熊野古道紀伊路その5(山中渓〜布施屋)

−ついに県境を越え、紀ノ國へ。微風快晴の下、爽やか街道歩きを満喫!−

   

山行概要

日 程
2015年3月28日(土)
山 域
熊野古道紀伊路
天 気
快晴
メンバー
単独
コースタイム
JR山中渓駅=0:05=山中関跡=0:15=府県境(日本最後の仇討場)=0:10=滝畑=0:25=雄ノ山峠=0:20=山口王子跡=0:25=遍照寺=0:25=西連寺=0:25=中村王子跡=0:05=力侍神社=0:35=JR布施屋駅【3:10】

記録文(写真はクリックで拡大)

 先週(井原里〜山中渓)からの連戦。
 アホの一つ覚えのように、三条京阪から5時の始発で大阪へ。京橋、新今宮経由で紀州路快速に乗り換え、山中渓駅へ。山峡の静かな駅に2週続けて通う酔狂ぶりに、もはや呆れるほかない。桜並木が名物だが、悲しいかな、今回も蕾のままだった。残念。
 歩道の無い車道をビビりながら和歌山へ。歩行者は全く見当たらず、車の運転者も歩行者は全く想定していないようで、私の姿を目にすると、慌ててハンドルを切る状況で、めっちゃ怖い。

ついに和歌山県へ 8:05

 ゆるやかに下ると、小橋を渡る。この何の変哲もない橋が境橋。つまり府県境である。あっけなく和歌山県へ侵入。
 橋のたもとには、日本最後の仇討場の石碑が立っており、以下のように記されている。
 『安政4年(1857年)土佐藩士廣井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた。大六の一子岩之助は、江戸に申し出て、1年後、いわゆる「仇討免許状」を与えられた。
 岩之助は、加太に潜んでいた三郎を発見し、紀州藩へあらためて仇討を申し出たところ、紀州藩としては、「三郎を国払いとし境橋より追放するので、仇討をしたければ、境橋附近、和泉側にてすべし…」と伝えられた。文久3年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ち受け、見事に仇討を果たしたとされる。これは日本で許された最後の仇討であると伝えられる。』 なかなか物騒ですな…

中山王子跡 8:15

 和歌山県に入り、最初の王子跡である。江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌「紀伊続風土記」には滝畑村の王子権現社の項に境内36間の社地があると記され、同じく江戸時代後期の「葛嶺雑記」(葛城修験道の案内記)には葛城修験の行場であると記載されている。
 また、「和歌山県聖蹟」(紀元二千六百年を慶祝し、昭和12年(1937年)から4箇年をかけて和歌山県下の聖蹟(天皇に関係のある、遺跡・史跡等)調査を実施した、上下2冊、本文1000ページを越える大著)によれば、明治42年(1909年)に春日神社に合祀され、次いで日吉神社(後の山口神社)に合祀され、跡地は滝畑の住人に払い下げられたとされる。
 

滝畑集落へ 8:15

 中山王子跡から数百mほどだが、趣ある滝畑の集落が続く。
 再び踏切を渡り、県道に戻り、ゆるやかに登っていく。
 車の爆音が騒々しい阪和道と並行しながら進むので、趣は全くないが、登り詰めたところが雄ノ山峠。
 紀ノ川をはじめ、待望の紀州の光景が見下ろせるが、それよりも目の前には非常に目障りな巨大タワー状の建設中の構造物が… 京奈和自動車道の橋脚らしいが、物凄い高さである。そして物凄い景観破壊である…
 車に慄きながら、急なヘアピンカーブを下る。リサイクル工場が立つ、湯屋谷の追分と呼ばれる分岐を左に、細い車道に入る。

山口王子跡 9:00

 和歌山県側の王子跡は、ほぼこの青い表示板と万葉歌碑のスタイルで統一されている。
 この山口王子跡は、「紀伊続風土記」には「境内周三十二間(略)一には三橋王子ともいふといへり」と記載があり、また、「和歌山県聖蹟」によれば前後9尺4寸、左右8尺2寸の社壇があり旧態をとどめていたが、第二次大戦中に境内の松林を供出のために伐採してから、荒廃がすすんだという。
 長閑な集落をしばらく進む。すっかり平坦になり、紀伊国にやってきたと実感する。加太淡嶋神社への道を示す古い石標のところで、しばし古道と別れ、寄り道。

遍照寺 9:28

 細い路地を縫うように進むと、お目当ての遍照寺が現れる。
 小野小町の木像を安置しているらしいが、残念ながら、非公開だった…
 耕作地を抜け、県道に合流し、西へ。歩道が全く無い上に、交通量も半端ないので注意。

川辺王子跡 9:55

 紀伊上野のバス停で左折し、ようやく静かな路地へ。
 西蓮寺の横に石鳥居が立つ。この川辺王子社跡は、和歌山市上野の地で八王子社として祀られており、後鳥羽院の熊野御幸に随行した歌人、藤原定家が書き残した日記「後鳥羽院熊野御幸記」の建仁元年(1201年)10月8日の条には「次に川辺王子に参る」と記されている。
 川辺王子の位置については、いくつかの異なった考証があり、この上野の他に、この後に訪れる力侍神社にあったという説もあり、神社にも石碑が立っていた。この付近では熊野参詣道の道筋が時代によって多少変わったり、王子社の後身である神社が後世に移転したりしたためと考えられる。

爽快な街道歩き 10:00

 川辺王子跡から神波、楠本の集落へと続く辺りの街道歩きは、今日のハイライトか。明るく開けた耕作地の中を朗々と進む
 結構、道は判りづらいが、要所要所に路面に埋め込まれた熊野古道の表示があるおかげで、ルートミスの不安全くなし。

中村王子跡 10:20

 田んぼの中に看板だけが寂しく立つ。
 「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月8日条に「次参中村王子」との記載が残る。
 ここも跡地は不明確で、「紀伊続風土記」は鎮座地の楠本の旧地名が中村であることを根拠に楠本の楠大明神社を跡地とし、「南紀神社録」(延享3年(1746年))や「紀伊名所図会」(文化8年(1811)〜嘉永4年(1851)刊。全23冊。寺社・旧跡・景勝・地名等の由緒来歴を記し、挿絵を多数加えた地誌)は楠本集落北西端の若宮八幡社跡に比定し、「和歌山県聖蹟」も若宮八幡社説を採る。田圃は以前、若宮八幡社の竹やぶであったという。明治43年(1910年)に力侍神社に合祀された。

力侍神社 10:25

 中村王子跡を過ぎると、桜並木に囲まれた参道が長く伸びる力侍神社(りきしじんじゃ)は近い。
 桜にはちと早く、残念。境内には、最近新調された綺麗なトイレがあったので、ここで少し休憩。
 和歌山県の案内板から「力侍神社はもと天手力男命(あめのたちからおのみこと)を祭神とし、力侍神社の名前も手力男に由来している。南から参道を通って社地に入ると、向かって左側の社殿が本殿で、右側が摂社(合祀されて客分となった神社)八王子の社殿である。両社ともはじめからこの場所に建てられていたのではなく、力侍神社はもと神波に(現社地の北西約700メートル)にあり、その後上野(現社地の北西約1キロ)の八王子社境内に移り、更に江戸時代のはじめ(寛永3年(1626年))に両社ともにこの地に移されたと伝えられる。

 社殿は流造、一間社、檜皮葺きで正面と両側面には緑をめぐらし、擬宝珠高欄をおき、背面の見切に脇障子を構えている。身舎正面には引違いの格子戸を入れ、側面と背面には板張りの壁とする通常の形式である。両社殿とも建立年代を示す史料はないが、各部分の様式や技法からみて16世紀終わり頃に建立されたものと考えられる。木鼻やかえる股などの彫刻も優れており、全体に建立の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例のひとつとして貴重な資料である」
 力侍神社を後に、昔は紀ノ川の渡しがあった、川辺の渋い街並みを抜けると、紀ノ川の堤防に出た。車に注意しながら、少し西に架かる川辺橋へ。

川辺橋からの紀ノ川 10:54

 紀ノ川が雄大に流れる。紀州龍門山も右手にくっきりと。JR布施屋駅は橋を渡り、少し東に戻ればすぐだ。
 布施屋(ほしや)の地名は、この地が紀ノ川を渡った直後の街道上の要所で、旅人の為の一時救護・宿泊施設が数多くあり、熊野詣の旅人を接待したことに由来している。
 心は早や、和歌山市内の昼飲みへ… 果たして、和歌山線に乗り、12時前には和歌山駅前の酒屋が営む「多田屋」さんで痛飲する私であった…

 その6(布施屋〜海南)へ。

参考タイム

3/28JR山中渓駅 7:457:50 山中関跡 7:508:05 府県境(日本最後の仇討場) 8:058:15 滝畑 8:158:40 雄ノ山峠 8:409:00 山口王子跡 9:009:25 遍照寺 9:309:55 川辺王子跡 9:5510:20 中村王子跡 10:2010:25 力侍神社 10:3011:05 JR布施屋駅

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