東高野街道その1(八幡〜四條畷)

−東高野街道シリーズのスタート! 実家の近所を街道歩き−

   

山行概要

日 程
2018年3月3日(土)
天 気
晴れ
メンバー
単独
コースタイム
京阪八幡市駅=0:25=善法律寺=0:10=松花堂庭園旧正門=1:10=出屋敷=0:50=明遍寺=0:15=京阪郡津駅=0:55=星田公園(新宮山八幡宮址)=0:10=星田神社=0:20=JR星田駅(つね川)=0:30=打上の弘法井戸=0:25=JR忍ヶ丘駅=0:30=伝和田賢秀墓=0:10=四條畷神社=0:15=JR四条畷駅【6:05】

記録文(写真はクリックで拡大)

 かつて京都から高野山への参詣道として用いられた東高野街道。数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置し、八幡で京街道と別れ、河内国の東部を通り、河内長野で堺からやって来る西高野街道と合流し、以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至るのだ。もともとは京と河内国府を結ぶ重要な官道であったようだが、その後、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
 迂闊にも、名前は時々聞くことはあっても、ルートとかは全く知らずにいた。大阪府のHPに地図も載せられているのを偶然発見し、よく見ると、枚方の実家の脇を通っているではないか。これは歩くしかない。首尾よく高野山までたどり着けば、未だ未踏である熊野古道小辺路に繋がり、既に歩いている、鳥羽街道京街道熊野古道紀伊路中辺路のルートとともに、京都から熊野本宮へ2本のルートが繋がることになる。
 これはやらねばならぬ。地の利もある。と言うことで、思い立ったその週末の土曜日、早朝の京阪八幡市駅に一人降り立ったのであった。

街道の標識 6:51

 石清水八幡宮の横を抜け、南へ進む。八幡市は東高野街道のPRにけっこう力を入れており、各所に街道の標識が立つ。
 八幡小学校の横には、奈良街道を示す古い石柱と共に、東高野街道の新しい標識も並び立っていた。
 この辺りは街道の面影を残した街並みがしばらく続く。

善法律寺 7:10

 善法律寺は、鎌倉時代の正嘉年間(1257〜59年)に宇佐八幡宮における喜多院に準じ、石清水八幡宮の法務寺院として、八幡宮第27代検校の善法寺宮清が自分の邸宅を僧坊として喜捨し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山した。
 宮清のひ孫である良子が、二代将軍義詮に嫁ぎ、三代将軍義満を産んだため、足利家との関係が深く、義満・義教・義政と、歴代の将軍が何度も参詣している。
 義満の母・良子は、善法寺家の菩提寺である当寺へ多くの紅葉の樹を寄進し、当寺は「もみじ寺」とも称されるようになった。
 ぜひ秋にも行きたくなりました。

松花堂庭園旧正門 7:20

 さらに南へ進んでいくと、松華堂庭園の横を進むようになり、そのさ中に、旧正門が現れる。
 江戸時代の建築とされ、石清水八幡宮の鳥居前にあった宿坊のものを移築したと言われている。この時間に松華堂庭園が空いている訳もなく、庭園はまたの機会に… 実家に近いところなので、何が何でも見て行こうと言う気になれない(笑)
 大阪府のマップでは、松華堂庭園の少し先で右折し、しばらくR1と並行して進むようになっていたが、迂闊にも分岐に気づかず、気が付けば目の前にR1が近づいていた… 排気ガスを浴びながら、洞ヶ峠を越えていく。出屋敷北の交差点でようやく左の脇道に入る。

出屋敷の町並み 8:30

 出屋敷の集落に入る。実は私の実家は、ここから歩いて15分くらいのところ。とは言え、この古い町並みのことは、これまで全く意識していなかった。
 東高野街道は、枚方市の北から南へ縦断しているが、古い街並みが残っているのは、ここ出屋敷だけらしい。
 古い街並みを抜けると、府道18号線に合流し、再び味気ない車道歩きが続く。

郡津の町並み 9:13

 出鼻橋の交差点から左の脇道に入る。畑の中を通過し、女子少年院の前を過ぎると、再び旧街道っぽくなる。
 そのまま進むと、京阪の郡津駅に出るのだが、駅の手前で東へ少し寄り道。

明遍寺 9:20

 グーグルマップを頼りに入り組んだ路地を進むと明遍寺に到着。
 明遍寺は、平治の乱で殺された藤原信西の子、明遍が、浄土宗の開祖法然に帰依し、京都と高野山を度々往復するうちこの地に休息のため庵を作り、近在の百姓に念仏信仰を解いたのに始まるという。
 寺号はこの明遍より起こるが、その年代は明らかでなく、当初は阿弥陀寺と号したとも伝わる。
 街道筋に戻り、郡津駅前を通過し、新天野川橋を渡って、しばらく天野川の左岸を遡ったてからR168に合流し、すぐに府道20号線に乗り換え、第二京阪の高架をくぐる。味気ない舗装路を延々と歩くと、JR片町線をくぐるが、ここで星田神社方面へ寄り道する。

新宮山八幡宮址の長屋門 10:30

 星田の交差点から南東にゆるやかに坂を登っていくと、星田公園。新宮山が公園整備されたもので、新宮とは、石清水八幡宮を本宮と呼び、当地を新宮と言ったことが「新宮山」の由来だと伝えられている。
 山頂部にはかつてこの地に隆盛を誇った「新宮山八幡宮」の宝篋印塔二基が設置されている。ここに六小社と六支院が置かれ、権勢を誇ったというが、全く面影はない。
 公園を反対側に下ると星田神社。

星田神社 10:40

 星田神社の創建の年月は明らかでないが、伝わるところによると、大昔この地に1本の大杉があり、村ではそれを氏神として祀っていたが、この木が枯れた後もその芯をご神体として祀られ、また小さな祠が建てられ、饒速日命が祀られていたという。
 宝永年間(1704〜11年)、巌船明神を氏神とする星田、私市、田原、南田原の村々の間で宮座についての争いがあり、その後巌船の神霊をそれぞれの村に遷して祀ったといわれ、交野の村々に住吉4神の神殿が建てられて以降、これが主神となり、他の村の神社が饒速日命を祀らなくなった中、星田神社のみが古来の氏神である饒速日命を古宮として祀り続け、現在に至っており、その祭祀の伝統がよく守られている。
 本殿は私部の住吉神社同様、奈良春日神社の旧殿を譲り受けているとのこと。
 腹が減ってきたので、ここに来る途中に目を付けていた星田駅近くの「つね川」さんに向かう。星田神社から北に進むが、この辺りは細い路地に寺も立ち並び、なかなか趣のあるところだ。またじっくり見たいところだ。

「つね川」さんの「正式」四川麻婆豆腐定食 11:19

 「つね川」さんの始業と同時に入店。ここの看板メニューは四川麻婆豆腐なのだが、750円の定食に+500円すれば、「正式」四川麻婆豆腐にグレードアップできるらしい。基本料金から6割増しと言う超強気の価格設定に驚くが、大量の麻辣と挽肉が増量されるらしいので、「正式」をチョイス。
 果たして、やって来た麻婆豆腐は、真っ赤っか(笑) 私の感想は、特に辛くもなく痺れることもなく、普通の麻婆豆腐であり、逆にデフォの麻婆豆腐はいったいどんな味なんだろうと逆に気になった。
 ビール2本で、ほろ酔い加減で歩行を再開。星田駅前を通過し、府道20号線に合流。しばらく道なりに進む。いつしか寝屋川市に入ってきた。

打上の弘法井戸 12:15

 打上集落の辺りで、少し左の路地に入ると、打上の弘法井戸が現れる。
 この井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれており、地元の人々から「弘法井戸」と呼ばれ親しまれ、「弘法観念水」と刻んだ小さな石柱が建てられている。水への感謝と高野山へ通じる街道そばにあることから、弘法信仰が結びついたものと推定される。
 寝屋川市には、この打上集落の他にも、3つの弘法井戸が伝わっており、弘法信仰の根強さを示している。
 JR東寝屋川駅のところで片町線を渡り、府道脇の街路をのんびり歩く。何となく街道風情の残る道で、気持ちよく進む。
 忍ケ丘駅前を通過。四條畷市に入ってきた。四條畷市に入ってから、歴史資産の案内板が増え、東高野街道の案内も頻出するので、街道を外さずに進むことができる。
 市民総合センターから片町線沿いに進むと、四條畷市歴史民俗資料館が現れる。無料だったので、しばし見学。ボランティアの爺さんに長時間絡まれそうだったので、早々に逃げ出す(笑)
 R170に合流すると、しばらくで伝和田賢秀の墓。

伝和田賢秀の墓 13:15

 和田賢秀は、楠正行の家臣で、この墓所は賢秀討ち死の地と伝えられており、天保2年(1831年)に位牌型の墓石が建立された。
 賢秀は勇将として知られ、正平3年(1328年)の四條畷の戦いの際、正行が討ち死した後も一人で高師直の首を討とうとし、突撃したが果たせず、逆に首をはねられた。地元ではこの首が敵の喉に、あるいは鎧に噛みついて離れなかったという言い伝えが残っている。
 あるとき地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ治ったことから、賢秀は「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受け今日に至っている。

四條畷神社の鳥居 13:25

 伝和田賢秀の墓からしばらくR170を進むと、四條畷神社前の交差点があり、左手(東)に鳥居が建ち、参道が延びている。
 ゆるやかに参道を登っていくと、境内入口となり、ここにも鳥居(画像)が建っている。
 急な石段を息せき切って登ると、境内だ。

四條畷神社 13:30

 四條畷の戦いで討ち死にした、楠木正行の墓(楠塚と呼ばれていた)がこの辺りにあり、明治期になり明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ崇められるようになった。
 それに伴い、現社地に隣接していた住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、明治22年(1889年)12月に神社創立と別格官幣社四條畷神社(社号は古戦場名から)の社号の宣下が勅許され、翌明治23年(1890年)に住吉平田神社の南隣の地に創建された。
 当社創建以降、明治28年(1895年)に浪速鉄道が大阪市中心部から当社近くの四条畷駅まで開業するなど、神社周辺は大いに栄え、所在地の讃良郡甲可村には「四條畷」と付く施設が次第に増え、昭和7年(1932年)、甲可村はついに四條畷村に改称するに至り、現市名に継承されている。
 参道を下り、JR四条畷駅に向かう。駅近くの町名は「楠公町」(昭和50年(1975年に町名改正したらしい))となっていて、地元の方々の尊敬の念が伺える。
 四条畷駅に到着。市名と漢字が異なるが、改名には数億円の費用がかかり、原則地元の市町村負担のため、変更できないでいるらしい。しかも駅の立地は正確には大東市らしい(笑)
 今日は枚方の実家に泊まるので、片町線で長尾駅からバスで出屋敷へ。8時半ころ歩行していたところで、何か変な感じだ(笑)
 明日も続きを歩もうと思う。

参考タイム

3/3 京阪八幡市駅 6:457:10 善法律寺 7:107:20 松花堂庭園旧正門 7:208:30 出屋敷 8:309:20 明遍寺 9:209:35 京阪郡津駅 9:3510:30 星田公園(新宮山八幡宮址) 10:3010:40 星田神社 10:4011:00 JR星田駅(つね川) 11:4512:15 打上の弘法井戸 12:1512:40 JR忍ヶ丘駅 12:4013:05 四條畷市歴史民俗資料館 13:1013:15 伝和田賢秀墓 13:1513:25 四條畷神社 13:4013:55 JR四条畷駅

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