元亀2年(1571年)、武田信玄の重臣・馬場美濃守信房が武田軍の最前線基地として築城したが、2年後、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。
 古宮城は、大きく東西の主郭で形成されており、南北に走る大竪壕で分断され、唯一、幅4mほどの土橋で東西が連結されている。武田氏の築城技術が生かされた構造と考えられ、「日本城郭大系」では、『「古宮城」は「遠江諏訪原城」を小型化した縄張りで、中世から近世に移る過程の城郭の見本ともいえる城』と評されている。
 階段を登ると、東南曲輪の平地に出て、さらに奥の高みには、東の本丸、二ノ丸への入口となる虎口跡の枡形があり、その傍らには、樹高29m、幹周り6mの大ヒノキがあり、新城市の天然記念物に指定されている。
 東の本丸に侵入してみる。曲輪跡であることは明確に分かるが、何の案内もないので、なかなか好き者でないと、この城跡巡りはハードルが高い。しかも心細くなるほどに誰もいない。続日本100名城でこれだけ擦れていない城跡は初めてだ。残っている遺構は一級品の城跡と思われるので、作手町もとい、新城市は、もう少し活用を考えた方が良いと思うが…

東の二ノ丸 10:35

 ご覧のとおり、ぱっと見は、ただの山中(笑)だが、良く見ると、ちゃんと曲輪として成型されている。

西の本丸 10:37

 土橋を渡り、西の主郭に渡る。西の二ノ丸のさらに西に本丸が続く。周囲は土塁で囲まれ、西側は大きく切り立っており、西から攻め込む場合、相当強固だと思われる。

北大竪壕 10:40

 土橋の上から、北の大竪壕を見下ろす。東西の郭は相当深い壕で分けられている。
 現時点で、この深さだから、往時はもっと切り立っていたのだろう。
 神社に戻るが、南側に「分水点」の看板が見えたので、少し寄り道する。

分水点からの古宮城跡 10:45

 「豊川矢作川分水点」から、古宮城跡を振り返る。ご覧のように、ひと山丸々が城跡なのである。
 そして、この山は、作手盆地の中心部で一番標高が低い場所に位置することから、湿地帯に囲まれていたらしい。現在もある程度排水されたものの水田が広がっている。相当の要害であったと思われる。

「豊川矢作川分水点」 10:47

 「分水点」の看板の立つ場所に行ってみると、田んぼから流れ落ちる水が左右二つに分かれて流れていく。
 この小さな川を「巴川」と言い、この流れが左右に分かれ、南流は豊川に、北流は矢作川となるのだ。
 「分水嶺」はよく耳にするが、平地で分かれる「分水点」は珍しい…
 古宮城跡をはじめ、旧作手村の探索終了。豊橋へ戻るが、R151沿いに、三河国一之宮の砥鹿神社があったので、立ち寄る。

三河国一之宮砥鹿神社里宮 11:34

 西参道から境内へ。
 この石鳥居は、もともとは本宮山にある奥宮を遙拝するものとして、近くの旧宝飯(ほい)郡の市田村に建立されたものだが、昭和20年(1945年)、豊川海軍工廠への空襲時に損傷を受け、昭和31年(1956年)に当地に移転された経緯を持つ。石鳥居としては市内で2番目の大きさであり、至る所に空爆の被弾痕が見られ、近世期以降の本宮山信仰の遺産として、且つまた戦争の悲惨さを伝える平和の象徴として価値を有するものである。
 もともとは、天保13年(1842)の造営で、豊川市指定の有形文化財である。

三河国一之宮砥鹿神社里宮総本社 11:38

 折しも境内は、七五三詣りで大盛況だった。一人寂しく参拝する…
 砥鹿神社は、「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」によると、大宝年間(701−4年)に文武天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(さかどのきんのぶ)が派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとする。本宮山には、砥鹿神社奥宮が鎮座している。
 中世以降は、三河国一宮として尊崇され、戦国時代には、付近に徳川家康の命を受けた本多信俊が一宮砦を構えて今川軍に包囲されたが、家康が寡勢で救援に駆けつけて多勢の今川軍を蹴散らし、砥鹿神社に宿陣したとも伝わる。また慶長7年(1602年)には、家康より朱印領として百石の寄進を受けている。
 豊橋に戻り、次は、同じく続日本100名城の吉田城跡である、豊橋公園に向かう。

吉田宿本陣跡周辺 12:29

 豊橋市内中心部を旧東海道が横切っており、旧街道筋を進んで行くと、吉田宿の旧本陣跡を示す石碑があった。
 この地は現在、創業140余年の豊橋一の鰻の老舗「丸よ」さんとなっており、また後で訪れる予定だ。
 豊川の畔に向かい、豊橋公園へ入場。何かスマホをいじっている人が多いなと思ったら、ポケモンGOに興じている人々だった…
 公園を東西に横切り、吉田城跡本丸へ。石垣に囲まれた本丸の北西隅に鉄(くろがね)櫓が建つ。

吉田城鉄櫓 12:39

 本丸には隅櫓それぞれ建てられていたが、この鉄櫓が天守の代わりをしていたと考えられており、昭和29年(1954年)、模擬再建された。
 資料館となっているが、無料で入場できる。

豊川 12:57

 本丸北側は豊川が近接し、ここで流れが大きく湾曲している。
 吉田城は、北に流れる豊川を背後に本丸を置き、周りを二の丸、三の丸が囲む典型的な梯郭式縄張りである。豊川は巨大な堀の役割を果たす反面、船で攻撃される恐れがあり、河岸に川手櫓などを築き防備を固めていた。

 吉田城の築城は永正2年(1505年)、この辺りの国人で、今川氏に従っていた牧野古白による。その後は、今川氏と松平氏の争奪の場となり、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、徳川家康が、永禄7年(1564年)に吉田城を奪還し、重臣の酒井忠次を置き、三河をほぼ平定した。
 そして、三方ヶ原の合戦の前年、元亀2年(1571年)には、武田信玄がその前哨戦として東三河に侵攻、野田城や二連木城等を落とし、吉田城にも攻め込んできたが、忠次の守りは固く、撃退した。
 天生18年(1590年)、家康が関東移封になると、代わって池田輝政が東三河15万2千石の領主として吉田城に入り、城及び城下町の大規模改修に着手。11年に及ぶ大工事の末、吉田城は近世城郭に生まれ変わった。
 改修直後の慶長6年(1601年)、輝政は播州・姫路に移封され、その後、江戸期を通じて、吉田城は東海道を抑える要衝として重視され、譜代大名が代々城主となった。

豊橋市公会堂 13:04

 豊橋公園を後に、来た道を戻る。公園前には豊橋市公会堂が堂々とした姿を見せている。
 昭和6年(1931年)8月の竣工。鉄筋コンクリート造で、外観はロマネスク様式を基調とし、スペイン風の円形ドームは、「スパニッシュ・コロニアル・リバイバル」という20世紀当初にカリフォルニア州で流行したスペイン統治時代の建築様式の復興を試みたスタイルを模倣したもので、国登録有形文化財である。
 昭和20年(1945年)6月の豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際に豊橋市役所の機能が移転したほか、昭和23年(1948年)から昭和27年(1952年)までは豊橋中央公民館として、また、昭和44年(1969年)から昭和54年(1979年)までは、1階部分が市民窓口センターに使用された。
 その後、新たに中央公民館が設置されたため、再び公会堂に戻り現在に至っている。

鰻の老舗「丸よ」さんで昼から豪遊!@ 13:24

 東海道筋に戻り、いよいよ「丸よ」さんへ。中途半端な時間のせいか、ガラガラだった…
 肝焼きからスタート!

鰻の老舗「丸よ」さんで昼から豪遊!A 13:30

 続いて、鰻とフカヒレの茶碗蒸し! 出汁が旨過ぎる!

鰻の老舗「丸よ」さんで昼から豪遊!B 13:34

 最後は蒲焼で… 少し考えがあったので、ここはあえてご飯抜きで…
 調子に乗って、赤ワインも頼んでしまった… お会計9000円也(笑)

「きく宗」さんをハシゴ! 14:17

 続いて、東海道を挟んで向かいの「きく宗」さんへ。
 ここは、文政年間(1818−1831年)の創業依頼、200年以上に渡り、吉田宿にて「菜めし田楽」ひと筋の老舗である。
 菜めし田楽は、主に東海地方の伝統料理で、米に大根葉を乾燥させ、炊き込んだご飯と味噌田楽を合わせた料理である。
 古民家の雰囲気あるお店で、老舗の味を堪能し、お腹一杯。豪華すぎる豊橋ランチ終了。

 名古屋に向かい、丸の内のアパに投宿。露天風呂を堪能し、部屋で爆睡した結果、起きたら20時半を回っていた…
 慌てて、ホテルを飛び出し、伏見へ繰り出す。
 焼き鳥を食べたい気分だったので、適当に食べログで検索し、「きんぼし 伏見店」にダメもとで突入したら、運よく5分ほどの待ち時間で入店できた。

「きんぼし 伏見店」で名古屋コーチンを堪能!@ 20:54

 コーチンぼんじりでスタート!

「きんぼし 伏見店」で名古屋コーチンを堪能!A 21:09

 コーチンのもも、砂肝、心臓レバーを一串にまとめた特製コーチン串!
 この後も、ほぼ意識不明になるまで、飲み食いし続け、1日目の夜は更けていった…
 2日目(美濃金山城跡・小牧山城跡・大垣城跡)へ。

参考タイム

10/26白鳥神社 10:3010:35 古宮城跡 10:4010:45 豊川矢作川分水点 10:4510:50 白鳥神社
JR豊橋駅 12:2012:40 豊橋公園(吉田城跡) 13:0013:10 吉田宿本陣跡周辺(「丸よ」・「きく宗」) 14:5015:00 JR豊橋駅

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