−鄙びた大和高原をのんびり散策−
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山行概要
2022年4月17日(日) | |
大和高原 | |
晴れ | |
単独 | |
駐車地(都祁友田)=0:10=都祁水分神社=0:05=小治田安萬侶の墓=0:10=来迎寺=0:10=國津神社=0:05=都介野岳西登山口=0:15=都介野岳=0:20=三陵墓古墳群史跡公園=0:50=駐車地(都祁友田)【2:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
好天の予報に、この日も早朝から車で出撃。通常運転です(笑)
久しぶりに都祁の里に行きたくなり、大和高原へ。ナビに盲従していたら、奈良市街からとんでもない山道を走らされたりしたものの、何とか都祁にやって来た。
都祁水分神社の近くに車を止めたかったが、周囲は細い路地ばかりで、少し離れた県道38号線の路肩に路駐させてもらう。
まだ5時20分だ(笑) 車外は寒い。早歩きで都祁水分神社へ。
参道へ。立派な石柱が建つ。右後方には、これから訪れる都介野岳も見える。
荘厳な雰囲気に溢れる参道を進み、拝殿前へ。
都祁水分神社は、大和国の水分四社(宇太、葛城、吉野、都祁)の一つで、飛鳥時代の創祀と伝えられている。
元々は現地より3km南の小山戸カモエ谷の都祁山口神社がある地に鎮座していた。その後、信仰を集めたことから、天禄3年(972年)9月25日、都祁の中心部に位置する友田の地へと、遷移された。この地は、聖武天皇が行幸された堀越頓宮の伝承地であり、また、平安時代には伊勢齋宮の皇女が宿られた都介頓宮の跡でもある。
江戸時代にはこの辺りの氏神として、引き続き、信仰を得、特に藤堂藩の大庄屋、小山戸の北氏は当社の護持に一段と力を尽くしたという。明治維新の後、都祁水分神社は郷社となり後県社に列せられ、現在に至っている。
現在の本殿は、明応8年(1499年)の造営で、瑞垣が巡らされており、一間舎春日造。国指定の重要文化財である。
お手洗いを借りるが、超絶美麗なトイレで感動しました(笑)
境内北側の「山辺の御井」に立ち寄ってみる。
山辺の御井とは、山に近いところにある聖水という意味で、鈴鹿や、山添村の毛原廃寺にも同じ井戸が確認されている。
万葉集に「山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも」が収められており、和銅5年(712年)に、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、御井の前で詠んだ歌らしい。さすが、都介頓宮の跡地である。
再び参道を通って境内外へ。早朝のせいもあってか、非常に清々しい気持ちにさせられた、29年振りの再訪だった。
鳥居前から境内の南側を東へ進む。
溜め池の畔を進んで行くが、水面上に霧が湧いている。なかなかに幻想的だ。
「蒸気霧」という現象で、温かい水面の上に、冷たい空気が流れ込んできた時に発生するらしい。
溜め池の北側に「小治田安萬侶の墓」への道標があったので、立ち寄ってみる。
小治田安萬侶(おはりだのやすまろ)は、文武から聖武まで4代の天皇に仕えた官人で、蘇我稲目(馬子の父)の後裔に当たる。
明治45年(1912年)、茶畑の開墾中に偶然木櫃(ぼくき)が発見され墓誌3枚が出土し、後の発掘調査で、小治田安萬侶の火葬墓であることが確認された。
木櫃以外にも、副葬品の三彩の壷、銀製の和同開珎、須恵器、土師器が出土した他、双獣双鳳文鏡1面も出土している。
なお、古事記編纂で有名な太安万侶も、同じく墓誌が発見されているが、別人である。
溜め池に戻り、池の東畔に沿って南下。突き当りを右折し、すぐに左折し、さらに南下すると、来迎寺の門前へ。ここにも異様に立派なトイレが整備されていた…
参道から階段を上がり、本堂へ進む。
来迎寺の建つこの地は、藤原氏の荘園であったことから、当寺は平安・鎌倉時代にかけて興福寺との関係が深かったが、鎌倉時代には地元の豪族多田氏の菩提寺となり、多田一族の墓碑とみられる五輪石塔が本堂裏に100基以上残っている。
一番大きな五輪石塔は、高さ260cmで、奈良県下でも有数の大きな宝塔である。
延慶3年(1310年)の建立で、国指定の重要文化財である。
来迎寺を後に、門前からさらに南下する。東西に延びる道に突き当たると、左折し、東へ進んで行く、牛舎を右に見て、のんびり下って行くと、國津神社に出た。
都祁の里には、國津神社が数多く鎮座しているが、これは南之庄に建つ國津神社。
社伝によると、天録3年(972年)に伊賀国阿拝郡の國津大明神を河内国高安郡へ遷す途中に当地で一時滞在した際、社殿背後の山に座す御神体の「白石」が動かなくなったので、当地に社殿をこしらえ創建に至ったとのこと。
農業の神様を祀っているらしい。
國津神社鳥居前の細道を南に進む。
民家を抜けた辺りに、左へ山道が分岐する。ここが都介野岳の登り口で、ここからプチ登山となる。
しばらくは、ゆるやかな登りだが、しだいに階段混じりの急登となり、北側に下る登山道が分岐するポイント以降は、急な階段が続く。さすがに都祁富士の異名を取る山である。
とは言え、登山口で既に標高500mを超えているので、10分も登れば先は見えてくる。
役行者の祠を過ぎると、山頂は目前。29年振りの登頂。
山頂には三角点の他、竜王社が鎮座する。展望は北から西にかけての一部のみ。
先ほど参拝した都祁水分神社や、これから訪れる三陵墓古墳等が見渡せた。
山頂を辞して、北側に下るルートに入る。終始一貫してなだらかな下りが続き、北登山口に出て、山道終了。
舗装路をさらに北に進み、突き当りを右に進むと、三陵墓古墳群史跡公園に入る。
三陵墓古墳は東・西・南の3基からなり、いずれも被葬者は明らかでないが、西古墳・東古墳は都祁盆地の首長墓と想定され、「古事記」・「日本書紀」に見える都祁直(つけのあたひ:大和国山辺郡を本拠とした氏族)・闘鶏国造(つげのくにのみやつこ:都祁盆地を支配した国造)との関連性が指摘される。
南古墳は直径約16mの円墳で、3基の中で一番小さい。6世紀代の造営で、3古墳の中では一番古い。史跡公園外であり、稲荷神社が鎮座している。
東西古墳は、公園として整備されており、まずは円筒埴輪のレプリカが並べられた、西古墳の墳丘に登ってみる。先ほど登った都介野岳が一望だ。
西古墳は円墳で、直径約40m、高さ約5m、墳頂部の直径約16mの規模で、5世紀中頃の造営。
このモニュメントはいらないと思いますが(笑)…
続いて東古墳へ。東古墳は5世紀後半の造営と推定されており、墳丘長110m、後円部の直径約70m、高さ約11m、前方部は、長さ約40m、幅約50m、高さ約6mを誇る大型前方後円墳で、都祁盆地はもとより、大和高原・宇陀地域では最大規模の古墳である。
画像は、後円部の墳丘上から、前方部を見下ろしたもの。
三陵墓古墳群史跡公園を後に、耕作地の中を北に進む。深江川に突き当たる手前で左折し、東へ向きを変える。
この辺り、振り返ると、都介野岳と三陵墓古墳が一望だ。ホンマに長閑な景色です。
川向橋を渡り、また北へ進み、峠を一つ越えてからの分岐を左折すると、保健センターの前を通過。
さらに進んで次の分岐を左折し、南へ進み、また峠を一つ越えると、介護老人保健施設の前に出るのでここを右折し、北へ進む。
カーブミラーのある分岐を左折し、再び南へ進む。正面に友田集落が見えてきた。
都介野岳はまさに都祁の里のシンボル。里のどこからでも見える。
深江川を渡った先の突き当りを右折すると、友田集落の入口。
古い街並みが続く、友田集落を抜けていく。このまま真っすぐ進むと都祁水分神社に戻ってくるが、私は神社まで戻らず、車を路駐したポイントへと戻って、本日の歩行終了。適度なハイキングでした。
枚方には10時前に帰着し、昼呑み&午睡という、怠惰なPMを過ごして、週末は終わった…
参考タイム
4/16 | 駐車地(都祁友田) 5:20 ⇒ 5:30 都祁水分神社 5:45 ⇒ 5:50 小治田安萬侶の墓 5:50 ⇒ 6:00 来迎寺 6:05 ⇒ 6:15 國津神社 6:15 ⇒ 6:20 都介野岳西登山口 6:20 ⇒ 6:35 都介野岳 6:35 ⇒ 6:55 三陵墓古墳群史跡公園 7:05 ⇒ 7:55 駐車地(都祁友田) |
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