−南予で雪を踏みしめての登山を敢行後、伊予を代表する町並みをハットトリック!−
山行概要
2018年12月29日(土) | |
法華津山脈・卯之町市街・内子市街・大洲市街 | |
晴れ時々曇り | |
単独 | |
法華津峠休憩所=0:05=登山道入口=0:40=高森山=0:30=法華津峠休憩所【1:15】 JR卯之町駅=0:15=宇和米博物館=0:10=開明学校=0:15=JR卯之町駅【0:40】 高昌寺=0:35=本町通り(「がっちゃん家」)=0:15=高昌寺【0:50】 大洲市民会館駐車場=0:05=大洲城跡=0:40=臥龍山荘=0:05=大洲神社=0:15=大洲市民会館駐車場【1:05】 |
記録文(写真はクリックで拡大)
法華津峠休憩所を出発。しばらく車道を歩くと、登山口が左手に現れる。
登山口からすぐに尾根に乗る。アップダウンもさほどなく、明瞭なルートが続く。が、足元は真っ白…
あっと言う間に頂上へ。何と一等三角点が鎮座していた…
その割には展望はイマイチ… 鬼ヶ城山系が木々の間から見える。
寒いので早々に下山する。
サクッと登山終了(笑)〜 出発時と比べ、陽が当たり、宇和海が断然輝いてきた。
法華津峠を舞台とした賛美歌「山路こえて」を作詞した、西村清雄の歌碑が立っていた…
この次は、すぐ下の西予市は卯之町に向かう。10分ほどのドライブで卯之町駅に到着。西予市役所の駐車場に車を止め、街なかへ。
まずは北へ町はずれへ向かい、宇和米博物館へ。しかし、年末年始で休館日だった…
小学校の校舎を移築した建物。ここ卯之町のある宇和盆地は、有数の穀倉地帯のようだ。知らなかった…
町なかへ向かい、重要伝統的建造物群保存地区へ。光教寺へ向かう坂道の途中に開明学校が建つ。ここも休館中…
開明学校は、明治15年(1882年)に建てられた、木造2階建、桟瓦葺きで、窓枠をアーチ状につくるなど、わずかに洋風の意匠を取り入れた擬洋風建築である。この時期に地元の大工のみで建築されたことと、屋根裏から発見された「開明学校新築始末書」という銘札によって、建築の時期と事情が明らかであることから、国の重要文化財に指定されている。
中心部の中町へ。いかにもと言った町並みが壮観である。
卯之町は、戦国時代は西園寺氏の居城であった松葉城の城下町であり、廃城後は在郷町となり、四国八十八箇所札所の明石寺の門前町、宇和島街道の宿駅としての性格も持つようになり、明治に入り、卯之町駅の開設や国道56号の開通に伴い、町の中心が南方へ移動したことにより、町並みが良好に残されることとなったのだ。
中町の1本西の通りには、高野長英の隠れ家が…
高野長英は、「蛮社の獄」で入牢したが、弘化2年(1845年)、獄舎の火災を機に逃亡し、嘉永元年(1848年)に宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、伊東瑞渓と変名して宇和島に潜入し、後学に大きな影響を与えた。
嘉永2年(1849年)、シーボルト門下の学友二宮敬作を頼って卯之町に来た長英を、敬作は裏庭の離れ2階にかくまったという。
隠れ家は、瓦葺木造の平屋建に改築され保存されていた。
卯之町の探索終了。駅に戻る。次はどこに行こうか…
卯之町と同じく、重要伝統的建造物群保存地区に選定された内子に向かうことに。
重伝建地区の北端にある高昌寺の横に、駐車場があったので、ここをまち歩きの起点にすることに。
高昌寺は、嘉吉元年(1441年)に防州の大功円忠が、常久寺(内子の南の町はずれ)の地に浄久寺を創建した。天文2年(1535年)、曽根高昌がその寺に帰依し寄進し、現在地に移転して堂塔伽藍を整備、彼の死後、護国山高昌寺に改称し隆盛を誇った。
その後、文化4年(1807年)、失火により諸堂は灰燼と化すも、本尊と開創の像と山門は難を逃れる。翌年、大洲藩主加藤泰興の寄進により直ちに再建に取り掛かるが、その際、柳沢村(大洲市の北東部)の良質の楠木を賜り各所に使用したため、別名楠木寺と呼ばれる。
伽藍配置が本山永平寺に似ていることから、伊予のミニ永平寺とも称されることも。
高昌寺から坂道を下ると、すぐに重伝建地区内へ。
時が止まったようだ… 素晴らしい!
重伝建地区を抜け、右折し本町通りへ。
警察署を改装したビジターセンターの先を右折すると、内子座がある。
内子座は、明治末から大正にかけて内子の町が木蝋や生糸などの生産で栄えていた頃、地元の人々の娯楽の場として発案され、大正天皇の即位を祝して地元有志の出資により、大正5年(1916年)に創建された。その後、老朽化により取り壊されようとしたが、まちづくりの核として活用していくべきとの町民からの要望により、昭和58年(1983年)から2年かけて往時の姿に復元する工事が実施され、現在は、文楽のほか、各種講演やまちづくりの会合等に活用されている。
平成27年(2015年)に国の重要文化財に指定された。
腹が減ったので、内子座に近い焼肉屋「がっちゃん家」さんへ。
石焼ビビンバ、カルビ乗せをオーダー。昼から満腹に…
八幡神社は、天文11年(1542年)6月に宇佐八幡宮から祭神を勧請し、森八幡神社と称したのが始まりで、天正19年(1591年)に社殿が造営された。
天照皇大神が祀られているので、昔は伊勢神宮の大祭日には必ず内子から代表者を選び、御祭礼に参列することが村の行事になっていたらしい。
重伝建地区に戻る。年末で人が少ないのも良いですね…
駐車場に戻り、内子の探索終了。まだ昼過ぎだ。去年の5月にも行った大洲に行こうか…
これを見るために僅か1年半振りの再訪。
大洲城天守は、明治21年(1888年)、惜しくも取り壊されてしまったが、江戸時代の古絵図をはじめ、江戸時代に造られたと思われる天守雛形、明治時代に撮られた古写真などの史料が豊富で、往時の姿を正確に復元することが可能だったのだ。
平成16年(2004年)に木造で完全復元された。戦後の木造による天守の復元としては4例目であり,規模は最大の4層4階であり,高さ19.15mも国内一である。
大洲城には4つの現存櫓があり、うち2つは天守と繋がっている。
右の台所櫓は、櫓で一番大きく、内部に土間を配し煙出し用の格子窓が開けられており、天守への入口となっている。
現在の櫓は安政4年(1857年)の大地震で大破し、安政6年(1859年)に再建されたもの。
左の高欄櫓は、2階に縁と高欄のある櫓で、台所櫓同様、安政4年の地震で大破し、万延元年(1860年)に再建されたもの。
城を後に東へ進むと、古い町並みが残っている。
この一帯で昭和41年(1966年)のNHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」のロケが行われたことから「おはなはん通り」の名称で親しまれている。
さらに東へ、肱川に突き当たったところに臥龍山荘がある。
臥龍山荘は、木蝋(もくろう)の輸出で財をなした大洲市新谷出身の貿易商、河内寅次郎が構想10年、施工4年の歳月をかけて建設し、明治40年(1907年)に完成した。
大洲第3代藩主加藤泰恒が「蓬莱山が龍の臥す姿に似ている」と称した風光明媚な肱川の臥龍淵の崖の上に建てたことから、臥龍山荘と名付けた。
四国地方における近代の数寄屋建築の優品であり、平成28年に国の重要文化財に指定された。
臥龍山荘から西に坂道を登り、高みにある大洲神社へ。
大洲神社は、元弘元年(1331年)、宇都宮豊房が大洲城を築いたときに、下野国の二荒山神社を勧請し、太郎宮と称したのが始まりである。
東京ラブストーリーの最終回で、カンチとリカが訪れ、大洲の街並みをリカと二人で見下ろしたシーンがありました…
駐車場に戻り、大洲の探索終了。
参考タイム
12/29 | 法華津峠休憩所 8:10 ⇒ 8:15 登山道入口 8:15 ⇒ 8:55 高森山 ⇒ 9:00 ⇒ 9:30 法華津峠休憩所 JR卯之町駅 10:00 ⇒ 10:15 宇和米博物館 10:15 ⇒ 10:25 開明学校 10:25 ⇒ 10:40 JR卯之町駅 高昌寺 11:25 ⇒ 12:00 本町通り(「がっちゃん家」) 12:30 ⇒ 12:45 高昌寺 大洲市民会館駐車場 13:20 ⇒ 13:25 大洲城跡 13:45 ⇒ 14:25 臥龍山荘 14:35 ⇒ 14:40 大洲神社 14:45 ⇒ 15:00 大洲市民会館駐車場 |
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