−快晴の下、津和野・萩のブラ散歩を堪能!−
山行概要
2017年6月3日(土) | |
津和野 | |
快晴 | |
Sさん、私 | |
JR津和野駅〜津和野大橋〜JR津和野駅・津和野城跡観光リフト山頂駅=0:15=津和野城本丸跡(霊亀山)=0:15=津和野城跡観光リフト山頂駅【0:30】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
久しぶりの広島行。でも広島に留まらず、Sさんのお世話になり、津和野、萩、山口を巡ることに。この私としたことが、まだ津和野と山口には行ったことがなかったのだ。
土日の2日間しかないので、夜行バスで広島へ。おかげで、5時過ぎには広島駅を車で出発でき、最初の目的地の津和野には8時前に到着。
駅前の駐車場に車を止め、市内の散策に向かうが、如何せん、朝早過ぎて、店舗はどこも開いておらず、人影も無い…
それでも古い伝建地区をぐるっと歩き回り、私は大満足である。
大岡家老門という標識の立つ門の前へ。名の通り、津和野藩の家老職を勤めた大岡家の表門で、薬医門形式、切妻、桟瓦葺。
敷地内には遺構がなく、建物は実は津和野町役場庁舎だった。
続いて、伝建地区を離れ、西側へ少し山手に上がると永明寺がある。
永明寺の創建は応永27年(1420)、当時の津和野城主吉見頼弘が月因性初禅師(永平寺開祖道元の法孫)を招いて開いたのが始まりと伝えられている。以来、歴代津和野藩主の菩提寺として庇護された。
本堂は安永8年(1779)に再建されたもので寄棟、単層茅葺、江戸時代中期に建てられた寺院本堂建築の遺構として貴重なもので庫裏、鐘楼と共に島根県指定有形文化財に指定されている。
車に戻り、次は、太皷谷稲成神社へ。本来であれば、伝建地区から徒歩で登るところだが、今日はズボラをかまして車で登る。後で向かう、津和野城跡観光リフトの前を通り過ぎ、神社前の駐車場へ。
太皷谷稲成神社は、日本五大稲荷(他の4社は伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社)の一つに列せられ、安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞が、藩の領民安寧のために京都の伏見稲荷大社から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したのに始まる。
以降、歴代藩主の崇敬を受け、中国地方有数の稲荷神社となった。
境内からは津和野の赤い瓦の町並みが一望である。
次は、一番のお目当ての津和野城跡である。リフト乗り場まで戻り、ここもズボラをかまし、一気にリフトで標高300m超の山上へ。なかなかの急傾斜であり、これで往復450円は安いと思う。
ここから本丸へは山道だ。いったんゆるやかに下り、一気に本丸へ登っていく。だいぶ石垣が痛んでいるのか、各地で補修工事が行われている中を縫うように登っていき、本丸へ到達。
ここが霊亀山の山頂であり、見下ろす津和野の街は、先ほどの太皷谷稲成神社からはるかに小さくなった。向かいの青野山の端正な姿も美しい。
大満足の津和野探訪を終え、萩へ向かうが、地元のおっちゃんに強く勧められた堀庭園に寄っていくことに。津和野の街並みからは8キロほど離れており、山間の仙境といった場所にある。
堀庭園は、この辺りに昔あった銅山の年寄役を代々勤めた堀家の第15代藤十郎が作庭したもので、国指定名勝。
数寄屋造りの客殿「楽山荘」から見下ろす庭園は素晴らしかった。
そして萩へ向かう。交通量は少なく、快調に萩市街へ。今日の宿の東萩駅前にある「萩ロイヤルインテリジェントホテル」の広い駐車場に車を置かしてもらい、レンタサイクルを借りて、まずは、旨い魚を求めて、越ヶ浜に向かうことに。快晴の空の元、気持ちの良い海岸沿いのサイクリングで、20分ほどで、越ヶ浜に到着。
狭い半島の中にある明神池の畔に立つ「いそ萬」さんに飛び込み、板ウニ他を満喫!
萩市街に戻るが、途中、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つである、恵美須ヶ鼻造船所跡に立ち寄る。
恵美須ヶ鼻造船所跡は、幕末に長州藩が設けた造船所の遺跡であり、ロシアの造船技術による丙辰丸とオランダの造船技術による庚申丸が建造された。同じ造船所内に異なる外国の造船技術が共存した唯一の造船所であり、数少ない西洋式造船所の遺構で、近代技術の導入期を知る貴重な遺産である。
続いて、すぐ近くの萩反射炉へ。これも世界遺産の構成資産の一つであり、最近、露出度がめっきり増えた。
萩反射炉は、伊豆の韮山反射炉とともに日本に2つしか現存しない近世の反射炉であるが、本格的な操業(鉄製大砲の鋳造)の記録が無いことから試験炉であり、本式の反射炉(実用炉)は築造されなかったとの説が有力視されている。
続いて、松本ゾーンへ。やはり松下村塾、松陰神社へ真っ先に向かう。中学校の修学旅行で来ていたみたいだが、当然ながら、全く記憶がない…
松陰神社は、1890年(明治23年)、松陰の実家、杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが創建である。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもので、創建当時の土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る末社、松門神社となっている。
宝物殿にも立ち寄ってから、東光寺へ。
元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立し、以降、毛利氏の菩提寺となり、境内北側の山林の中に廟所がある。
仙台藩伊達家の大年寺、鳥取藩池田家の興禅寺と並んで黄檗宗三大叢林のひとつである。
元禄6年(1693年)頃建立の総門、元禄7年(1694年)頃建立の鐘楼、元禄11年(1698年)建立の大雄宝殿、文化9年(1812年)建立の三門の4棟の建造物が重要文化財に指定されている。
東光寺を後に、南へ急坂を上った小高い丘に、松陰の墓所があり、松陰のほか、玉木文之進、久坂玄瑞など一族のほか、門人の高杉晋作などの墓もある。 すぐ西隣には松陰誕生地があり、萩市内が一望できる。
松陰誕生地から西北へ急坂を下ったところに玉木文之進旧宅が建っており、木造茅葺き平屋建ての家屋が無料で開放されている。
玉木文之進は、吉田松陰の叔父で、後見人であった。前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃した。享年66歳であった。
西へ進むと伊藤博文旧宅。
伊藤博文は、9歳のときに萩に移住し、17歳で松下村塾に学び、討幕運動に参加した。
旧宅は木造茅葺き平屋建て、29坪の小さな家である。
ここで今日の観光は打ち止め。
ホテルから阿武川を渡った古萩町にある「海鮮食道 十八番」さんへ突撃する。
造り盛りでスタート!
やはり、ノドグロは外せない。
最後は意識不明で宿に戻った…
明日(萩・山口散策)も続く。
参考タイム
6/3 | 津和野城跡観光リフト山頂駅 9:25 ⇒ 9:40 津和野城本丸跡(霊亀山) 9:55 ⇒ 10:10 津和野城跡観光リフト山頂駅 |
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